青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとか社会を考えるオタク

(移転記念感想記事)オッドタクシー

感想レビューブログをはてなに移転させました。
移転作業が地味に大変だったのでお気に入り記事をこっちのブログにも転記して供養しよう企画やります。
全部で5記事予定。

第2弾です。
お気に入りポイント:
このアニメは新自由主義下の「自己責任」の極致を描くのがうますぎる。
「自分のせい」の行き止まり、閉塞感がすごい。
不足点もあるけどそれも含めて今後の時代次第では結節点になりうる作品だと思って、うねうねしたリアルタイム出力感想のわりにはその分析ができたから好き。

2021/07/27
remain.hatenablog.jp

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書いてくうちに感想がまとまってきたため最初と最後で言ってることがちがう↓


うーん単なるサスペンスミステリーとして見たら面白いと思ったと思う。
小戸川の「41にもなってひねくれ毒舌で友人のことすら馬鹿にして優位に立った気になって人を拒絶するのにそこは玉に瑕くらいの扱いで善人ポジでいられて、表面的な拒絶に動じない28歳ナースにぐいぐい好かれる」キャラが無理すぎると思ったけど動物デザインだからそこまで嫌悪感なく受け入れられたし。

サスペンス群像劇としてはよくできてたし、女キャラの薄っぺらさもミステリー小説にありがちなものとして無視できたと思う。(市村、柿花に罵倒するほどの感情があるの変だなあとか……そんな義理なくね……「ヒッキモ……」か良心が痛むかどっちかじゃないかな)
でも4話でサイコ要素と男性問題の深堀りを感じたためそこに期待しすぎて、あんまり期待した方向に行かなかったから拍子抜けしたかな。

田中が良すぎたんだよ。
あー、小戸川・柿花・田中で少しずつ別の種類の「非モテ」を描く気だなと思って。
田中は「消しゴム」「ドードー」だったからかろうじて視聴者が他者化できるキャラになってるだけで、あれに「女」を代入して「彼女さえできれば一発逆転」思想にしたら典型的な「非モテ」描写になる。(学歴さえ手に入れれば……有名企業に入りさえすれば……とか考えていくと時折「非モテ」関係なくなりもしますけど。)
周りは別に消しゴムばかり気にしてないのに自分ばかり執着してしまうという「わかってます」描写も含めてがんじがらめ感がよく出てる。

非モテ」は被害者になれない苦しみを呼び込む、被害者になれなかったけれどなぜだか苦しい者に残された砦でもあるのかもしれない、という仮説の論拠がいっこ増えた。
柿花は明らかに低収入層だが田中は別にアンダークラスにいるわけじゃない、てとこも徹底している。環境を恨みきれない。被害者になれない。
ここはたまたま同日に見た『親愛なる白人様』シーズン3第6話とも少し重なる。実家が金持ちの白人男性は被害者になれない。


『さらざんまい』は敗北したなって思ったんだよ。そりゃ『さらざんまい』が男オタクにウケないわけだよ。実感がこもってないもの。イクニは鳳暁生は描けても田中は描けないもの。

だからこそこの作品に『さらざんまい』を志向してほしかったんだな、私は。
柿花の救出やドブとの和解を主題に置いて、田中や樺沢が他者(例えば柴垣/ドブ)とのつながりを得てほしかったんだな。
いやそこには行かないとは思ってたけど、それができないとしたら「できない」ことの輪郭を描き出してくれるんじゃないか、「人とのつながり」の欠落をどうにか埋めてほしいと視聴者に思わせてくれる描写をしてくれるんじゃないかと思ってしまったのだ。



樺沢を諭すドブが「なんで注目されたい?」「なんで認められたい?
もっと掘り下げろ」と問い詰めてて期待したのに「それはお前の自己肯定感が低いからだ」で終了してがっかりした。
既存の「非モテ」像を掘り下げた田中を描けるのに既存の「承認欲求モンスター」はそれ以上のこと描けないのかと。
白川さんとドブの共依存も白川さんがドブを庇ったりあそこまで言わせることができるならストックホルム症候群で済ませるな~~~!!
いや田中の心理描写がね、上手かったからね、期待しすぎたんだね。

