初めに立ち位置を明らかにしておくと私は現在ただ杏果が好きな人です。
杏果がももクロを辞めること、運営・ファン・メディア等周囲がももクロから杏果を断っていく手つきを受け入れるのに二年半費やしました。
なので今さら5人の、それも2011年あたりのももクロを語ることをご容赦ください。
二年半私は冷静でいられなかった。やっと筆を執れたのが今なので。
では本題に入りましょう。
ももクロは流行期を終えて上手にソフトランディングしたグループであり、その流れを語ると時代性ではなく芸能界のノウハウの話になるので今回はほとんど言及しません。
ももクロが売れた頃盛んに持て囃された「全力」はもはや手垢がついておりいつまでも固執するオタクは嘲笑の対象にすらなっています。
ただやっぱりあの時期がいちばん訴求力があり、我々の多くはそこに惹かれた事実に疑いはありません。
けれども今日に至っても「なぜ2010年~2013年ごろのあの時期、10代のももクロが我々の心を強く打ったのか」への答えが未だ出せていないのではないでしょうか。
本記事でそれにひとつ解答の提示を試みます。
結論から言えばももクロは絶望を乗り越え希望を獲得する新自由主義時代のアイドルだったからです。
次の記事で『進撃の巨人』について語るため、ここでもちょいちょい『進撃』の話をします。
『進撃』もももクロも新自由主義社会であらわになった生存競争の申し子です。
生存競争の中で勝敗を決するサバイバルを潜り抜け、いかに絶望を乗り越え希望を獲得できるか。
『進撃の巨人』を絶望、ももクロを希望に見立てるとわかりやすいですが些か単純すぎます。
なぜなら『進撃』にも溢れんばかりの希望が埋め込まれ、ももクロもまた、その「物語」に絶望を内包しているからです。
- 絶望的な現実を肯定する『進撃』とももクロ
- ももクロと新自由主義の生存競争とAKB選抜総選挙
- ももクロの希望は絶望を下敷きにしている
- 絶望、それでも
- ネオリベラリズムとポストフェミニズム
- ネオリベラリズム下の不安定な社会で希望を語ること
- 決断主義と万人の闘争
- ネオリベラリズムの処方箋・キミとの絆
- 杏果卒業「魔法が解けた」
- 杏果は「絶望」側である
- 杏果流「絶望」から「希望」へ
- 杏果卒業前後の絶望と希望の扱い
- 現在のももクロはハイコンテクストな「絶望」からの「希望」
絶望的な現実を肯定する『進撃』とももクロ
『進撃』の土台にあるのは強烈な「世界は残酷だ」という諦念です。
このフレーズは作中で何度も繰り返されますが、そのすぐあとに「世界は美しい」と一筋の救済を見出します。
通常であれば「世界は残酷」と「世界は美しい」を接続するのは「しかし」「けれど」といった逆説でしょう。
しかし『進撃』は奇妙なことに、この二文を順接でつなぐのです。
世界は残酷だ
そして 美しい
(2巻)
そう 何の意味も無い
だから世界は素晴らしいと思う
(22巻)
なぜ順接なのか。
これの意味するところは強烈な現状肯定です。
どうすることもできない、動かしがたい絶望を前には、その残酷さを受容するしかない。
世界の残酷さと比べたらあまりに小さなはずの「美しさ」を併置することで、逆説的にその美しさは残酷な世界と比べうるほどに価値があると主張しています。
強者が勝ち弱者が搾取される残酷な世界を肯定した中に、弱者の唯一の生存戦略こそが「だから美しい」なのです。
奴隷として搾取され尽くした始祖ユミルが追い詰められた先で一輪の花を見つけるのも同じことのリフレインです。
ももクロも絶望的な現実への肯定をベースに出発しています。
今や運命は我らにかかった 上の連中はサッサと逃げちまった
立場だなんだありゃそうするよな 君しかないからこっちゃ楽だぜ
(『労働讃歌』)
労働階級の悲哀を歌っても、結局「働こう」「労働の喜び」と労働の苦しみを麻痺するようにハイになるのが『労働讃歌』です。
そのプライドは搾取に抗議する形を取らず、搾取される自分を肯定する方向へ行きます。
この曲は麻痺させなければやってられないほどに疲れた労働者を捉えます。
明治維新後の福沢諭吉、戦後の丸山眞男が指摘するように、日本人の特性に目上の者に逆らわない権威主義があります。
この特性が強者に都合よい新自由主義と掛け合わさると強者は利益を総取りし、弱者は一度負けたら挽回の機会も活力も失い死ぬ世界観になります。
これが絶望を生み、為すすべなき絶望への肯定も生みます。
残酷な世界に身を置くにもかかわらず上に逆らわない・逆らえない状況下で、『進撃』もももクロも生存を賭けて戦います。
これからももクロが戦ってきたのはなぜか、一体それは日本社会でなにを意味していたかをつまびらかにしていきます。
その前に確認したいのは、ももクロの戦いはここを残酷な世界にしたシステムを覆す戦いではなく、勝った者がえらいシステムの中で強者を勝たせる偏ったルールに従って勝敗を決する戦いであることです。
「天下を取りに行くぜ」(『ピンキージョーンズ』)とはそんな箱庭のピラミッドで勝利を目指す、システムを脅かさない宣言なのです。
だから世界は残酷なまま。
ももクロと新自由主義の生存競争とAKB選抜総選挙
