青い月のためいき

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『蒼穹のファフナー』「弱さ」とディスコミュニケーションの幻想

気づけば前回のファフナー記事から半年以上あいてんな。BEYOND4-6話公開挟んでるのに。
原因ははっきりしてて冲方丁の発言(冲方丁 ぶらりずむ黙契録 2019年8月23日ブログについて - 青い月のためいき)でテンション下がってたところに単純に4-6話がつまんなかったから書く気が起こらなかった。
でもまあ今回は無印の話なので関係ないよ。

ファフナーと「弱さ」の話についていろいろ書こうと思ってたんだけど書いてるうちに当初結論としたかったイメージが最終的にしっくりこなくてまた初めから書き直している。
今まで書いてきたような記事ではないです。全然。覚書。
このブログの他のファフナー記事を見た上でこれも読んでくれる人がいたらそこだけ断っておきます。



ファフナー無印って、テーマは「対話」なんだけど、一騎と総士って起から結までディスコミュニケーションなんですよね。
もちろん序盤がディスコミュニケーションなのは妥当。
そこをひっくり返してこそコミュニケーションにつながってカタルシスになるからね。
でも、カタルシスは「対話」にはなかった。
ふたりは対話の過程をすっ飛ばしている。対話がテーマじゃなかったんかい。

ファフナーは自己と他者がまざりあうありさまを否定し、自己とは異なる他者の存在を認めて対話を説く訓話です。
しかし15話のカタルシスは「俺はただ総士ともう一度話がしたいだけだ」であり、16話のカタルシスは「すこしだけわかった気がする、おまえが苦しんでたことが」である。
一騎が自己確立したのは総士との対話そのものではないし、総士への理解も総士との対話からではなくひとりでたどり着いている。
ふたりの対話と呼べる対話は17話の総士お部屋紹介だけ。
そののちはもうわかりあった者同士として諍いも起こさないわけで、だからこそ最終話でも報連相なく突然に別れがくる。
徹底してディスコミュニケーションである。
17話でさえ総士のコミュニケーション下手っぷりが「不器用だな」でゆるく受け入れられてしまう、ファフナー無印って、対話というテーマに反して、ディスコミュニケーションの肯定なんではないかと思えます。
というかじっさい、そうなんだろう。一騎と総士に関しては。


こんなにもディスコミュニケーションであるものをコミュニケーションだと呼ぶのであれば、それはディスコミュニケーション・ファンタジーと言っていいかと。
具体的には16話、対話を拒んだ側が、自らは一切動きださず一方的に正しく理解され救われるファンタジーです。
総士は心情を伝えるための努力もなく相手を理解しようと歩み寄るアクションも起こさずわかってもらっている。

誤解なきよう、私だってまさにその「言葉にできない繊細な心を言わずともわかってあげる」姿にこそ同調したのだから。

ファフナー無印は弱き者たちの物語です。
弱くて当然。自我を追われ、自己と他者の境目がなく、痛みにしか拠りどころがない、不安定な存在なので。
でそれは取りも直さずコミュニケーションに傷ついている自我のあやふやな少年少女、および繊細な成年オタクのための物語だということ。
私ももろに10代のとき一騎の総士9連呼が決定的にファフナーにハマりました。
心のうちで溜めこんだ相手を求める叫びを、相手に聞かせないまま開放させている姿。
コミュニケーションというやり方に敗北し自分だけの感情をうずまかせて持て余していた子どもは自分を肯定された気がして癒されたのだ。

16話は、そんなコミュニケーションに絶望した弱き者たちの「わかってほしい、わかってあげたい」に応えた夢想の具現化でもある。その欲求は弱き者たちにとって普遍的である一方で、やっぱり男がつくった話だなっていう。
一騎も総士もものすごく男性的な弱さを託されていて、それぞれに弱さのファンタジーが肯定されている。

総士を考えてみれば、強圧的態度で誤解されやすいが、一家(島)を維持する負担を背負った者の弱さ。この弱さが対話なしに正しく理解され、救われる。
一騎を考えてみれば、暴力の赦し。暴力を意図せず振るってしまって逃げた者の弱さ。これも、実は相手にとっては暴力ではなく救済だったのだということになり、赦される。

特にこの一騎の話、上野千鶴子の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』の一節を思い出してならないんですよね。
男にとってはむしゃくしゃしてゴミを投げ捨てるような雑なセックスでも女は快楽を受け取るファンタジーを構築し、それで女への支配欲を満足させられる男の論理。
文脈的には圧倒的強者としての男の話だったと思うんだけど、それがファフナーでは振るった暴力に自分が怯えている形式になるのがオタクアニメならではっぽい。
男性というだけで人を傷つけてしまう恐怖感のあらわれというか。それを恐れているからうっかり振るった暴力は許してほしいというか。許してほしいっていうか、あわよくば実は相手にとっては暴力ではなく善きものであってほしい。そうすれば罪悪感を消せるから。(もちろん一騎というキャラクターとしてはそれで帳消しになるわけもないが、視聴者の負担はなくなり、その上で一騎が罪悪感を持ち続けてくれるのは荷を下ろしたことへの免罪符だ)
「お前を傷つけた自分が怖かったんだよ……だから逃げたんだ」って一騎のセリフはもろ自分の暴力性への怯えですもんね。