いやもうほんとこの作品に求めることではないのでしょうけど、樺沢に「メンターを見つけろ」までセリフで言えるのならそこの内実を見たかったんだなってあとで気づいた。



だから本当に本当に小戸川の心の壁問題を全部白川さんに丸投げしないでほしかった……それがすごい嫌だった……白川さんを起点にしてもいいけど柿花を救出するだけじゃなくて柿花や剛力に自己を預ける小戸川が見たかった。
昔の少女漫画を読んでるとどんなに主体的な主人公でもキスなどの行為を全部男任せにしていることに気づいてドン引きするのだが、それと同じ気持ち。
いうてこれが萌え絵なら「ありがちだな」くらいでスルーするのだがなまじ現実派路線だからもしこれがドラマならこんなにメンタルケアから命まで全部ヒロインに助けてもらわねえよと比較してしまう。
こんなに男性の弱さも甘えもわかってる作品なのに女に甘えることを全肯定しちゃうんかい……小戸川自身は甘えてなんかいませんというエクスキューズさえ付加して。
あ~~やっぱ41歳が18歳に好かれるのは美人局だけどギリ20代の大人ならワンチャン心の傷も傷からくるトゲトゲも受容してくれるみたいなでも20代の美人がい~なみたいな隠しきれない欲望が無理……。
メンターが現れるだけでも、女に受容されるだけでも全然どうにもならないんだよ。でも自分だけでどうにかできるわけもないんだよ。
自分が否定されない場所に身を置きながら、時間をかけて、時に専門家の助けを借り人に受容してもらって人を受容して相互コミュニケーション取りつつ自己と対話してからみっともない自分を受容して、経験という説得力積み重ねていく過程が必要なんだよ。
あ~だから剛力が専門家として役に立たんかったの悲しいな。
でも彼の友愛が肯定されていたのはよかった。これが小戸川に伝わっていたらよかったし、少なくとも小戸川にとって白川さんと釣り合うくらいの助けになっていたらよかったのに。



田中の自己欺瞞も美化も許さない「わかってる」自己防衛と開き直りが白眉で。
Fate/Zero』の雁夜は自分の欲望も執着も自覚せず美化した。
だが『まどマギ』のほむらも『進撃の巨人』のエレンも自分のエゴを綺麗事に隠さずどういう結果になるか全部わかった上でやる。
美化するな、自分のエゴを直視しろ。10年代はわりとそうやってどやされてきた気がする。『リーガルハイ』的に。

その延長なのか? というところに20年代、田中がいる。
田中を見てわかるのは、エゴや後ろ暗さを自覚してキラキラ粉飾をやめるだけでは人は変われないこと。
キラキラ粉飾が先回りの予防線にすげ変わるだけでは「自分に向き合えない」問題は解決しないこと。
粉飾も予防線も自分に向き合わないまま生き延びるための生存戦略であること。
生き延びなければならない。切実に。喫緊に。まずは生き延びようとしたこと自体を褒めるべきである。
その後に歪んだ生存戦略を改めるためにはまず衣食住と心理的安全が要る。
他人のせいか自分のせいかなんて二元的原因論に固着して「結局のところ自分のせいである」から逃れられない状態では安全もクソもない。
井戸の中で原因論を求めても「原因がわかった、で? 井戸を出るにはどうすれば?」と途方に暮れるだけ。

ドブ撃って逃げた田中が血の気戻って仕事してるのがいちばん謎なのだが、田中にしろ樺沢にしろ柿花にしろ小戸川にしろ「自分から逃げて逃げて逃げ切れず行き着いた先で憑き物が落ちる」ラストになっている。
サスペンスが主題だった分日常に戻るまでの過程を省略するのは致し方ないのかもしれない。
けど本当はその過程が重要で、みっともなくてどうしようもなくて自己防衛して生存戦略してきた自分とどう折り合いをつけるか模索しなければ立ち直れないはずだ。

