青い月のためいき

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ネオリベラリズムと『進撃の巨人』 -新自由主義下の自由と絶望と希望-

進撃の巨人』32巻時点の記事です。
32巻までのネタバレがあります。33巻収録分については大きなネタバレはありませんが踏まえてはいます。

koorusuna.hatenablog.jp
前回記事の続きです。
前回はももクロを分析しましたが、今回は主に『進撃の巨人』について語ります。


先の記事で『進撃の巨人』にあるのは強烈な現状肯定だと述べました。
大きな理不尽を前に個人は抵抗すべくもないからです。
受け入れるしかないのなら、せめて傍にある幸福を慰みにするしかありません。

この現状肯定はNTRにも垣間見えます。
どうせ現状を変えることなどできない、上に楯突くことも学んでいない己は使い捨てられて終わる。
そんな諦念がいっそが興奮に変わってしまうのがNTRです。興奮は残酷さを麻痺させてくれます。(NTRを考えてみる - 青い月のためいき


NTR世界は強者男性/弱者男性という二元的な男性観しか持っていません。
ネオリベラリズムは、弱肉強食という単純すぎて理解しやすい世界の理屈を作り出すことに成功しました。
勝ち組/負け組の二元論の世界で、弱者の足場はますます不安定になっていきます。

新自由主義

新自由主義(=ネオリベラリズム)とは市場絶対視、個人の自由軽視の思想です。
古典的自由主義は個人の自由を尊重するために市場放任を重視しました。
ロールズ以来のリベラリズムは広く個人の自由を確保するために、自由を妨げる要素を取り除こうと国家による福祉の拡充を掲げました。

対してネオリベラリズムはその市場万能主義の根拠を個人の権利尊重にはしません。
市場経済重視、すなわち金融規制を取り払って経済の自由を確保するということで、「自由主義」ではあるのです。
しかしその名と裏腹に個人の自由は軽視するため、国家は福祉を保障しません。

市場原理は必然的に富める者と貧しい者を選り分けます。
何をどのように消費・生産するかは「自由」だけれども、市場競争を前提としたその自由は競争を戦う自由であり、悪い結果は自己責任のため、つねに勝者と敗者がいて負けたら終わりの世界。
いわばいつ谷底に落ちるかわからない崖を登らされ、頂点目指して周囲と競争させられているような過酷な戦いを強いられているのです。

『進撃』はまさにネオリベラリズム時代感覚を一身に引き受けた作品です。
本記事ではネオリベラリズムを軸に、大別して「『進撃』における自由」の分析、「『進撃』はなぜ残酷な世界で戦えるのか」の探索、「ニヒリズムの絶望と希望」、「ネオリベラリズムナショナリズム」の四点を考察します。

『進撃』における「自由」とは

まずは『進撃の巨人』最大のテーマ自由について。
『進撃』は「自由」をどのように描いているのでしょうか。
概括すれば『進撃』の「自由」はどれもネオリベラリズムを前提にした自由であると言えます。
この自由は結局のところネオリベラリズム構造内の自由であり、弱者はもちろん強者も構造から逃れることはできません。
ですから『進撃』にはほんとうに何からも解放される自由はありません。
「敵は世界」すなわち『進撃』の世界にはネオリベラリズム以外の思想から構成された社会は想定されていないのです。不況が続いた日本の帰結でしょう。
誰もが「自由」市場に立たされ、生き残るために戦わされ、各々の「自由」の結果世界はバトルロワイヤルの様相を呈します。

では『進撃』の「自由」がどんなものか、その「自由」が一体なにをもたらしたか、みっつの要素に大別して分解してみましょう。
みっつとは①市場原理に従い市場経済の結果を全肯定する経済活動の自由、②個人尊重のリベラリズム的自由、③自己を誰からも妨げられない消極的自由と、ほしいままにする欲望する積極的自由のことです。

①の市場原理の自由は弱者に不利なルールです。勝者が利益を総取りすることをも肯定するからです。
生まれながらにして存在する格差を是正する機会がありませんし、一度負けた弱者にはチャンスもない。なのに元手や余裕があって手にした利益をいくらでも増やしてよい強者と同じ土俵で戦うことになります。
『進撃』はこの結論を残酷な世界と呼び、前提にして出発します。強者も弱者も別なく市場に投入されるけれど圧倒的に弱者に厳しい実態を描きます。

②個人尊重によって得られる自由はリベラリズム思想と近似します。
個人を蔑ろにするネオリベラリズム社会で『進撃』が個人尊重を描くのは、これも実はネオリベラリズムが進行した結果であることを分析します。

③の消極的自由と積極的自由の別においては、消極的自由が積極的自由に変化し、①の自由が促進された世界では自由同士が衝突してしまう論理を解き明かします。

①②③すべての自由は誰もが生き残りを賭けて闘争させられる厳しいネオリベラリズム社会から逃れられません。
次項から①②③の詳細を見ていきます。

強者総取り、弱者を見捨てる不均衡なルールで運用される市場経済の自由

「どれだけ世界が残酷でも関係無い」

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(4巻)