逆に総士の話だと、少し形を変えたらこれはBLオタクの論理になるんですよね。
男が作った話だなって言ったけど弱さの救済方法はすこし様子がちがう。
こっちは中島梓タナトスの子供たち』を思い出す。……というか、これを読んだから今この文章を無性に書きたくなって書いてる。

 強姦しようとする相手だってほんとはか弱いんだ、「女の子」なんだ(というふうに書いてあるわけではなくこれは私の恣意的翻訳ですが)と知ったときに受けは攻めの強姦を許し受入れようと思う。「受けることによる支配」を感じ取り得たからです。強姦するほうは強姦するほど自分を求めているんだ、と受けは思う。そしてそれを許すかどうか、受入れるかどうかは自分が主導権を持ってるんだ、と思う。そしてそれによってやわらかに受けと攻めはよりそいあい、「お約束」の世界に移行することができる。「誰にだって心のなかにあふれそうなプールがある」のです。だからお互いを守りあい、いたわりあい、優しくしなくてはならない。
 そう、それはとても優しいディスコミュニケーションです。でもディスコミュニケーションです。これはもうはっきりとそういえます。これは「弱者のヒロイック・ファンタジー」なのです。誰にだって心のなかにあふれそうなプールがある、だからそいつをあふれ出させて何がわるい、受け止めてほしい、ぶつかりあいたい、というようにはかれらの論理は発展しない。そのプールを共有しひとつになりたい、というのが、二つの別々のプールがやさしくまじりあってひとつのプールになるのがかれらの最終的願いです。
 本当はコミュニケーションというのは「他人がいかに自分と異なる存在か」ということを理解するためのぶつかりあいです。かれらはそのぶつかりあいも、「他人が自分と異なる存在」だということを理解するのもイヤだ、と表明しているのです。
(『タナトスの子供たち』中島梓pp82-83)

この文章読んだとき、ファフナーもそうだなって思っちゃったんだよね。
一騎の暴力と「強姦」は容易に結びつくけど一見初期総士の冷酷さはそれそのものに暴力性を見出せないから上手くつながらず、最初書いてたものを全部一新したんですけれども。
けど、パイロットよりファフナーが大事だってパイロット相手に言っちゃうのはまあ加害として描かれているよなと思い直した。(同化された甲洋への侮辱発言も)
「仕事と私どっちが大事なの」「(おまえが大事だから仕事しなきゃだから)仕事だ」なんて茶化されたりしますけどこのネタは総士にも男性的弱さを付与されている以上当然根底でつながっている。
そのとき一騎は「なんてひどいこと言う奴なんだ、もう知らん」と指揮官を見捨てるルートもあったわけで、なのに「なにが総士にそう言わせたんだそれを知るには外の世界を見なければ」と汲むルートをいけるのってヒーローでしかない。

でそれは察するっていうタイプのヒーローなんですよね。
察してほしい、察してあげたい、察しあいたいってぶつかりあいを回避したい願望で、一騎や総士をそう造形した制作陣や、制作陣が意識した視聴者たちは、そのような願望を彼らに託している。
「こいつとこいつが通じ合うには言葉はいらない」ロマンを一般的男性的感性で作るのなら、阿と言ったら吽と返す単に察しあいたいが反映されたバディもの的な様相を帯びると思うんですけど、ファフナーの場合総士側に「察してほしい」、一騎側に「察してあげたい」願望を役割分担させているのがBLオタク的だなって言いたい部分。
ファフナーを「強く見える者の弱さ(心の中の「あふれそうなプール」)を見出しその在り方すべてを受け入れたとき、両者は感情の温度も目的も目線も一致してよりそいあう」と見ると、上記の引用した典型BLの構造とおそろしいほど合致する。
現に一騎と総士は16話でやさしくまじりあっている。

ファフナーは対話の重要性を説き、「プールを共有しひとつになりたい」感情を否定します。
が、ほんとうには自己と他者が異なる存在だとは描いていない。
対話なしに総士の真意を理解してしまうのもそうだけど、一騎は総士の真意をわかった上でそのスタンスに反対し相いれないなんて方向にはいかなかったから。
「「他人がいかに自分と異なる存在か」ということを理解するためのぶつかりあい」はひとつも重ねなかった。
一騎と総士は、一騎が「お前が苦しんでたことが少しだけわかった」と言った時点ですべてをわかりあい、許しあい、受け入れあった。
対話を経ない和解。これこそディスコミュニケーションのファンタジー

しかしファフナーはこれでいい。
そもそもファフナー無印は陰の論理と陽の論理が入り乱れた作品だし、自我も消してしまいたいほど弱き者の弱さを掬い上げる要素を持つのだから。
そんな弱き者が最初に求めるのは自分と対立する異物ではなく弱き自分の肯定であり、自分と同じようにあるいは自分より弱い強がりな他者の発見と他者との同化による安心である。
だから察することができる能力が相手を救う、弱者のヒロイック・ファンタジーが主軸になる。