新自由主義(=ネオリベラリズム)とは市場原理を肯定し個人を軽視する思想です。
ネオリベラリズム社会は市場原理に従って勝者と敗者が生まれるシステムを「弱肉強食は"自然"だから」と放置し、敗者を救済しません。
負けたら終わり。生き残りを賭けて人々を競争に向かわせる仕組みがネオリベラリズムです。
ネオリベラリズムが基底にあるももクロは恐らく外から見れば意外なほどに絶望を隠し持っています。
これもいまいち世間的に共有されていない気がするのですが、ももクロは間違いなく東日本大震災の文脈に乗って売れたグループです。
ももクロが売れた2011年~2013年はまさに、深い悲嘆とそれに応じて「絆」を求める空気の真っただ中でした。
そこに早見あかりの脱退を悲しみの「物語」として構成し、悲しみの逆境に打ち勝ち、大人から課された試練を乗り越えライブ会場規模の倍々ゲーム、夢の紅白出場、夢の夢だった国立競技場ライブを果たし栄華を極めた――のが2014年3月までのももクロの概観です。
普通なら叶いっこない途方もない夢を目指して戦う少女たち。
戦う姿はまた、ネオリベラリズム時代のポストフェミニズムの体現でもありました。
ポストフェミニズムとは「過去の成果によって男女平等は達成し、フェミニズムの役割はもう終わった」とする立場のことです。現在の日本のポストフェミニズムは男女雇用機会均等法による女性の雇用拡大と市場参入のみを根拠とします。
2010年代初頭に囁かれた「アイドル戦国時代」の幕開けは、「女の子も市場社会で競争するのだ」を意味しました。
「アイドル戦国時代」の勝者(なるや)として位置づけられたももクロは、市場の自由化を進めるネオリベラリズムに呼応した過酷な市場競争に(わるい大人たちの手によって)投入されていきました。
現代のアイドル文化を広め根付かせたAKB48、根付くに至るまで48Gの取りこぼした層を拾ったももクロはこのネオリベラリズムとポストフェミニズムの影響を無意識に受けています。
AKB選抜総選挙は競争原理の具現化でした。
過酷な芸能界の舞台装置から生まれるドラマが人々を魅了したのです。
当時、わざわざ少女たちを競争へと駆り立てる48Gに違和感あるいは嫌悪感を抱いて横目に退けながら「ピュア」なももクロにハマったのが我々モノノフでした。
しかし結局のところ、ネオリベラリズムのもとで生存競争に参戦しそこに物語を見出して消費する点では同じ穴の狢だとは指摘しなければなりません。
AKB48とももクロの「物語」(に限定した)相違とは、作為の度合い、物語における偶発要素の多寡しかありません。
ももクロの場合その偶発性があまりに綺麗にドリーム街道を整備したがためにそうは見えなくなっているのですが。
現代アイドルムーブメントを牽引したAKB48とももクロは、やはり同時代の産物であり、競争世界で戦いつづける少女たちのドラマをその時代に刻印したのでした。
ももクロの希望は絶望を下敷きにしている
ももクロ史のナラティブを形成した偶然性。
中でも代えがたい変数として重要なのはももクロのメンバーの「ピュアさ」でした。
当時AKB48のグループ内闘争はモノノフにとって露悪に映りました。
AKB選抜総選挙は、この世界に残酷さを見出している人には「現実の縮図」として、この世界を平和ボケだと思ってる人にも「今どき他にない生命の輝きを供給してくれるコンテンツ」として受容されました。
ではももクロに熱狂した者たちはといえば、多かれ少なかれ残酷な生存競争世界のほうに信憑性を感じた者でした。
残酷だからこそ、どこかでそれを乗り越える希望を信じている者たちでした。
「こんなにも汚い世の中で、戦いに身をやつしながらだというのにももクロだけは、驚くほど純粋さを保っている」
これが「絶望的世界の一筋の希望」と変換され、見事にももクロのパフォーマンスとマッチしました。
構造改革、雇用流動化、社会保障削減、規制緩和による非正規雇用増加、自然災害……。
ももクロが我々の心を打つ「環境」を整えたのは時代でした。
しかしそこでただ明るいだけの希望を歌っても響かなかったはずです。
ももクロのもうひとつの代えがたさ、それはパフォーマンスに最初から絶望を内包していたことです。
生き急ぐかのような切実さ。5人それぞれになんらかの必死さが宿っていましたが、元緑推しとしては、ここで杏果の魂を叩きつける闘志は押さえておかねばなりません。
全力だとか頑張ってるだとか汗水垂らしてだとか全体的なパフォーマンスの特性については手垢がついてる上に古いももクロ観なのでこれ以上は言及しません。
ももクロには「絶望、それでも」があった、これはあの頃のパフォーマンスを見てもらうしかないので。
絶望、それでも
この「絶望」こそが諫山創を捕らえただろうことは想像に難くありません。
なぜなら私がそうなので……。(以後諫山創のももクロあるいは杏果への心情を代弁するときは自己投影です)
如何にして絶望を乗り越え希望をもたらすことができるか。
『進撃の巨人』はこれを極めて高水準で世に問い、ももクロは極めて高濃度で世に溶け込みました。
皆フィクションには現実を飛躍する力を期待します。