①、市場原理的自由。
巨人に食われているのに「自由」。まさに自由を奪われている真っ最中に。

この矛盾はネオリベラリズムの市場競争で説明できます。

どれだけ世界が残酷でも関係ない――換言すれば、どれだけ勝敗ありきの競争社会で勝者に有利なルールかつ敗者が死ぬ世界でも、勝つために競争するのは「自由」なのだから戦う、と宣言するセリフです。
自由を獲得するためには死しても構わない、という論理ではありません。
自己利益の追求を無制限に肯定する市場万能主義では強者が勝ちつづけ弱者が負けつづけることさえ承認します。
弱者が初めから選択の自由を奪われていることが公然と織り込み済みなのです。
だから「世界は残酷」だし、同時に競争する「自由」がある。一見相反する概念が両立するのはこのためです。
この自由は競争する自由だから「戦え」 へと接続します。

犬に食われる残酷な「自由」の正体

エレン父、グリシャ・イェーガーの妹は、グリシャがゲットーからの自由を求めた代償に殺されました。
エレンはその事実を知り、もはやそれまでのような「自由」を信じられなくなりました。

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(22巻)

ピラミッドの頂点をかけた生存競争。
だがそのピラミッドは偏りがあり、強者に多くの権益が寄り弱者に不利なルールで運用されていることがここで示されています。
これこそがネオリベラリズムにおける「自由」です。
自己責任論は本人が自由に選択した結果、たとえ立場が悪くなろうと扶助を受けずに結果責任を引き受けろという価値観ですが、所与の「自由」には格差があるのです。


従来の日本、というか人の移動が少ない強固な共同体社会の「責任」は共同体の役割を引き受けることです。
共同体の役割を果たさないことはそれだけで悪であり、責任を放棄したとして制裁を受けます。

自己責任論は、日本ネオリベラリズム的政策の推進、小泉政権時に拡散しました。
この時期固定的な人間関係が緩まり、相対的に共同体が解体しました。(派遣法改正等の雇用の流動化、終身雇用制の不安定化、バブル崩壊の顕在化と景気の悪化、グローバル化と国家間(価格)競争の促進がこのとき重なりました)
そうすると共同体の役割責任が弱まる代わりに自分のことを自分で決めなければならない決定責任が問われるようになります。
やるべきことが決まっている役割責任とは違い、選択できる自由度が高い代わりに裏切られても制裁の仕組みもないので自己責任を引き受けねばなりません。

このように社会は変わったけれど、それでも今までの論理を180度覆すことはできていないので、役割責任と決定責任が同居する結果となりました。

だから日本の自己責任論は「十分に選択肢が与えられた中で本人が選択したなら結果責任はすべて引き受ける」だけの責任観ではありません。
その決定責任に加えて「共同体から与えられた責任を放棄したならばその罰を受けるべし」という理路の役割責任が上乗せされた自己責任観です。
つまり役割責任を放棄して自由を求めたこと自体が悪なのだから、役割責任放棄を自分の意思で決めた自己決定責任を引き受けるべし、と。
その選択が本当に十分な選択肢の中から選ばれたものだったのか、不均衡がなかったかは考慮されません。
被差別属性がかけられる制約が不当に多いという差別問題はネオリベラリズム下においてはそのまま「負け組」が負け続ける偏ったルールで再生産されます。

(被差別)共同体のルールからはずれたグリシャはそれだけで悪なのです。だから妹は殺されました。
これが不均衡なルールのもと強者にも弱者にも「平等」な「自由」の正体です。
セーフティネットのない「自由」な競争のもとでは強者が生き残り弱者は死ぬ、というネオリベラリズム的価値観が裏に存在します。

「私達は私達の力で人権を勝ち取るしか無いの」

初期のガビはマーレの共同体の敬虔な忠誠者です。
エルディア人として収容区に隔離されピラミッドの底辺に追いやられながら、名誉マーレ人として底辺内のピラミッドで頂点に立ちます。

ガビは初期のエレンをなぞったキャラクターです。
であればガビはエレンというキャラクターが作品内外で何を表現していたかを整理する役を担っており、だからこそ後期『進撃』の要になりました。

エレンは自らは調査兵団に心臓を捧げなかったし、壁内の中央憲兵にも積極的に反旗を翻したりしませんでした。
エレンは「人類の希望」として保護され、例えば3巻のアルミンが「心臓を捧げる」と代わりを担いました。王政打倒も中心になったのはエルヴィンら幹部であり一兵卒であるエレンは思想に関与していません。
調査兵団とエレンは巨人を駆逐する目的が一致していたので共同体が個人の自由を奪ってくる事態にはならず、エレンは上に反発する必要がありませんでした。
ほんとうなら一歩はずれればエレンの自由への渇望は国家体制や全体への奉仕と対立してしまいます。
意図してか結果的にか、全体への奉仕を脇キャラクターに分散させてエレン本人は理不尽と戦えたのでした。

