青い月のためいき

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(移転記念感想記事)7SEEDS 全35巻+外伝/田村由美

感想レビューブログをはてなに移転させました。
移転作業が地味に大変だったのでお気に入り記事をこっちのブログにも転記して供養しよう企画やります。
全部で5記事予定。

第4弾です。
お気に入りポイント:
「加害の連鎖」についての考察がここまで高水準な漫画初めて読んだし、今後のフィクションもここを前提に始まってほしい祈りがあります。
その物語構造分析と、あと学びたてほやほやのポスト構造主義で理屈づけしてわりと掘り起こせた満足。

2022/01/30
remain.hatenablog.jp

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面白すぎて参る。
これぞ少女漫画!! で最高。
私が少女漫画に求めているものが詰まっていたし、ついでに『蠅の王』とか『無限のリヴァイアス』に求めていた感情を全部持ってかれましたね。
リヴァイアス感想見たら「しんどくなるくらいのめり込める、狂気への描写に妥協がないもの」って言っててそれよ。

正確に言えば上記二作には極限状態に放り込まれたとき人間がどれほど愚かしくなっていくのかの過程を見たかったわけで、上記二作にも『7SEEDS』にもそれはなかったのだけど、だから「求めていた”感情”」がようやく昇華されたね……っていう。不満が。
7SEEDS』は極限状態のPTSDからの再生をやっててもうね見据えてる世界が違うのよ。ベトナム戦争以後、阪神淡路大震災以後という感じ。
そういやX-DAYを推測してみたんだけど2006-2011だよねって。夏Aが阪神淡路大震災を知らないので最大で2011。キャメロットのC4発売が2004? あたりらしいので、「C4以降の最新バージョン」という言い回しをする程度の年数経った考えるとその数年後かなと。長年根を張ってた百舌戸が順当に首相になれたことを考えると自民党だろうし2009以前だよね。メタ的にこのシーンが描かれたのが2008年ぽいので2006-2008あたりかなあ。(こういう推測は考察とは言いません)
2008年の17年前は1991年なので夏Aの17年差でけえ……と感慨にふけることができます。DVの規制法ができて流行語大賞候補に選ばれたのが2001年だしねえ。


夏Aだけなら少女漫画じゃなくていい。夏Aを超えたところに少女漫画の意義がある。
それは何かというと「運命の受容」。私はひたすら「運命の受容」をこそ少女漫画に求めている。
それは構造に馴致することではなく、構造の中に政治的主体たる実存を見出すことでもなく、構造からは逃れられないことを前提として「この私」の主体を確立すること。
ひとつひとつ見ていきましょう。


新自由主義
なぜ春秋冬が安居と対立したかというと、彼らが同じ評価軸で優劣を競っていたから。花が「こっちだってつらかった」何かを探してつらさ度で対抗しようとしたところがもう同じ土俵にいるわけで。
秋ヲの「パンピーをなめるな」が象徴的。夏Aのテストの過酷さは新自由主義パンピー社会の縮図だから。
「やり直しのきかないこの国で」「生まれた時から競争してる」のは同じ。秋ヲは自分たちは自己責任を負っていて夏Aは負ってないと言ったけど、安居や茂や夏Aもまた「自分で考える」判断責任を重視して、その責を負わなければ生き残れない世界にいたのだから結局みんな同じ評価軸を持ってるわけよ。
みんな元の世界の評価軸で優秀と言われ選民されてここに来てる。
夏Bが安居と涼を受け入れたのがもう本当にうめえ~~。
ナツ蝉丸まつりは「落ちこぼれ」がゆえに端から競争社会の論理に染まってないからさあ。嵐もその論理をなんの執着もなく捨てている。優秀でなくてもとりあえず生きていけることをすでに知っている人たちなのだ。
エッセイ本『ウツ婚!!』で生まれも育ちも港区の筆者が東京基準の優秀な姉弟や友人に囲まれ劣等感抱いていたところに田舎の農家で暮らす配偶者の実家で「東京のハイカラな娘さん」扱いされてようやく気を張らなくていい場所を得て安堵する、という一節があるんだけど夏Bの安居と涼に対する「すごお~い!」的尊敬のまなざしはそれだよな。
それは態度も緩和するわ。