早見あかりが脱退するまでのももクロ曲に絶望は含まれていませんでした。
『ピンキージョーンズ』も『Chai Maxx』も絶望なき戦闘曲です。
しかし前述したようにそもそもももクロはその声にそのダンスにパフォーマンスに、絶望に近い切迫感がありましたから、歌詞世界を越えた思想性を帯びるようになったのです。
他のアイドルグループだったら『行くぜっ!怪盗少女』は純粋元気ソングだったし、『走れ!』は純粋ラブソングだったでしょう。
それがひとたびももクロにかかれば笑顔と歌声を届けるために魂かけた決死の戦いとなったのです。
だからこそ早見あかりの脱退は契機になりえました。
物語倫理で言えば正統的で、未来を目指して戦う前半と、喪失(死)によって過去へと引き戻され、過去を背負っていく後半。
我々が感じとったのは、生き急いで見えた彼女たちの背景にある死の香りです。
思春期の少女の危うさ。10代の時代だけが持つ儚さ。死すなわち絶望がその先の希望を輝かせました。
ももいろクローバー時代から『未来へススメ!』や『ツヨクツヨク』に絶望→希望の片鱗は見えていました。
しかし早見あかりの脱退を境として明確に絶望を踏まえた希望を歌い始めたのです。(ももクロの物語化)
奈落の月 暗闇から何度でも生まれ変われる
(『D'の純情』)
また翼が折れようとも 燃え尽きようとも
何度だってやり直せる もう迷わない
(『リバイバル』)
ももクロは音楽面ではあらゆるジャンルを取り込もうと意識しています。
何でもやれるのがアイドルだからと。
「全力で生き急ぐ戦う少女たち」だけではいずれ行き止まりになると危機意識があったももクロと運営は売れ始めた直後からバリエーションを増やそうと試行錯誤していました。
杏果が卒業し、キャラやコンセプトに縛られなくとも強度ある土台を固めた5thアルバムでまた音楽ジャンルは広がりました。
けれども「絶望を踏まえた希望」を歌うことだけは変わらないのです。
『D'の純情』(2011)も『ニッポン笑顔百景』(2013)も『白金の夜明け』(2016)も『リバイバル』(2019)も。
ネオリベラリズムとポストフェミニズム
なのでももクロは絶望を通りつつ希望のために戦う、を基本的な筋書にします。
この戦いこそがネオリベラリズム時代の産物です。
経済的にも心もとなく、社会的にも身分が保証されず、文化的にも絶対的なもののない不安定な時代。
強者が勝ち弱者が搾取される社会を肌身で感じ、心身の生存をかけて戦わなければ生き残れない。
だから、戦う。
どんなに辛くて 長い戦いとしても
信じ続けりゃいつか叶うんだ
『Z伝説~終わりなき革命~』
Stay Gold
君は間違ってなんかない
乱れたこの時代 生きろ 生きろ
『stay gold』
ももクロのメッセージは「過酷な世界を戦い生き抜け」という普遍的なものです。
だから性別の偏りなくファンを獲得したのです。誰もが日々戦いを余儀なくされる現代で。
日本のネオリベラリズムの走りとされる中曽根政権下で男女雇用機会均等法が成立し、その後1999年男女共同参画社会基本法、2015年女性活躍推進法が制定されました。
グローバル競争の中女性を安価な賃金で「活用」したい企業の需要をネオリベラリズムは推進しました。
フェミニズムはネオリベラリズムに利用される形で女性の賃労働機会拡充を得たのです。
ネオリベラリズムは表面上男女の別なく能力主義を取るため、女性も男性と同じように市場競争社会に投入されてゆきました。
芸能界で「戦う」ももクロの姿はネオリベラリズムが浸透した現代の性の別なき労働者にオーバーラップしており、だから「市場経済社会で賃労働できるからすでに男女平等は達成された」とするポストフェミニズムの結果として、それまでアイドルに興味がなかったファンも取り込んでアイドル界にポジションを確保したのです。
ネオリベラリズム下のポストフェミニズム、という観点からすればももクロの提示する目標もまた特徴的です。
「メンバーの誰かが結婚しても女性グループアイドルを続ける」と事あるごとに明言していること。女性が市場社会で賃労働できる、まさにポストフェミニズム世界の思想です。
若さと処女性を求められがちな女性アイドルの壁を越えようとして芸能界で戦う彼女たちの姿は一面ではフェミニズム的でもあります。
モノノフもそのフェミニズム的な匂いを歓迎しています。
「ももクロに若さも処女性も求めていない、恋愛感情なんてもってのほか」と思える自分が誇らしいからです。
しかしながら「結婚してもいいよ、変わらず応援するよ」という姿勢はその実すでに「結婚してほしい」なのです。
「男性賃労働、女性家事労働」モデルの時代が去り、ポストフェミニズム時代の新しい家庭モデルは「男性賃労働、女性賃労働+家事労働」モデルです。
仕事に邁進するバリキャリ女性は結婚できない「負け犬」だったゼロ年代を越えて、賃労働を担いつつ、家庭を維持する役割も同時にこなさなければなりません。
ももクロが「結婚しても、ももクロ」にこだわるのは、例えば山口百恵のように結婚したら仕事(アイドル)をやめて家庭に入る女性像を打ち破るためです。