対話がなにより重要である、と主張したい物語の最初の一歩は「俺はただ総士ともう一度話がしたいだけだ」だけでいい。
それだけで自己確立となるような、それだけで選択を済ませるような、ささやかで繊細な小さき者の一声が世界を変えるひとしずく
無印は、少なくとも一騎と総士は「他者のいない世界の否定」テーマとは裏腹に、相互に異なる存在にはならずやさしくまじりあった。
よって無印はディスコミュニケーションに終始し、コミュニケーションたる「はっきりと自我を持つ者同士のぶつかりあい」はEXODUSまで持ち越されたのでした。



唐突に私の原点である『ぼくの地球を守って』の話をしますけどこっちはほんとうにそっくり構成が典型的BLなんですよね。
それもそのはずで『ぼく地球』もやっぱり弱き者の声なき声を拾う物語だから。
紫苑は木蓮を強姦し、それはツッパリ者の心の弱さがゆえの攻撃性であったと確認されたとき、木蓮は紫苑を許し受け入れた。

かねてより疑問だったんだよ。
なぜ木蓮が紫苑のレイプを許したのか。
あのとき、木蓮は紫苑が自分を愛していなかったことに心底絶望したはずで、なのに、どうしてふたりは死ぬまで形の上では円満に穏やかに愛し合えたのか。
タナトスの子供たち』を土台にしてみてやっとわかったね。
弱者のヒロイック・ファンタジーにおいては「許し」がピークであり、限界だったのだ。
典型BLでは「強姦しようとする相手だってほんとはか弱いんだと知ったとき」に「受けと攻めは優しくまじりあう」。
『ぼく地球』が名作たりえるのはここで「強姦するほど自分を求めている」から弱き男がつい傷つけてきてしまったんだ、なんてレイプファンタジーに逃げ込まなかった点。
紫苑はきちんと自己中心的であったし、木蓮はきちんとそれを読み取って絶望した。

周囲への劣等感にまみれ攻撃性をまき散らす男がほんとうは誰でもいいから求めた疑似親にただ愛されたいだけの幼子だった。
その弱さを拾い上げて愛してくれた聖女はただ聖女であり男はその人の中身を知ろうとはしない。
許し受け入れ聖女となった女の、誰も自分を自分として見てはくれないのだという絶望。

もーね、この女の人間性への迫り方は、少女漫画だったからこその暴きである。

……しかしそれでも、ここが少女漫画の限界だったのだ。
典型BLは「強姦するほど自分を求めている攻めの弱さを知った受けが受けることによる支配欲に満たされお互いが好き同士であると気づき確認しあいラブラブに」となる。
『ぼく地球』の場合は死ぬまで気持ちはすれ違っているのに、強姦を経て互いへの好意を自覚し結局ふたりはやわらかによりそいあっている。
女の絶望のその先が途切れている。
紫苑が木蓮が少しでも思い描く聖女像と異なればとたんに失望する――みたいな後日談なんかない。あっても苦痛で無意味なだけだ。
あくまで「すれ違った男女が好きあいラブラブ」の型に当てはめなければ物語の体裁は整わなかった。

加害され、その真意の弱さを見出し許したら、相手は改心し、一転優しく愛し合える。これこそが弱者のヒロイック・ファンタジーだからだ。



ファフナー無印の一騎と総士に対話がなかったのも弱き者のコミュニケーションなしの相互理解幻想を託されたから。
しかしあくまでテーマは対話で、それが芽生えていたからシリーズを通じて対話が描かれた。

ファフナーシリーズの対話の軌跡としてこれはもう順を踏んでおり、
無印:ディスコミュニケーションの肯定
HAE:他者とも対話でわかりあえる
EXODUS:自我を持った他者同士の衝突、対話でわかりあえない
BEYOND:コミュニケーション

ファフナーに限らず言わずとも互いをいちばん理解しあっている関係って創作物では理想とされてきた。
けど、なんだかたぶん、そういう時代は終わりつつある。コンテクストが共有できなくなって軋轢を生み、コミュニケーションが必要となってきている。すでに。
そこではディスコミュニケーションのファンタジーは過ぎた幻想となって、きっと、今に古くなる。
なもんでEXODUSで「コンテクストが共有できない」「わかりあえない」「対話すら困難である」異文化コミュニケーションを描いたのは物語が無事自己確立を終了し異なる他者の存在を認められた前進であり、その発展形がBEYONDだと言える。
BEYOND、時代に即してるはずなんだよ。ドンピシャで。
それは前にも別文脈で書いた。(誰かが生きるために誰かが犠牲になる話──2010年代アニメの雑感から『蒼穹のファフナー』に寄せて - 青い月のためいき

でもねー、現在6話まで公開時点ですけど、はっきり言ってかなり先行き不安だからもうあんま期待はしてないです。
こんなにもドンピシャで熟したテーマを描き切ってくれる尺と力量がBEYONDにあるとは思えない。1-3話まではやってくれるはずだと息巻けたんだけどね。
美羽と総士に絞っても何よりコミュニケーションを必要とし実際対話しているのだから、ほんとうは、やってほしいんだけれども。