ガビのその忠誠心はだから、エレンのようなこの世の理不尽への抵抗と、周囲にあった全体主義を掛け合わせた「体制に都合のいい戦う弱者」として描かれました。
ガビはマーレに「良い人」と認めてもらうために戦ったのですから。

ピーク「「善良なエルディア人」であることを証明し続けても私達が解放される日は来ない
私達は私達の力で人権を勝ち取るしか無いの」
(29巻)

一神教の影響が希薄な社会において人権とは曖昧模糊とした神様に用意されているのではなく、国家から与えられるものであるという理解が直感的にわかりやすい。
ファルコが復唱させられた「九つの巨人」継承の栄誉は「祖国マーレへの忠誠を存分に示す権利」です。
臣民が天皇のために死ぬ権利を国から賦与されていた大日本帝国と重なります。
名誉マーレ人となっても戦争で酷使され都合よく使われた挙句最長13年で他の候補生に食われて死ぬ国の奴隷になる。
ガビにとっての人権はまさにこういった国賦人権だったのです。
「善良なエルディア人」への昇格は底辺内のピラミッド競争に勝つことを意味しており、ネオリベラリズムに沿うものでした。
ガビの戦っているピラミッドの構造そのものを暴いたのがピークの言葉なのです。


『進撃』が個人の自由な選択を重視するのはなぜか

②、個人尊重のリベラリズム的自由について。
経済的自由を追求し個人を軽視するネオリベラリズムとは異なり、『進撃』には随所に個人の選択を重視する描写が見られます。

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(6巻)

選択したということが何より肝要であり、その結果が責められることはありません。
エルヴィンを見殺しにしたリヴァイにしても、多少の反発はあれハンジは受け入れるし、兵長に反抗したエレンやミカサは懲罰を受けるのにリヴァイはその責任を問われませんでした。


競争原理を放任し個人の自由も尊重する『進撃』はリバタリアニズム的に思えます。
実際この個人尊重は自由主義の産物です。
しかしリバタリアニズムが個人の権利を根拠に競争原理を肯定するのに対して、『進撃』は個人の前に競争社会が重座します。
大前提として『進撃』は経済競争を是とするネオリベラリズムに依拠していましょう。

ではここで描かれる個人尊重はなんでしょうか。

第一に言えるのは戦後民主主義です。
日本国憲法に記された基本的人権の尊重が人々の意識と制度を支えました。
時代の変化に伴い行きつ戻りつしながらも個人の人権が獲得されていきました。

第二に、ネオリベラリズムの影響が考えられます。
リベラリズムは福祉拡大で個人の選択肢を増やすことで個人尊重を叶える思想ですから、福祉のない『進撃』と根本的に相入れることはありません。
そうではなく、社会の新自由主義化によって個人主義が確保できる余地が生まれた分、結果としてリベラリズム思想が少しずつ拡大していったのが日本の実態でしょう。
つまり、経済・雇用の不安定化によって一億総中流社会幻想が崩壊し、絶対的な寄る辺が喪失したことで「みんなこうあるべし」の縛りが弱まり、副次的に個人が選択できる範囲が増えてきた日本社会の特質が、個人尊重思想を育んだと。
それが『進撃』の個人尊重に繋がっているのです。

ただ、そうは言っても日本は社会に囚われない強固な個人像を夢想できるほどではありません。
その個人尊重は社会に縛られた限定的なものとして描かれるのです。

元来個人主義が根づいたことのない日本では、コミュニタリアニズム(全てを「個人」で選択できる強固な個人像を描くリベラリズムに対し、コミュニティの関わりが個人の選択に作用すると批判する思想)を持ち出すまでもなく、個人は社会から逃れられないことを直観的に知っています。
ほんとうに何にも囚われない自由な選択はありえない。
エレンが女型の巨人相手に旧リヴァイ班を信じて進むことを選んだときも、レイス家の地下で硬質化を選んだときも、アルミンたちに戦う自由を与えてさえ、それらは非常に限定的な切羽詰まった制限下にある「自由」なのです。

ネオリベラリズム下の「自由」な闘争には果てがない

エレンの虐殺

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(33巻)

では縛られることを拒絶しきったエレンが辿り着いた「自由」はどのような概念を擁しているのでしょうか。

エレンの求めた「自由」はバーリンの「積極的自由」「消極的自由」に振り分けられるでしょう。これが③の自由です。
「積極的自由」とは意図したことを実現する自由です。この自由を前提にすると、各人がああしたい、こうしたいという要求を実現しようとするので、自由同士の衝突が発生します。
「消極的自由」とは自分の選択を他人から妨げられない自由です。私的領域の不可侵を求めるため、各人は干渉しあわないことで衝突を避けられます。

壁と壁を取り巻く巨人の抑圧にフラストレーションを抱えていたエレンは当初奴隷状態からの解放を求めていました。しかし壁の外の現実を知り、最終的に世界大虐殺を試みるまでになります。
「消極的自由」はともすれば「積極的自由」に変貌する、『進撃』はその過程を活写しているのです。