しかし「男性賃労働、女性家事労働」モデルが崩壊して久しく、「二者賃労働、二者家事労働」にも差し掛かる現在、女性アイドルの領域を出れば実はその姿勢は従来の価値観への反抗としては弱いものです。
女性アイドル界では確かに年齢や恋愛の壁は存在しますが、疑似恋愛を売っているグループではない以上別に社会に反抗するパンクでもありません。
実際結婚してもアイドルを続ける壁は、アイドル文化の定着した現在ももクロがパイオニアにはなりえず、Negiccoやでんぱ組.incが先に乗り越えていきました。
従来モデルを打ち破るポーズを取りつつも、内外から結婚を求められる実際はつまり「新しい規範に適応してほしい」と言われているのです。
ももクロはネオリベラリズム社会にドンピシャで適応したからこそ、最年長なのに結婚してないれにちゃんいじりに見られるように、いくら仕事で成功を収めても男性と結婚しなければ一人前として認められない現代女性の矢面にも立たされてしまっているのです。
ネオリベラリズム社会で女性は、単純に性別不問の能力主義平等が与えられるのではなく、男性と同様の能力が求められるのに加え従来の女性性役割も期待されます。
その過酷な現在を端的に表すのが『MOON PRIDE』です。
女の子にも譲れぬ矜持がある
それは王子様に運命投げず自ら戦う意志
/
女の子には無敵の武器がある
それは弱さに寄り添う眼差しと全て受け入れる強さ
(『MOON PRIDE』)
多くを期待され求められながらも(少なくとも表向きは)軽やかに受け止めてみせ、「結婚しても、ももクロ」を掲げ続ける彼女たちこそは、ネオリベラリズムに適応したアイドルなのだと思わせます。(あまりに過酷)
ネオリベラリズム下の不安定な社会で希望を語ること
「全力で生き急ぐ戦う少女たち」だったももクロ。
数々の「逆境」を乗り越え(という物語を背負って)スターダムにのし上がった2014年3月。
旧国立競技場二日間で延べ10万人、LV含めて約15万人を動員したその頂点で、夏菜子ちゃんは今も語り継がれる言葉を口にしました。
百田「私たちは天下を取りにきました。
でもそれは、アイドル界の天下でもなく、芸能界の天下でもありません。
みんなに笑顔を届けるという部分で、天下を取りたい」
この言葉もまたネオリベラリズムの文脈で読み解けます。
今までに見たように過酷な競争のもとで「天下を取りに行くぜ」と歌ってきたのがももクロです。
ですがその競争が「アイドル戦国時代」に象徴されるライブアイドル界に留まるものであったならば大衆にリーチしたはずがありません。
ももクロが戦ってきたのは「誰もが市場原理に巻き込まれ勝者と敗者に分かれる現代社会」です。
それもその現代ネオリベ社会の枠組みを壊す戦いではなく、序盤に述べたように社会の枠組みの内部で「天下を取りに行く」戦い。これこそが現代人の共感を呼び応援したい気持ちを掻き立てたのです。
総選挙に多少なり嫌悪感があるファンばかりでしたから、明確な敵を定めるわけにはいきませんでした。
敵は自分の中にあった
(『Chai Maxx』2010)
もう分かっているんだろう?ライバルは自分だと
(『Blast!』2017)
最大の敵は自分なんだ」
(『華麗なる復讐』2019)
運営は敵を設定してはファンを狭めてしまうと承知していたためそうはしませんでした。それで結果的に「敵は自分」を落としどころとして、競争社会に身を置きながらも戦いを表現できる歌詞が今も昔も選ばれています。
市場万能主義のネオリベラリズムという過酷な現実を前に、48Gはその過酷さを暴露かつ増幅するように剥き出しの資本主義と競争で応答しましたが、ももクロは過酷さを追認しつつワンクッションくるんだファンタジーを提供しました。
だから戦う敵はそこらの他者ではなく自分だし、だから、目指す天下は「笑顔」になったのです。
この「笑顔」は「自分」よりもずっと抽象的だから名言でした。
不安定な社会を生き抜くには確かなものが必要です。けれど確かなものこそ崩壊したから不安定になっている現代、具体的な何かを拠り所にはできません。それもまた壊れてしまう予感があるから。
社会に寄りかかれないならば、身近な「自分」から一足飛びに「大いなるもの」へと接続することになります。
栄華を極めたももクロの先の不安と、ネオリベラリズム的大企業経営者優遇弱者切り捨て社会が進行していく日本全体の不安とがシンクロしていた国立競技場で、この「笑顔」は絶大な効用がありました。
ももクロはコンセプトのスクラップアンドビルドを繰り返して幅を広げてきたわけで、その幅はともすればどっちつかずの散漫なイメージになってしまう危険性さえありました。
そこに一本筋を通したのが原点回帰(ではない)「笑顔と歌声で世界を照らし出せ」(『行くぜっ!怪盗少女』)、つまり笑顔の天下だったのです。
国立以前のももクロは、過酷な競争を前に「どうせ勝てない」と悟る時代の空気を打ち破って次々と規模拡大し具体的な夢を叶えていくドリームに酔わせてくれるアイドルでした。紅白や国立などの具体的な夢は社会の中にあります。
国立以後、具体的な夢なき世界で希望を語るには社会から飛躍しなければなりません。国立より大きな夢はもうさすがに信じられないから。