けれど彼らは「被害者」になれない。なれないから折り合いをつけられない。
いや唯一小戸川はわかりやすく被害者であり、内省を主題にしないサスペンスの主人公だからすんなり被害者になれてしまって視聴者の安心を買える。
だが田中、柿花、樺沢の「結局のところ自分のせい」は皆、被害者になりきれずに終わる。
田中の「こちらに落ち度がなければないほどわくわくするような大義名分ありの攻撃衝動」が、自己責任から免罪される社会的弱者への憧れを下敷きにしているのは明らかだ。
『親愛なる白人様』で自他ともにヘテロ白人男性として生きてきたゲイヴがアメリ先住民族と偽って助成金を得るような、弱者であることが有利に働く世界への憧れ。

大企業/正社員/年収中央値以上/非身体労働の視聴者でもアンダークラスの柿花に共感できるのは、自分もアンダークラスになるかもしれないという想像力ゆえではない。
柿花の低収入身体労働者設定が、学生時代に培われた彼らの「社会の底辺」意識をわかりやすく表象してくれるからだ。
社会的弱者へのねじれた憧れはこの宙づりになった「被害者になりきれなかった被害感」を拠り所とする。

学校を卒業して社会的立ち位置が明らかに底辺とは程遠くなり現実と意識の間に齟齬が生まれてしまったならば、ギャップを埋めるべく「低収身体労働者」を象徴的に利用することになる。
もちろん実際に低収入身体労働者も柿花に感情移入しうるのだから、柿花の射程範囲は広い。
日本の男性給与所得者の中で年収300万未満の割合は約20%(2019年データ)だし、その中で教室ヒエラルキーの下位意識を持っている人はもっと少ないはずで、とすれば柿花は非低収入非身体労働者以外の階級の男性にも広く訴求していると考えるのが妥当。非アンダークラスから柿花の属性を象徴的に利用する行為は搾取と言ってもいいのではないか?

だからこそ柿花と田中が並立する。

明らかに社会的地位の低い柿花と異なり、一人暮らししながら借金もせずに大金をソシャゲに注ぎ込めるくらいには日々の生活に困窮してない社会的地位が確保されている田中。
付け加えると柿花も働き続けられる限りは自分ひとり食わせるにぎりぎり十分な、福祉の網にはかからない地位にいる。
周りのせいにできない恵まれた人生の挫折や屈託には言い訳がしづらく、逃げ場がない。この惨めな状況になった原因は「自分のせい」としか言いようがなくなる。

「自分のせい」ほど逃れようのない苦しみはない。
田中も柿花も樺沢も「自分のせい」と向き合いきれずに物や女や名声へと目を逸らし一瞬の快楽に執着し虚勢を張ってこじらせた。

彼らが救われる方法は?
前述のとおり衣食住と心理的安全の確保からの他者とのつながり、からの自己基礎工事しかない。(どこをゴールとするかは人それぞれかつその時々。別に自分を好きになる必要も自信を持つ必要もない)
間違っても順番を飛ばしてはいけない。健康的で文化的な最低限度の生活と安全を確保して人とのつながりをそろえてからでないと自分とは向き合えない。
公助と共助のあとにしか自助はなく、自助が先にきたら本作の描くどん詰まりになる。


しかし!
本作の重大な欠陥は「自分のせいの苦しみ」が「自分のせいを引き受ける/投げ出す」ことでなんとなく解決してしまうこと!
樺沢は一人で図書館行く前にまずは大学の就活センターとか学生相談室とか頼ったほうがいいし、柿花はヤクザ絡みなんだから地道に借金返す前に消費者生活センターに駆け込んでほしいし、田中は刑務所行ったあとギャンブル依存症外来/自助グループにつながるべき。
自分のせいの苦しみは甘くない、ひとりだけでどうにかできるものではない、他者が必要。

けれど自分のせいだから自分で解決せねばなるまいという教条すなわち自己責任論がそれを阻む。
ロスジェネが時代の被害者だと認識されるようになったのは極めて最近だし、他者とつながる知識もなければ回路もないし、さらには弱さをさらけ出してはならないという男性ジェンダーへの抑圧も上乗せ加算される。
こうして社会とのつながりが絶たれたまま彼らは自分を引き受けて生きるしかない。

信田さよ子は「自己肯定感」を新自由主義下の自己責任論の現れだという。(『家族と国家は共謀する』)
結局すべての苦痛は自己肯定感の欠如に起因するのだから自分でどうにかするしかない、のならば、人生課題山積みの自分にのしかかる責任はあまりにも重い。
『田中革命』の凄みはこの「自分のせい」のどうにもならなさ、どん詰まり感を表現しきったところにある。