33巻でエレンが達した「自由だ」は食うか食われるかのピラミッド競争の頂点に立ち得た勝利を示します。
ピラミッドの頂点に立つことはその下に膨大な数の敗者が踏み潰されていることでもあります。勝たなければ生き残れないピラミッドをつくったネオリベラリズム社会は必然的にそうなります。
競争する「自由」によって敗者は皆死ぬ。だから「自由」になれない。

しかし生き残った強者が「自由」になれるとも限りません。勝者もまた勝敗決するピラミッド構造の中にいるのですから。
ケニーが最期壁の王ウーリを指して「みんな何かの奴隷だった」と理解したのはこのピラミッドが見えてしまったからです。
壁の中で勝者になれたとしても、結局生存を賭けて競争させられていることに変わりありません。
システムを破壊しない限りは勝者も敗者も結局社会構造に囚われたままだということです。
アルミンがエレンに問う「君のどこが自由なのか」「屈した奴隷はどっちだよ」はこのネオリベラリズム社会下で誰もが不自由であり奴隷であることを看破しています。
だから物語はエレンの「自由だ」では終わらない。
誰もが構造の奴隷になってしまう競争の自由へ疑義を呈し、構造の外へ突破しなければなりません。

サシャが死んだこと

サシャがなぜ死んだのかといえば、人を殺したからです。
自由を獲得することは他者の自由を奪うことにもなりうる、という後期『進撃』のテーマが浮き彫りになったのがレベリオ収容区の襲撃。
ここでの自由とは、基本的人権概念で言う自由権(身体的自由、精神的自由、経済活動の自由)ではなく、人権の根幹である生存権であることは確認しておきましょう。

ほしいままに好き勝手する積極的自由なら他者の人権を奪う前に制限されて当たり前です。
エレンが行ったのは積極的自由ですが、求めた自由は誰にも選択を妨げられない消極的自由だからこそ、その権利衝突は深刻になるのです。
エレンは自己を死守したいばかりに他者との衝突が避けられず、自己保存要求は積極的自由化せざるをえなくなりました。

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(2巻)

食う者と食われる者。生きるために他者を殺さねばならない原理。
市場原理はしばしば自然界の弱肉強食に例えられます。サシャの食い意地は「生きる」意思の誇張的発露でした。
後期に露見したエレンを象徴するセリフ、「他人から自由を奪われるくらいならオレはそいつから自由を奪う」がここに重なります。
サシャもまた、というか多くの人間は等しく、他者の命を奪って生きています。

ただ、巨人は食った人間を吐き出す設定となっています。
つまり初期『進撃』は正体不明の理不尽によって、エレンたちの生存競争は理不尽への抵抗という形を取っていました。他者の命を奪って生きる世界の理は上記描写程度に留められ、得体の知れない巨人に覆い隠されていたのです。
けれど後期『進撃』は対人間相手だから、対等な生存権を懸けた万人の闘争の様相を呈することとなりました。

サシャ「大丈夫ですよ
土地を奪還すればまた…牛も羊も増えますから」
(1巻)

「牛」や「馬」は自由の象徴です。同時に牛や馬を支配して食らうことで自分たちの自由を確保しているサシャたちの立ち位置をも表します。
サシャが死んだ瞬間エレンが思い出して笑ったのも、他者の命を奪わないと守れない自分の自由のあり方にアイロニーのような感情を抱いたからではないでしょうか。
他者から自由を侵害され、自分の自由を追求しようとすれば他者の自由を奪うしかなく、そうなれば殺し合いが待ち受けています。
ピラミッドを破壊できなかったから、サシャ父の言葉を借りるなら「森を彷徨ったから」、サシャは死んだのです。
不安定な世の中で、信じられるものはなく、明日死ぬかもしれなくて、それでも思想を得て戦うことを決断したのなら、自分と同じく別の思想を獲得して戦った者と衝突することになる。
「世界は残酷なのだから」。

なぜ残酷な世界で戦えるのか

『進撃』とももクロ -思想があれば戦える-

『進撃』における自由を分解したところで、今度は『進撃』がなぜ戦えるのかを分析します。
敗者即詰みのネオリベラリズム社会にあるのは、戦わなければ生き残れない決断主義です。
決断主義については前回記事で説明したので割愛しますが、ここはももクロを引用したらわかりやすいかと思います。

前記事で見たように、ももクロの世界観もまたネオリベラリズムを下敷きにしています。
不安定な世の中。果てなき競争。

正しいコトとそうでないコト (善と悪だけじゃ割り切れない世の中だけど)
クサらずに立ち向かえ 立ち上がれ 「もう泣くんじゃない!」
(『DNA狂詩曲』)

善と悪だけじゃ割り切れない、つまり究極的には必ず絶対の正当性ある根拠などない。
にもかかわらず戦うことを決意する。戦わなければ生き残れないから。
これが、皆が信じられる大きな物語を死なせ、結果個々小集団が散り散りになり、それらを市場競争で囲い込んで勝ち組と負け組をはっきり線引きしたネオリベラリズムが生んだ決断主義です。