ポスト構造主義
夏Aに対して西洋思想持ち出すのはなんとなく文脈ずれる気もするのだが、夏Aに他のチームから浴びせられる「温室育ち」「自分で物を考えない」などの指摘は近代思想に対する構造主義的革命だよねえ。
確固たる「主体」があると信じていた安居に突き付けられる、「その主体は構造に規定されたものに過ぎない」というエポック。
もう少し日本の文脈に寄せるなら(その文脈に西洋の影響はありつつ)「所与の要件を「そういうものだから」と受け入れてその中で自己利益を最大化しようとしてきた安居に対する前提条件への疑義」とか言えるのかな。
日本のデスゲームものとか、もろもろエンタメは所与の要件自体への疑義ってあんまなくない? って記事をこないだ読んで。(自己利益の最大化には疑問を呈してる気がするけど)
夏Aの非少女漫画っぽさって個人が構造にどっぷり浸かっていることへの無自覚さだと思うんだよね。
非少女漫画は構造への懐疑すらないほど所与の要件の中にいる(テストを受けて通過しなければ生き残れない)か、個人VS.構造をやって易々と個人が構造を超えてしまうかのどちらかじゃないか。
最近になってからだよね、「構造を抜け出せない苦しみ」に寄ってきたのって。(その象徴として私は『進撃の巨人』と『オッドタクシー』を最近たびたび引用しています)
……いや「構造を抜け出せない苦しみ」自体は今までも描かれてるかな、ただそれが「苦しみ」どまりでその先となると行き止まりの閉塞感がある。


で私が少女漫画を好きなのはこことはてなのブログでさんざん言ってきたけど「運命の受容」が描かれるからで。
清濁併せた運命の受容、なんだよ。
それは女というジェンダーが社会構造の中で悲惨な運命を強いられ受け入れるしかなかったことと無関係ではない……どころか直球に関わっている。
そのために、女たちはその運命をなんとか肯定的に捉えようとしてきたこと、運命の悲惨さだけではなくプラス面も積極的に見出してきたこと、運命の中で生き延びていくしたたかさを養ってきた。
それらに現れる主体性をエイジェンシーという。
フェミニズムポスト構造主義にまつわる思想だった。
フェミニズム以前、女は単なる被抑圧者だった。だがフェミニズム以後、女にも主体があるのだと主張されるようになった。ポスト構造主義がゆえに、その主体性とは何にも左右されない近代的自我ではなく、必ず構造の後にしか生まれない、構造に規定された、フーコーの言う「構造に従属する」主体である。


その、構造に囚われた主体が引き受けざるをえない運命を引き受ける物語こそ私にとって少女漫画であり、少女漫画を愛してやまない点である。
人はだれしも構造に囚われており、主体はつねに客体(他者)から影響を受けているのだから完全に客体と分かたれた主体などありえず、どんなに自我(エゴ)が構造を乗り越えようとしてもエゴは力を持たず、個人の思惑など構造の前には微々たるもので、過去は現在と切り離せず他者と私は融合している……ことを前提とした上で、それでも今ここに在る「この私」のエイジェンシーが少女漫画の中にだけはあるから。


しかし単なる運命の受容は気をつけねばただ構造を肯定し再生産する危険性と隣り合わせである。
というか構造主義ポスト構造主義もその再生産を念頭に置いている。(今は勉強中です。。)
ただポスト構造主義には構造を乗り越える契機をも持ち合わせている。構造主義が否定したらしい主体が在ることを再発見しているのだから。


……で、やっと戻るけど、この作品がなにをやっているかというと「ここで生きていく」運命の受容と「テストを受けなくてよかった」という運命の否定なんですよね。
ああ、少女漫画が培ってきた運命の受容。私たちは運命のゆりかごの中にいる。
たぶんカントとかマルクスとかハイデガーとかサルトルとかもみんな「構造に規定された主体」の話はしてるんだけど(私はハイデガーの世界内存在思想が好きで、いつかレポートも書いた)やっぱり日本文化は近代的自我の思想は根付かなかったし先に構造ありき、関係ありきだと思うのでポスト構造主義からようやくなじみが出てくるというか、「ここで生きていく」も確実に構造の中に実存を見出すのではなくて構造を受け入れたあとの「ただのこの私」感がある。うまく言えんけど。


受け入れるしかない運命と、でも、受け入れなくてよかった運命との線引きがあるところがとてもやさしい。
ちゃんとしている。
安居にもエイジェンシーはあった。あのテストの中で「自分で考えて」生存戦略を取って生き延びてきた。しかしそのエイジェンシーは果たして何に寄与したのか? 構造を肯定する責を負ったに過ぎなかったのではないか? 嫌だって言ってよかったのではないか……?
花や嵐の「自分で考える」も構造以後なんだけど、構造の中で(後で)自分や他者を幸福にするために生きていくには……まで射程があるから、そのエイジェンシーは健全なんだよね。
ちゃんとしてんな~。