であるならば田中柿花樺沢が「自分のせい」を引き受け、小戸川が白川さんに受容され、彼らが自分から逃げた先に(認知機能の不具合が修正されるような)落着があると描く本作の行き届かなさにも説明がつく。

やっぱり本作は『さらざんまい』できなさ、誰にも頼れず誰のせいにもできず「自分のせい」だから自分でなんとかするしかない自己責任論のいびつさを自覚的に描きはじめたのではないか?

自分だけで対処するにはあまりに途方もないから「行き詰まった先で憑き物が落ちる」「女に全受容してもらう」ことで強引に解決させてしまったのではないか?


本作が「自分のせい」のいびつさを自覚しているならば、二階堂ルイがなぜか三ツ矢ユキの殺人を引き受けたのも「自分のせい」が過剰に拡大していることの歪みを表現しているのだと説明できる。
和田垣さくらの異常性も、負けたらその結果はすべて個人に帰責され、他者は皆敵だから誰の手も借りずに自分で勝利を掴み取れと言うルール無用の競争社会に過剰適応した帰結なのかもしれない。
「自分でどうにかできる部分は足掻きたい」と自助努力する柴垣も報われず、売れた馬場も自分とは無関係に二階堂ルイのスキャンダルで失脚する。自分だけではどうにもならない。どうにもならないのだ。
結果的に和田垣さくらが野放しになり再び小戸川が危機に陥るのも「自分から逃げて逃げ切れなくなって自分を引き受けた先に落着」パターンへの疑義と取ることもできる。女に受容してもらっても解決するわけないと自覚しているから小戸川と白川さんが距離を詰める描写なく和田垣さくらに遭遇したのかもしれない。
自分から逃げても逆に自分を引き受けても安易に落ち着けるわけないよ、自己責任を引き受けただけの人生はうまくいかないよ。

ならば不穏を臭わすラストこそが本作が今までの自己責任論へのオルタナティブに辿り着けなかったことの証左だと思う。

ただ、自己責任の限界を活写したからからこそその先を示す萌芽はある。
小戸川が柿花を助けるのは同じ目的を共有する者の仲間意識ではなく、非ホモソーシャル的な「それ以上でも以下でもないただの友情」による。
柿花は異性愛ではなく友情という人間関係があったから助かる。
剛力の小戸川への献身も純粋な「友達だから」だししかもそれが感動的に演出される。
大門兄が立ち直るための土台は弟の兄弟愛によって築かれる。


それがオルタナティブとは私は言えない。やっぱりどうしても白川さん(美人28歳ナース)の小戸川(41)全面救出がひっかかる。
オルタナティブを描くつもりならこんなに白川さんにおんぶにだっこにはならなかったはずだから。
そうだ、異性愛が嫌なのは異性愛規範が個人の個性と非異性愛を殺すからだけど、男が女に好かれて受容されて救済される異性愛が嫌いなのはそこに互助がないからだ。

「自分のせい」に追い詰められたなら否応なく自己がすべてに優先してしまう。誰も自分を優先してくれないのだから。
柿花にとっての市村、樺沢にとってのドブ、田中にとっての小戸川は、こんなに執着しているにもかかわらず代替可能でどうでもいい。
皆「あなたのせいではない」「あなたは大丈夫だ」と言われたいだけで、「自分のせい」の荷を下ろせるならそれでいい。
けれど下ろせないからこじれた自意識を他人で解消するしかなくなる。自意識でいっぱいのときに互助関係を築くのは難しい。

非モテ」ワードが訴求力を持つのは未だ「モテないのは自己責任」が蔓延る社会だからではないかと思う。男性社会から降りないのは自分次第とまで言われるし、だからこそ「自分のせい」が少しだけ免責される・それ以上追及されないための保身ワードとして「非モテ」が選ばれるのではないか。
モテにまつわる規範には実は様々な「社会のせい」が紛れ込んでいる。
恋愛至上主義、資本主義、家父長制、異性愛規範、「男らしさ」規範とホモソーシャル、性別役割意識と女性差別、教育制度・学校制度、特定のコミュニケーション不文律、婚姻優遇制度、家族主義……。
けれどそれらの解体は進んでおらず「自分のせい」はまだ支配的な価値観である。