究極的には無根拠だけれども、戦うしかないから自らなにかを選びとって立ち上がる。
前回記事で明らかにしたももクロの時代性がここに表れています。


諌山創は、夏菜子ちゃんの「笑顔の天下」発言*1を受けて以下の言葉を書き残しました。

表現の深みに触れ、その果てしなさを知ったがために
自分なんぞには一生かかっても理解できないだろう、と思うに至る

その不安は、表現の世界に限ることではなく、
未来に対する不安や、人の気持ちのわからなさなど普遍的なものだと思います

しかし、そんな先の見えない暗闇の世界が広がっていても
自分の信じる物語や人の言葉、すなわち思想があれば迷わずにどこまでも進める
それは、人それぞれの立場によって良くも悪くもですが
思想を自分で獲得した時に、人は何者かに成る
現在進行中の黒歴史 : 「幕が上がる」感想2015年3月7日)

『進撃』とももクロを繋ぐすべての言葉がここに集約されています。
芸能界も漫画界も少数のスター以外は多くの者がダストとして埋もれていくし、頼りの経済や社会は弱体化し、結局それらは他の一般社会の縮図です。
薄いセーフティネット、勝てば官軍負けたら終わり、すべての結果は自己責任。

そこには深い絶望があります。
それでも、信じられる希望があれば戦える。
ももクロが歌うのも『進撃』が今まで描いてきたものもこれです。


そしてそのももクロ的な決断主義の負の面を描き出そうとしたのがエレンの大虐殺なのです。
もっとも決断主義的作品は常にその限界と問題点を指摘し続けてきました。
『進撃』の特異性は徹底した絶望とニヒリズム、それに絶望に裏打ちされた希望にありますが、これについては後に回しましょう。
 

絆の危うさ -絆があれば戦える、か?-

ももクロネオリベラリズム下の生存競争の処方箋として「絆」を提供しました。
キミがいれば、生き抜ける。

では『進撃』はどうでしょうか。
7巻、旧リヴァイ班のメンバーを信じても女型の巨人を捕らえきれなかったのは「絆こそパワー」を謳う世間への反発であると諫山創は言いました。
そもそも絆の絶対性を信じてなどいないわけです。

 「絆」の力を信じない『進撃』だから、ユミルとヒストリアも離れ離れになりました。
ユミルがヒストリアと少しずつ築き上げた関係性よりもベルトルトの声を取ったことで、絶対的「絆」の称揚を巧妙に避けたのです。
キミがいれば、生き抜ける。
この論法を『進撃』は採用しませんでした。
絆はネオリベラリズム競争社会の処方箋ではありません。
『進撃』が従来の少年漫画のアンチテーゼである以上、絆を絶対視する立場に懐疑的であり、ももクロ的な形の絆による希望を夢見なかったのも道理です。

有安杏果ももクロも競争社会に身を投じる点は共通しつつも、ももクロが繰り返し「ひとりじゃないよ」と歌い、杏果がむしろ孤独を追求する歌を歌います。
それは、杏果の意図でないにせよ、競争社会で戦いを決意するのに絆は必須でない、絆を信じていなくとも決断しさえすれば戦えることを証明しています――ただし絆を称揚したほうが大衆性を獲得しますが。
諫山創を初め元緑推しがニヒリズムを抱えながらももクロを応援していたことを考えると、ももクロ的絆の希望と、それに対するそんなに物事はうまくいかないよと諦観するニヒリズムの媒介者だったのが有安杏果だったんですよね。


「絆」は諸刃の剣です。 
身内で固まるばかりに排外的になる危険性があります。
そもそも残酷な世界の中で寄り添いあったのですから外は敵だらけ。「絆」は外に対して敵意を誘発する装置へと容易に転換します。

エレンは「みんなのため」に虐殺を敢行しました。
自分が死んだあとも調査兵団のみんなの幸せを願ったように、エレンはそっくり身内を守り外敵を排除する、「絆」の苛烈さを体現しています。
ただアンチ「絆」なものですから身内びいきはエレンが虐殺を決断した唯一の理由(思想)にはなりませんでした。


ピークの「仲間を信じてる」は実にももクロ的です。
マーレに従っても無意味だしエルディア人の解放を願っている、けれどエレンの企みに乗ることもできない。
絶対的に信じられるものなどないけれど、だからこそ選びとった自分の指針は「仲間」である。
そんなピークは虐殺が始まり何をすべきかわからなくなったときも、死した仲間への報いを胸に再び立ち上がります。

しかしそんな仲間への想いはそのまま、エルヴィンが陥った罠でもあります。
エルヴィンが死んだ仲間を背負って追い立てられ、欺瞞を承知で「あの兵士に意味を与えるのは我々だ!!」「我々はここで死に次の生者に意味を託す!!」と語る姿には、死者の命を無駄にしないために生者の命を投入していく本末転倒な構図が端的に表れています。
 いつか獲得する自由のために、仲間を犠牲にするたび死のしがらみに生が絡み取られていくようすは進撃の巨人を継承したグリシャにしても同様です。