・加害の連鎖と断ち切り
加害の連鎖のことがわりと限りなく高水準で描かれてて「なんだあ、やってる人もういるじゃん!」と嬉しかった。
小瑠璃の「知ってるのにどうして!」と安居の「知ってるからできるんだ」の対比。
蝉丸の「いじめられたから他人には絶対しないってヤツとされたんだからしてもいいだろって思うヤツと」の言葉。
この二者を分かつものはなにか? なぜ分かれてしまうのか? ここがきちんと描かれているから名作なわけよ。単に本人の性質の違いとしては描かれていない。
端的に「されたことを否定しきれているか」「自己責任を返上しきれているか」どうかなんだ。


小瑠璃はテストを知らなかったし、「助けられなかった」「自分だけ助かってしまった」罪悪感はあれどその自責感を正しく仕組んだ先生たちへと返上して被害者の立場になれている。
嵐は暴力事件についても花は被害者なんだから責任は全くないと言ってて、それは安居の「俺たちのせいじゃない あいつらのせい」とニュアンスが全然違うんだよね。
安居はまだ「あれがなんだったのかわからない」状態にいた。被害を被害と認識できていない状態。そこから少し整理が進むも、教師を憎むけどテストのことは肯定している状態へしか行けなかった。
そんな中での「あいつらのせい」は、本当に教師に責任を返上できているんじゃなくてどうしようもなくまとわりついた「茂を殺してしまった自分のせい」を必死に払いのけようとしているだけ。
ものすごく自責しているからこそ「あいつらのせい」と言い聞かせねばならない。


被害を被害と言えていたら。茂を殺したのは自分じゃなくて教師なのだと、要なのだと、政治なのだと言えていたら、安居は加害を連鎖させなかっただろう。
安居が加害したのは「あいつらのせい」にしていたからじゃない。「あいつらのせい」にできなかったからだ。
安居はテストを否定できなかった。
だから「受けなくてよかった」が衝撃を伴って夏Aのパラダイムを破壊する。


でもそれはすでにテストを受けてしまった安居になんの慰めになるのかという話もカバーしていて、構造に巻き込まれただけの洗脳だったなら、安居の主体は、茂の主体は無だというのか。運命に翻弄される無力な被抑圧者だったなら彼らの人生は一体なんだったのか。
だからもう一段階「茂は自分でロープを切った」……すなわち構造下のエイジェンシーが茂に見いだせたことが、裏側から安居の責任を免除し、同時に「彼らの人生」を取り戻させる。
そこでようやく安居の中で一緒くたに「自分の責任」になっていた「教師の責任」と「茂の責任」が切り離され、指が動く=自分の人生を自分で選んで決める=適切な大きさの「自分の責任」を獲得するのだ。


そう、「自分のせいか」「他人のせいか」の二択じゃない。他人のせいにしきってしきったそのあとで、ようやく自分の責任を取る。
ゴールは自分の責任。これは揺るがない。だけどショートカットしてはダメで、まず自分の責任は免除されねばならない。その過程の中で他人の責任の輪郭をきちんとかたどり、他人に返す。
ゴール設定を間違えてもダメだし、ゴールだけ見えててもダメ。


二択じゃない。両方やる。


なんとまた『ウツ婚!!』の話なんだけど「あなたのせいじゃないと言ってもらえるけれど、私のせいじゃなかったんなら、今までの私の人生は一体なんだったのか」と振り返る一節がある。
これもどこまでが「他者の責任」でどこからが「自分の責任」なのかわからない状態、だから0か100になっている状態。
安居も「自分のせい」か「教師のせい」かの0・100だった。でも茂のエイジェンシーや施設で習得した知恵知識がその二択をかき回す。


7SEEDS』の「自分で決める」はどうしようもなく構造に巻き込まれた上で、それでも幸福を追求すること、模索すること。
私の愛した少女漫画をたっぷり堪能できた最高漫画でしたね……。




あーキャラのこと全然言及できなかったけど私は新巻さんエピソード全部よわでしたわ……。
あと小瑠璃の「間に合いたかった」と、だんだん茂に「生き残って……!!」と思いたくなる描写の積み重ねと、あと序盤花と嵐の邂逅で引っ張るけど花がもう一人で生きててそのうえで藤子とちさとあたたかさを分かち合うとこと……。
そのへんが結構好きでした。