社会を飛び越えた大きな希望を、ほとんどなんの根拠もなしに選び取ること。夢も希望も何も信じられないからこそ逆に端から信じられないような大言壮語が胸に響く。
日々戦わなければ生き残れない人々に同じ立場から「大いなるもの」を供給してくれた夏菜子ちゃんはまさしくネオリベラリズム時代のアイドルと言えましょう。
決断主義と万人の闘争
「戦わなければ生き残れない」態度を宇野常寛は決断主義と呼びました。
決断主義とは、ネオリベラリズムの不安定さの下で無根拠を承知であえて信じたいものを選択するありようを言います。戦わなければ生き残れないから。
大きな物語を失った不安定な時勢、何もかも究極的には寄る辺なく無根拠であり、ならば自分の信じたいものの殻に閉じこもるしかない。
その結果、各人が無根拠を承知であえて物語を選び求めたなら無数の小さな物語が乱立し、万人による万人の闘争を生む流れが決断主義の時代です。
リーマンショックと震災を経て、官僚や財界をいなせなかった民主党政権もネオリベラリズムを内包する政策に舵を切りました。生活保護の切り下げ、医療費・介護費自己負担額増、労働者派遣法改正で労働者保護の規制を緩和、弱者切り捨てと金融市場重視・大企業優遇の政策を打ち出した安倍政権下で「勝ち組」と「負け組」の創出を正当化するネオリベラリズムは促進されました。
結局のところ『ゼロ年代の想像力』で示唆されたゼロ年代の特徴は10年代にも持ち越されたと言えます。小泉政権の構造改革路線の延長線上に安倍政権があるので。
絶対的なもののない世界、戦わなければ生き残れない、だから無根拠に信じたいものを選択し戦う。この流れをよく表すのが『DNA狂詩曲』です。
正しいコトとそうでないコト (善と悪だけじゃ割り切れない世の中だけど)
クサらずに立ち向かえ 立ち上がれ 「もう泣くんじゃない!」
(『DNA狂詩曲』)
絶対的なものが崩壊し、正しいことや善悪の価値判断がつかない現代で、結局は「自分の信じたいものを信じる」しかない。現代人の肌感覚に合うからこの曲は人気曲だったのですね。
一切和解のないこの世界がもたらすファンタジー
(『DECORATION』)
万人の闘争世界では和解はありません。
でも、だから、ファンタジーが必要とされる。West Sideストーリーみたいな結末はそりゃごめんだから。
ネオリベラリズムの処方箋・キミとの絆
ももクロが絶望を見つめながらも希望を目指して戦えるのはなぜでしょうか。
簡単です。
「キミ(仲間/ファン)」がいるからです。
例を挙げれば枚挙に暇がなく、「キミという本当がワタシを支えてる」(『CONTRADICTION』)や「キミとなら世界変えられるの」(『キミとセカイ』)など、手を変え品を変えキミへの依存を歌います。
背中押してアゲル 蹴ってアゲル キミを好きでいてアゲル
それでもひとりって言うなら 「バカヤローっ!」ってぶってアゲル
(『DNA狂詩曲』)
『DNA狂詩曲』は、「不安定な世の中」だけど「仲間が支えてる」から「戦える」へと接続する流れがはっきりと見える曲です。
「絆なんてもんは今更言わなくていいから」という歌詞は東日本大震災時に謳われた「絆」を自明的に扱っていることを端的に示しますが、そこに表れているのはキミとボクの間にある揺るぎない絶対的関係です。
不安定な世の中だからこそ揺るぎない物語を必要とした者たちがももクロにハマっていきました。
『白い風』のクライマックスがあんなにエモかったのも「キミがいるから、希望に向かって戦える」ことを歌うももクロの真骨頂だからです。
ももクロのエモ3人、れにちゃん→杏果→夏菜子ちゃんとうねりあげていく一連の流れはこの残酷な世界の中で唯一無二を信じさせるように一段ごと希望を純化して提示するパフォーマンスでした。
アスファルト走り出した勇気で出来るだけ未来へ行けるように
キミに会えたこと 自分でいること その全てを抱きしめるよ
届け 今胸で叫ぶキモチ 言葉じゃ素直にはなれない
心にヒカリをくれたキミとならばこえていく どんな今日も
(『白い風』)
ちなみに4人ZZver.の『白い風』は杏果パートをしおりんとあーりんが分けたあと二人ユニゾンでまとめています。
パフォーマンスのエモーショナルが減じた代わりに、全員でこの一連を担うことで「仲間」を強調しました。
「仲間」こそがももクロの要です。
杏果卒業「魔法が解けた」
であるから我々は、杏果の卒業があんなにも衝撃だったのです。
この世の中を戦っていく、結婚しても出産しても何十年も続いていく女性アイドルグループという前人未到の夢を追っていく運命共同体だったはずなのに。
仲間がいるからこの世界を生き抜いていけるはずだったのに。
杏果の卒業時、その衝撃を「魔法が解けた」と形容したモノノフが指していたのは「この絶望的な世を仲間と共に生き抜いて希望を目指す」物語を杏果が共有していなかったと思い知らされたからです。
一番その魔法にかかっており、一番解けた衝撃が強かったのも夏菜子ちゃんでしょう。
「笑顔の天下」と豪語することはできたのに、このときだけは「(これからのももクロに)ずっと着いてこいとは言いませんが……」と弱気になってしまいました。