『進撃』において「憎しみ」はそれほど重要ではありません。
あまりにも残酷な世界を前に、グリシャも憎悪は萎み、エレンもライナーへの理解を示し、カヤもサシャを殺したガビへの憎しみを克服することができます。
その代わり、生きるか死ぬかの闘争をやめられなければ、いわば森から出られなければ、殺し合いの連鎖は続きます。
仲間の死に報いるためという大義も他者を殺すことにつながるので、森から出られない要因のひとつです。

ももクロが提示した仲間との絆は万能ではなく、であればネオリベラリズムに対する特効薬などない、という結論が、エレンによる世界中大虐殺なのです。

「生まれただけでえらい」再帰性 -存在的安心があれば戦える-

処方箋なき残酷な世界でどうして戦えるのか。
前回記事で見たとおり、ももクロには「仲間」がいました。杏果には「ファンのみんな」がいました。
『進撃』はひとつの解答として、生まれた命を無条件に祝福します。

「だからこの子はもう偉いんです この世界に生まれて来てくれたんだから」
(18巻)

ネオリベラリズム社会ではこれまでの社会基盤がすべて不安定化します。
金も夢も未来もなく、信じてきたものが信じられなくなります。
今までは何か行動するときに「そういうものだから」とただ伝統を繰り返せばよかったのです。
けれど社会が不安定になって伝統が揺らぎ個人主義が拡大すると、「どうしてこれを選んだか」が問われるようになります。
イギリスの社会学者ギデンズによれば、自分の行為がなんであるかメタ視点で評価して自己を再構築していくことを再帰性といいます。
例えば昔はお見合いで済んでいた異性婚も現代では結婚自体をするかどうか、相手や時期を自分で選ぶようになり、再帰性が高まりました。

何かを選択するには自分が確固たる選択する主体にならなければなりません。この選択する主体が再帰的主体です。
存在の危機に陥っているときは新しい経験を受け入れられないので選択もなにもないのです。

だとすれば、社会が流動化し個人主義が拡大すると行為を自分で決定する再帰性が高まるものの、さらに社会流動化が進むと今度は自分で選択するための土台すら失ってしまいます。

エレンは4巻で「どうして外の世界に行きたいと思ったの?」と訊かれたとき、「俺が生まれたからだ」と言いました。ここでは巨人にわけもわからず蹂躙されるがままで、ただ生き残るために戦っていました。
けれどそれでは限界がきます。世界は残酷なので。
「自分は特別なのだ」を根拠に世界を生き抜いていけたエレンも、自分の命の代替性を知り、ついには罪に耐え切れず、生きる根拠を失ってタナトスへ誘われました。(16巻)
自分で選択する再帰性を奪われた状態です。

それを救い、選択できるだけの存在の土台を与えたのがシャーディスから聞かされた母親の言葉です。
生まれただけでえらい。
生まれたことに価値があり、生まれてしまったからには、生きたい。

3巻で獲得した言葉をエレンは再帰的に選び取りました。
「生きたいと願うことがなんであるか、なにを意味するか」を承知した上で。

マーレ編を描いたのも、ガビを活躍させサシャを殺させたのも、ライナーの真実もそして初めてマーレに立ったエレンがその地で生きる人々を見たのもすべて、生き残ること/生き残るために戦うことが一体なんであるかをエレンも読者も承知しなければならなかったからです。
承知した上で再帰的に選び取るのが基盤を失ったネオリベラリズム社会のことわりだからです。
エレンは再帰的に虐殺を選びました。

強烈なニヒリズム。絶望を踏まえた希望

ネオリベラリズム、万人の万人に対する闘争、決断主義
これに対抗するには時間をかけて互いにリスクを背負って地道に歩み寄って相互理解を深めるしかないのだ、けれど時間こそがいつも足りない、と『進撃』はニヒルを交えて描きます。

『進撃』においてニヒリズムは何を置いても重要な位置を占めます。
頑張っても報われない不景気の時代。
大きな物語が崩壊し個人の多様さが露見して、なにをどう頑張るべきかも見えない時代。

ひとつ言えるのはそのようなニヒリズムまじりの悲観主義は強者側の利己追求に都合がよい理屈だということです。
闘争なのだから、勝ち組は利益を総取りして当然だし、負け組は搾取されて当然である。
そして強者に都合のよい理屈は、逆に現状を動かす力なく社会に振り回される弱者にも甘美に響くのです。
つらい現実をどうしようもできないのだったら、自分のほうを麻痺させて慰みに受容できる精神を獲得しなければならない。

それが前回記事で書いた「世界は残酷だ だからこそ美しい」という強い現状肯定なのです。

『進撃』の特徴は、こんなにも「努力は報われる」「絆が勝利を導く」「命を賭せば勝てる」「話せばわかりあえる」なんかの価値観にニヒリズムを唱えているにもかかわらず、それをいかにして乗り越えるかを模索し、絶望と同じ強度で希望を打ち出そうともがいているところです。
それは取りも直さずももクロとの相似です(ネオリベラリズムとももクロと有安杏果 -新自由主義下の絶望と希望- - 青い月のためいき)。
『進撃』の「わかりあえる」希望はいつだって死や暴力の先にしか存在しません。ケニーとウーリ、ジャンとマルロ、ガビとカヤ、アルミンとコニー、ライナーと調査兵団等、誰も彼もが一度は深刻な対立を経て和解に至ります。