そんな自助努力自己責任から逃れたい視聴者の願望の反映で、小戸川は心の壁を自ら壊すことなく徹底的に白川さんのアプローチを受けるのみとなる。
それは男性役割から解放されるオルタナティブを示してもいる。
だが一方で白川さんに付与される女性役割は維持されている。

さらには白川さんはカポエィラ、着衣泳素潜りという驚異的な身体能力によって小戸川の命を救う。
つまり男性が男性役割から解放されるために女性に女性役割(ケア、そのままのあなたでいいという受容)と男性役割(勇敢さ、命の救出劇、恋愛積極性)を押し付ける構図になっている。
それはエヴァ以降のセカイ系に系譜を持ち2000年代から続く「守る女と守られる男」関係の表象であり、従来の性役割への反発だったが、男性が男性役割から解放される裏側で女性に女性役割と男性役割を押し付けるなら女性が割を食うばかりである。
あまりにも男女非対称だ。
非対称に共助はない。

女と共助はできない、男が女を助ければ男性役割へ回帰しかねないと危惧するのならば、「自己責任」「男性役割」のオルタナティブとして異性愛表象はまだ利用できる段階ではないということだ。
だったら異性愛よりもまず同性同士の共助を充実させなければならないのではないか。


そんな行き届かなさ、田中柿花樺沢の結末も含めて『オッドタクシー』は2010年代とこれからをつなぐ結節点になりうる作品だと思った。
「自己責任」から転換する萌芽はあるわけだから、これから次第では自助時代と共助時代を結ぶポテンシャルは十分ある。



ついでの話。
苦痛の中にある「自分のせい」をやめるためにはまず苦しみを外在化することが必要だが、自分で被害を被害と名づけること、ひいては社会に被害と認められることも個人の免責に絶大な効果をもたらす。
前述した「マイノリティを羨むマジョリティ」は自分の苦しみを「自分のせい」にしなくて済むマイノリティへの羨みであるが、現在社会の被害者と認められている属性もかつて、そして現在に至るまで個人の問題とされてきた。
象徴的なのは障害の医学モデルから社会モデルへの変遷だ。医学モデルは障害を個人の心身機能が原因と考えるけど、社会モデルは障害を作り出す社会に原因があると考える。「社会モデル」が国連で採択されたのは2006年らしい。
今も障害者が環境改善を訴えようものなら「努力しないお前が悪い」と言われるし、鬱病患者は心が弱いのが悪い、同性愛も進んで同性を好きになったそいつが悪いとされてたし、性被害に遭った女性にも「そんなことをされたお前が悪い」というバッシングが湧くし、それが性風俗キャストやトランス女性ならなおさら「好きでやってるのだから自己責任」となる。

羨むほどのものはない。皆「自分のせい」にされている。
そういう嵐の中で個々の人々が「個人のせいじゃない」を掲げて社会問題化してきたのだ。


マイノリティ属性を持たない男性にもその時機がやってきたのだろうと思う。
「社会問題だと思うんなら自分でどうにかしろ」という堂々めぐりの自己責任論をかけるつもりはない。自己責任論をこそ否定したいのだから。
でも杉田俊介非モテの品格』や西井開『「非モテ」からはじめる男性学』を始めとする男性学の著は社会問題化の実践とも言えるわけだし、それは「自分のせい」から一歩抜け出す道の模索のひとつだろう。
例えば『「非モテ」から~』ではアルコール依存症グループの「苦しみの外在化」手法を取り入れ、苦しみを自分から切り離して眺める非モテ研究会の試みを紹介しているし、男性が自分を貶める価値観に自ら奉仕してしまうから被害化できず「自分のせい」に絡め取られるメカニズムを記述している。(それは例えば鳥飼茜『先生の白い嘘』で記述されるような「レイプされた私も悪い」と根底でつながっている。それならきっといずれ彼らも社会からの被害を被害化できるようになるはずだ)

『オッドタクシー』の先でもがいてくれる作品が増えることを祈る。