けれどすぐさまれにちゃんがフォローした言葉は、ももクロ史にとって象徴的でした。
高城「いや、そんなことは言えねえ。ずっと着いてこーい!!」
不安定で、絶対的なものはないけれど、無根拠なまま希望を語る。
これ以上ネオリベラリズム時代的な、ももクロ的なセリフがありえるでしょうか。
まことしやかに口伝された「奇跡の5人」は過去の遺物となり、しおりんから与えられた新たな物語「必然の4人」。
物語によって生かされているモノノフはそんな簡単に魔法が解けるわけもなかったんですよね。(わりと皮肉です)
東京ドームの最後の挨拶で「お前ら全員、着いてこい!」といかにも物語化を恐れず言ってのけてしまうのが夏菜子ちゃんです。
「キミがいるから、戦える」物語の崩壊を防ぐために運営は(川上は)性急にTDFを打ち出したのでしょう。最大の危機を乗り越えた4人もさらに絆を深めていって今に至ります。
杏果は「絶望」側である
やっと杏果について語ります。
個人的なことを言うと、私はつい最近『進撃の巨人』を真面目に読み込むようになりまして、それで前回に引き続きブログを書いています。
モノノフの間では諫山創がモノノフだということは有名でしたが杏果推しだったとは私もこの前まで知りませんでした。
で、こないだ知って、「めちゃくちゃわかる……」と思ったんですよね。
諫山創がももクロの5人にはまりこんで、その上で杏果に惹かれた理由、あまりにもわかる。
なんでかって、杏果は希望と絶望でいったら絶望寄りの人間だし、純粋・素直とニヒリズムでいったらニヒリズム側の人間だから。
そして5人の中で唯一身体的に競争原理を獲得していたのが杏果だから。
ももクロはきらきらした希望を歌い、「笑顔の天下」と大それた夢物語を唱えることができてしまいます。
最初に言ったようにももクロは当初「汚れた世界でなんでこんなにも純粋でいるんだ」という点に魅力がありましたから、まずそこから杏果と乖離がありました。
杏果はいわゆる「汚れた世界」でピュアではいなかった人なのですから。
でも、それが5人のももクロとしてちょうどよいバランスを保っていました。
『モノクロデッサン』では、もはや戯画的"キャラ"を表すだけではなくすっかり自身のものとして共存している色としてメンバーカラーが歌われました。
情熱の赤、希望の黄色、情熱+涙の紫、希望+涙の緑、ちゃぶ台返しのピンク……。
ここで赤黄が陽として、紫緑が陰として割り振られているのはももクロが今まで絶望と希望を歌ってきた証です。(そして、ピンクで調和される)
杏果はももクロの「絶望」部分を担っていました。
杏果の声がなければ、杏果の気迫や切実さや繊細さがなければ、杏果がいた8年駆け抜けてきたももクロの希望に説得力は生まれなかったでしょう。
杏果から出てくる言葉には競争原理への諦念があります。
いいことなんて長く続かないってことは時を重ねるごとに悟ってきたから
次のトンネルが見えて暗闇が近付いてきても恐れず平穏でいられた
(『ヒカリの声』)
頑張ればいいことあるよ、という耳あたりよい価値観から一歩引いて「"愛してる"なんて歌の中だけ」(『ナツオモイ』)とニヒルに構えるのが杏果です。
あの夢はかなわない あの子にもかなわない
相手と過去は変わらない でも変えられる 自分と未来は
(『心の旋律』)
『心の旋律』の冒頭はEXILEダンススクール・EXPG時代の回顧譚です。
ここでの思い出が杏果の人生にとって重要であることは繰り返し語られることからもわかりますが、物心つく前から芸能界に身を置き、何度もオーディションをこなしてきたため勝つか負けるかの価値観が人生基盤にある杏果は、知らずネオリベラリズムの市場万能主義に強く共鳴しています。
負けず嫌いなところもそうです。(最近もファンクラブのラジオで負けず嫌いエピソードを話してくれました……)
あの夢はかなわない、努力が報われないニヒリズムを抱える気持ちはちょっとひねくれた一般人なら身に覚えがあるでしょう。
杏果が一般人と異なるのはニヒリスティックな世界の中でそれでもひたすらたゆまぬ努力に突き進めるところです。
そこが『進撃の巨人』に重なります。
杏果流「絶望」から「希望」へ
杏果の作品世界には、どんなに苦しくても掻き消えそうでも歌と想いを「届けたい」という情熱や、「本物になっていくんだ」という「何時だって挑戦者」な姿勢など、ももクロの理念と近似する部分が多く見られます。
まあ、杏果がいてのももクロだったので当然です。杏果とももクロ相互に共鳴しあって今の両者があります。
『ヒカリの声』は明確にももクロ思想と重なる、絶望(トンネル)から希望(ヒカリ)へと向かっていく様子が映しとられています。
しかし杏果の語る希望は具体的かつ日常的です。
無根拠を承知で荒唐無稽な信念を語れる性分ではないので。
もちろん夢見ることはあるけど、心のどこかで「いや、神様が本当にいるなら、なんでこんなに悪いことが続くの?」とか思っちゃうときもあるし。なんか、信じられない自分がいたりするんです。
ももクロ“有安杏果”1stソロアルバム『ココロノオト』リリース特集インタビュー!