和解しても禍根が消えるわけではない。けれどどんなに絶望に陥っても、それでも希望を諦めない姿勢、その希望の達成が「嘘」にならないように描く周到なストーリーテリング
『進撃』はこの絶望と希望のバランスが絶妙に上手く、作品のビリーバビリティ(ありそうな感じ、リアリティ)を損なうことをしません。
このネオリベラリズムも、競争社会も、相互不理解も、差別も、生存を賭けた戦争も、現代社会にとっては「リアル」です。だからこそリアルの延長線上でリアルを越えようとする「希望」を描けるのが強みなのです。
エレンとミカサ・アルミンたちの対立は、だから、その先に希望を見るための通過儀礼なのでしょう……。

ネオリベラリズムナショナリズム

ネオリベラリズム国家主義の親和性

最後に、ネオリベラリズムナショナリズムと家族主義の親和性について押さえておきましょう。

中野(2008)は経済的自由主義の受益者(市場規制なしに経済的利益を追求する)であるグローバル企業エリートと、政治的反自由主義の受益者(個人の自由を制限して国家権力を拡大する)である保守統治エリートが手を組む理由を喝破します。
その理由は①世界観の一致、②利害の一致、③政治的補完関係としています。


今取り上げたいのは①世界観の一致についてです。

弱肉強食という「自然」状態を受け入れることは、個々人や個々の国家を行為主体性や行為の結果責任などの難しい問題から解放するため、なにやらある種の開放感と昂揚感を喚起する側面があるようである。生き残るため、家族を守るため、母国を守るため、自己利益の確保にひた走るのは「仕方がない」ことである、という奇妙な安心感を与えてくれるのだ。
(中野晃一『現代日本の「ナショナリズム」とグローバル化』/『グローバルな規範/ローカルな政治』2008)

経済的自由主義者が想定する人間の本性はひたすら自己利益追求する存在です。
国家主義者にしても「国」の複雑性を捨象し単一の主体であると見なし、であるから各国は互いに競合すると考えるので、両者の世界は一致しています。
各々が自己利益を追求した結果衝突するのは自然であり仕方がないのだ、だから競争に勝って生き残るためには低賃金低価格でコスト削減し内外の敵を根絶やしにするしかないのだ……こうして「残酷な世界」が完成します。*2
グローバル競争が進むと国の差異が弱まり制度が均一になってき国の固有性が失われるため、揺らいだアイデンティティを確保するために「伝統」へと回帰することにもなります。

『進撃』はまず「人類」のために「心臓を捧げ」る全体主義がその構造基盤にあります。
個人が生き残るため戦うことがシームレスに人類が生き残るためには戦わなくてはいけないへと接続しています。
生存を脅かされてナショナリズムに心酔することは、前回記事で見たアイデンティティ不安により形而上で「大いなるもの」を求めるというよりむしろ、生存競争を前提に、(設定し煽動された)外敵への嫌忌を募らせることに由来するのでしょう。
ネオリベラリズムは国家間競争と歩を一にするのだとエレンはありありと体現しています。
自然状態で勝つか負けるか生きるか死ぬかの万人に対する闘争を肯定するネオリベラリズムは、個々人や個々の国家の自己利益追求という「積極的自由」によって個人間・国家間の衝突をも黙認します。
 

ネオリベラリズムニヒリズムに基づく『進撃』もこの構造の中にあり、色濃いナショナリズムに染まっています。
ネトウヨ的な価値観については別記事を立てたい……いずれ……)
しかしながらそれを肯定しているか、といえば微妙なところです。
なぜなら『進撃』においては「自由」が重要だからです。

先に述べたように、ネオリベラリズム市場経済的自由は、庶民を貧困化させることによってそれまでの社会規範を達成困難にし、人々を「皆こうあるべし」から解放する功罪がありました。
『進撃』が優れているのは、ネオリベラリズムは社会基盤を不安定化し個人を全体主義へと回帰させる危険があり、しかし一方で個人の自由を解放する面もあったのだという現代社会の二面性を捉えている点です。
これまで『進撃』の読み方としては、ネオリベネトウヨ全体主義の流れを見る一側面が多く取りざたされてきました。
しかし見てきたように『進撃』は個人の自由を重視するため、立ち現れる全体主義はエレンの自由を求める姿勢と矛盾しないように配置されています。
他にも全体主義を描きつつそれを否定する描写を入れる手法で作品世界への批判的観点を導入しています。
ロマン主義としての「少年マンガ」にみるニヒリズムと倫理の現在 : 『進撃の巨人』と『僕のヒーローアカデミア』 は20巻の神風特攻隊に見立てた突撃を「大量の犠牲の上に勝利を得る」と評しましたがこれは半分誤読です。
エルヴィンは死を美化する特攻を鼓舞しますが特攻作戦はあえなく失敗し、リヴァイはジークを討取れませんでした。負けたのです。(リヴァイにジークは殺せない - 青い月のためいき