「何も信じられないからこそ逆に端から頼りない大言壮語が胸に響く」のが無根拠を承知で戦いを選択する決断主義の世に求められた希望です。
ですが杏果はそんな希望と相いれませんでした。信じられないからです。
いつもと違う改札から出てみたら小さな屋根の下で花咲いてました
(『虹む涙』)
日常のささやかな「足元の幸せ」(『ハムスター』)こそが杏果の信じられる希望です。
社会の力が弱くなれば身近なものと大いなるもの(キミとセカイ)にのみシンパシーを感じるようになる、という道理がももクロや『進撃の巨人』のようなネオリベ時代のファンタジーを生んだわけですが、反対に杏果は非常に理性的であり、目に見える日常を大事にします。杏果の撮る写真にもそれが表れています。
普遍より個別具体を重視する杏果の作品世界には「高層ビルよりも高い」空(『虹む涙』)、「すぐ次の電車来るのに待てない待てない人達」(『Runaway』)等それ以上の想像を広げるのが難しいストレートな表象が並びます。
『ヒカリの声』に見る絶望と希望は珍しく抽象的ですが、杏果のアイデアで作成されたMVは2人の女の子がそれぞれ飲食店とチラシ配りで働く姿を克明に描写するというもの。
絶望と希望は抽象的・普遍的であればリーチする範囲が広がりますが逆に具体的だと共感しづらい上に隠微ゆえのエモが薄まります。
MVはトンネルの中で光に舞う杏果という抽象のエモが際立つのですが、杏果が見つめる先はどこまでも日常なんですよね。
またこのMVでもあらわになっているのが、杏果に必要なのが「キミ」ではなく「どこか(遠い空)でつながっている誰か」であることです。
杏果がファンに深い愛を抱いているのは周知のとおりです。
杏果が競争原理の中で戦えてきたのは、絶対的に信じられる「キミ」がいたからではなく「みんな」がいたからです。
『ありがとうのプレゼント』や『あの空へ向かって』の「あなた/君」を「みんな」に変えて歌っていたことからも、杏果の世界にいつづけた「みんな」への感謝が杏果を揺るぎなく支えていることが窺えます。
いっせーのでみんなに良いこと起こりますように
(『サクラトーン』)
でも「みんな」はいつでも傍で支えてくれるわけではありません。
「みんな」からの応援を糧に、杏果はひとりで戦ってきました。
ももクロが繰り返し「ひとりじゃないよ」と歌う一方、杏果は「孤独の窮地は終点まで行ってみよう」(『Another Story』)とむしろ孤独を愛する素振りを見せます。
現ももクロメンバーが「ももクロ」によって自分をアイデンティファイしているのに対し、リアリストがゆえに絶えずファンタジーを供給するアイドルになりきれず、周囲に合わせて自分を押し殺していた杏果は「ももクロ」でいられませんでした。
杏果の実感にかなうのは共同体の絆よりも共同体に縛られない自由な孤独なのです。
歌い方も変わりました。
ももクロ時代、キミと共に大いなる希望へ飛躍させる跳躍力が不可欠でした。
力強さのない希望に説得力は生まれせん。杏果には跳躍する力が十分備わっていたし、本人が期待以上に応えていたからももクロがスターダムに乗れたといっても過言ではありません。
けれどソロでは足元の幸せを歌うので力む必要がないのです。
それは一面的には持っていた才能、長所を捨てることでもあります。
無謀なセカイへの希望を目指さず、いかにして日常に潜むささやかな希望を説得的に語りうるかが今後の杏果の課題だと思います。
ももクロは無謀なエモを語ることで夢を実現しつづけてきたアイドルですから、杏果の現実主義は邪魔になることさえありました。
でも実際生きていく人生はエモだけではやっていけません。大きすぎる希望は現実から目を逸らさせる効果もあります。
売れたももクロの中にそういう理性もあったからグループに振り幅が確保できたし私や諌山創のようなファンも着いてこれた面もあったのだし、どちらが悪いというものでもありません。
理性的でニヒリストな杏果だから夢を売るアイドルの方向性が合わなくなってしまった。それは仕方ありません。(断っておくと、杏果がももクロを辞めた原因自体は音楽性の違いだけではないでしょう)
新たに自分で見つけた道を耕していけるのか、杏果の真価が問われます。
すでに杏果はその果てなき道に挑戦しています。
私事ですが前にこのブログで「杏果のライブはいつか行こうとおもう、いつかね」と書いたのですが結局その後すぐ行きましたし、これからも通う予定です。悩んだけど表現が変わろうと杏果が好きなことには変わりないんですよね。
杏果卒業前後の絶望と希望の扱い
落ちサビを任される夏菜子ちゃんを除いて、歌割りパートは概ね均等に割り振られていたももクロでしたが、『桃色空』は違いました。
珍しく夏菜子ちゃんと杏果がメインになって心を分け合うように歌われます。
切なげに叩きつける「絶望」表現が得意だったふたりが序盤じっくり夕暮れの淋しさといのちの儚さを重ねてこの絶望を拡張し拡散する多彩な表現に達成したのは成長の証でした。
絶望を浄化するれにちゃん、癒しで包むしおりん、甘やかな幸福を付すあーりん。絶望をくゆらせ静かに希望に運ばれゆく5人のユニゾン。
その中で核の絶望を象徴しうるのは、杏果と夏菜子ちゃんのふたりだろうと。(このももかなこパートをももたまいで補った現在は、絆と安らぎを色濃くしています)
これは杏果卒業時個人的に勝手に考えていただけのことですが、ももクロで誰が抜けたらももクロではなくなるかといったら、やっぱり夏菜子ちゃんしかいないでしょう。
誰が抜けても別物にはなってしまうけれど、夏菜子ちゃんという芯のないももクロがいちばんももクロじゃない。
絶望と希望を同じ強度でひとつの体に湛えているのが夏菜子ちゃんしかいないからです。