しかしながらその鼓舞こそが――人類のために忠義を果たし儚い命を散らしていく悲哀なる義勇こそが物語のカタルシスになっていることも事実です。
『進撃』は「心臓を捧げよ」を肯定しませんが、その否定を巧妙に義のカタルシスで覆い隠すことで物語としての面白さを獲得して人気を博したのです。
アニメ主題歌にもそれは如実に反映されています。
大衆に受け入れられやすい語り口が全体主義への親和性だということ。
作中の個人主義が等閑視され、容易に個人を蔑ろにする全体主義のみ美学を覚える社会への警告として『進撃』を批判するのは妥当とならざるをえません。
日本的個人主義なきナショナリズムは、ネオリベラリズムによる生存競争の残酷さから目を逸らさせ、不安定に立たされた個人を「大いなるもの」へと回収していく危険性をはらんでいるのです。


憎きマーレ、憎き世界に同じエルディア人が住んでいようとも彼らも自分たちを迫害するため、国家内の民族的多様性は無視して単一の敵として虐殺に走る。
ここでのパラディ島差別はエレンが「生き残るために戦わざるをえない」ことに納得を与えるキーとなっています。
弱肉強食は仕方がない、各人が生きるため利益衝突は仕方ない、を受け入れたとき、ネオリベラリズム国家主義も同様の前提と結論を有するのです。

家族

以上のようにネオリベラリズムは歪んだナショナリズムを呼び起こし、加えて、家族を称揚します。

日本のナショナリズムは家族を基盤にしています。
明治期、国を統治する際利用されたのは、人々の生活実態であるムラ的共同体、家族です。家族が家長によって秩序だてられるように国家も天皇を家長とするイエなのだと。
戦前のようなムラ社会と家父長制は解体されましたが、素朴な家族主義は依然神話を保っています。

ネオリベラリズムは市場主義と個人軽視によって社会福祉を削減するので、行き届かない福祉の尻ぬぐいを家族に押し付けます。
自民党憲法24条改正案に「家族は、互いに助け合わなければならない」の一文が付加されているのも、個人の自由を後退させ福祉を削減するためです。

さて『進撃』は家族をどう扱っているかというと微妙なところです。
序盤こそ人類に身を捧げることに疑問を呈する兵士(と読者)へ向けて一段身近な「家族を守るために戦って死ね」と言い、個人をナショナリズムへと動員する契機として「家族」が利用されています。
が、その後特段わかりやすい家族礼賛は見えません。
むしろ家族が個人を抑圧するものとして描かれたり(ジークとグリシャ)、血がつながっているにもかかわらず差別され拒絶されたり(ライナー)します。
特にヒストリアや始祖ユミル等、生殖が愛の結晶ではなく奴隷の証であったり政治的利害判断の結果であるとするのは他作品にはない珍しいほど冷静な生殖観です。

エレンに「オレはお前の何だ?」と訊かれ「家族…」と答えたミカサが「あの時別の答えを選んでいたら結果は違っていたんじゃないか」と思い悩むのはむしろ、単なる共同体としての家族よりも異性愛を上位に置く異性愛規範が勝っているようにも見受けられます。

ただ、アニの父への想い(父に会うために戦う)や、クルーガーの「壁の中に入ったら所帯を持つんだ」「壁の中で人を愛せ」「できなければ繰り返すだけだ 同じ歴史を」等随所に家族愛を無批判に受容する描写もあります。
描写されているからといってその価値観を肯定しているとはいえないのが『進撃』の特徴でもあります。
ここについては最終回まで判断保留です。

おわりに

『進撃』はネオリベラリズムの残酷な世界を前提に、残酷さを克明に描写しながらそれを乗り越えていく希望も説得力を持って探り出そうとしています。
果たしてほんとうに希望を打ち出せるのか。
正直打ち出せない『進撃の巨人』に意味はないでしょう。
各々の自由の衝突を当然視するネオリベラリズム思想を「虐殺を肯定する理由があってたまるか」と乗り越えなければなりません。
簡単には乗り越えられない、だからこそ乗り越えていこうとする意志こそが『進撃の巨人』の真骨頂なのですから。

*1:百田「私たちは天下を取りにきました。でもそれは、アイドル界の天下でもなく、芸能界の天下でもありません。みんなに笑顔を届けるという部分で、天下を取りたい」2014年3月16日国立競技場にて

*2:そのような「自然」状態を実現するには戦後民主主義保守本流を打破し労働組合やその支持政党を弱体化しなければなりません。 市場規制の枷をはずし縦横無尽に利益を得たい経済的自由主義者と、権力は世襲相続した私物であり、制限すべきものではありえないと考える、国家権力を増大させたい政治的反自由主義者は共通敵を倒すために手を組むのだとする分析が②利害の一致と③政治的補完関係です。