トークやわちゃわちゃ、バラエティ、はたまた「ももクロ」というショーを魅せる総合パフォーマンスの部分で杏果の果たす役割は相対的に薄らいでいましたが、杏果の説得力ある「絶望」色を歌に込められる力強さは他のメンバーの追随を許しませんでした。
だから、杏果の抜けた『Z伝説』はより深い悲しみへ潜ってから希望を歌うよう軌道修正されたのです。
たとえ雨がまだやまなくても傘となりて君を守るよ
(『Z伝説~ファンファーレはとまらない~』)
『華麗なる復讐』や『魂のたべもの』といった絶望色を濃くした曲が増えたのも杏果の担っていた部分の補完ではないかと思います。
新しい曲にも、ずっと言ってきたように絶望的な世界を生き抜くには戦うしかない決意、絶望によって自己確立して信念を選び取っていく決断主義的な表現がついて回ります。
現在のももクロはハイコンテクストな「絶望」からの「希望」
一方『クローバーとダイヤモンド』『Re:Story』など穏やかな希望へとたゆたうような曲も増えました。
その点では『Sweet Wonderer』がももクロの変化をよくよく示唆しています。
「クサらずに立ち向かえ 立ち上がれ」と叱咤激励で戦いへの決意を促した『DNA狂詩曲』とは打って変わって「がんばらなくていい」。
『DNA狂詩曲』の対になる曲は他にもあって、他でもない国立で初お披露目となった『泣いてもいいんだよ』です。
「もう泣くんじゃない!」へ反発するようにストレートに「泣いてもいいんだよ」と語りかけるこの曲は、誰もが戦いに巻き込まれて疲弊しきった現代人に向かって競争主義からの解放を説きます。
ももクロが「全力少女」で終わらずソフトランディングできたのは、目指した天下に迫ったその日に競争を否定するような、固まってきた対外イメージを破壊してブランドを拡張するコンセプトを先んじて埋め込み将来に向けて育ててゆく舵取りがしっかりしていたからです。
あのときファンがピンとこなかった『泣いてもいいんだよ』は、戦い続けた先に多くの経験を積んで落ち着いた「大人のももクロ」という『Sweet Wonderer』に育って実りました。
(まじでわたしは山戸結希監督の大ファンなので監督が杏果を撮ってくれなかったことは唯一くやしい、これから撮ってほしい)
カルチャーは社会の気風を受けて厳しい表象を象りました。
ネオリベラリズム下で皆が生き残りを賭けて天下取るために戦う、強い者は勝ち弱い負けて当然、と。
しかしこれまで形のなかったこの空気は現在カルチャーを超えてもはや「ベタ」になりました。
菅政権が唱える「自助・共助・公助、そして絆」はまさしくカルチャー的な「絆」を利用して福祉の前に自助を公然と自明視するネオリベラリズム思想です。
剥き出しのネオリベラリズムは「安倍政権を引き継ぐ」と公言する本政権で更に加速するでしょう。
共同体主義で権威主義の日本では、人のせいにしない(何かのせいにするのはもうやめた/『サクラトーン』)(相手と過去は変わらないでも変えられる自分と未来は/『心の旋律』)、システムを変革させず上に逆らわず自分が生き残るために自分で戦う(やることやるだけさ労働for you/『労働讃歌』)ことが美事とされます。
そんな自己責任観を歌うももクロや杏果は危うさもあります。こうして利用されるからです。
ベタに成り下がってはわざわざカルチャーが「世界は残酷だから生き残るために戦うしかない」表現をやる意味がありません。
表現力が上がった『進撃』も近年はセリフでベタな言葉を打たなくなっています。
あれだけ資本主義・市場万能主義を煮詰めたAKB選抜総選挙も開催されなくなりました。
『DNA狂詩曲』はもうあの頃のようには刺さらないし響かない、そういう時代です。
むやみに外敵を設定せず「敵は自分」と余地を残しておいた戦略は正しかったと言えましょう。
ももクロは『Sweet Wonderer』的な世界に落ち着いたかといえばそうではなく、見てきたように絶望も戦闘態勢も追い求める希望も新たに紡いでいっています。
ただももクロはもう麻薬のような「絶望」と「希望」の落差激しいパッションだけに頼る必要がなくなったということです。
すでに引き出しは増えています。
一見しただけでは素朴な希望に満ちる『あの空へ向かって』が歌い重ねるごとによろこびもかなしみも包摂していったように、今彼女たちが歌う希望は「刺さる」わかりやすさを希釈したハイコンテクストなものになっています。
『笑一笑』だって、今からももクロを聴き始める人に「乱世をこの先何十年も共に渡っていくはずの仲間だった杏果が発表からわずか一週間で突然卒業して、メンバーへの発表すら一か月弱前で、急に4人になってから初めての曲で、ショックを受けていた夏菜子ちゃんが救われたと言った初仕事」という文脈をわかってもらうのは難しいでしょう。
『笑一笑』が象徴するように、ももクロは曲も、そのパフォーマンスも、ハイコンテクストな「絶望を乗り越えた希望」に塗り替えられました。
東日本大震災直後の『ももクロのニッポン万歳!』はまさに東北へ向けて幼き日の杏果のエモーショナルな希望がわかりやすく刺さる構成でしたが、『ももクロの令和ニッポン万歳!』の「大好きです」は全国に向けて4人で歌い分けられました。
すでに『DNA狂詩曲』も『ニッポン万歳!』もわかりやすさで勝負するエモ曲ではなくなり、代わりに『桃色空』が染み入るグループになっていたのでできたことです。
時代は流行で測るものなので流行期を過ぎた今のももクロを一概に時代性で読み解くことはできません。
ただももクロにはネオリベラリズムに基づく決断主義が根底にあったし今もある、今のももクロも今の杏果もそこから派生しているのだ、とまとめられるでしょう、というだけです。
しかしいちばん最高にかわいい杏果の顔ってここ(3:58~)じゃないすか?