青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとか社会を考えるオタク

続・NTRを考えてみる~なぜ敗北感を性的興奮に変換できるのか?~

 前回の続き。
koorusuna.hatenablog.jp


 前回の内容は「快楽による支配こそがエロである、と強固に学んでおり興奮するにもかかわらず、けして自分は快楽支配者にはなれないのだと感ずる男こそがNTRに惹かれてしまうんじゃないか」という仮説をもとに、なぜNTR愛好家は敗北感を欲するのかを考察し、自傷としてのNTRと不安への回答としてのNTRを掘り下げた。
 その上で「男性にリードを取ってほしい」と考える女性と「女性の意思を尊重しなければ」と考える男性間でのダブルコンティンジェンシーがNTRの基盤にあるという社会背景も示した。
 NTRの世界観に対して、「女性観に偏りがある」とか「恋愛は強い男>女>弱い男という単純な世界観に当てはまらない」とかそんなことを言っても意味がない。
 問題はなぜ彼らは単純な世界観を持つに至ったのか、その世界観とはどのようなものであるかだと思ったからだ。

 それでも前回はNTR愛好家を貶めないように語ろうとするあまりNTRの核心を突けなかった心残りがある。
 だから「わかりませんが、こうかな?」とおそるおそる整理する文章になった。
 だが今回は本丸に直撃するので奥に分け入るように語ったし、そのため前回より社会背景に突っ込んでいる。
 前回もちらほらNTR愛好家による(熱い)反応をいただいたのでNTR好きの人は自己探求的なんじゃないかという実感が寄せているのですが、いやなんか違うなと思ったらまたコメントとか拍手欄とかでご指摘ください。
 ちなみに前回同様ここでの「NTR愛好家」は寝取られ男にいたく感情移入する男性を指す。

1.NTR生存戦略である

1-1.なぜ敗北感を性的興奮に変換できるのか?

 NTRの核心。
 それは「なぜ敗北感を性的興奮に変換できるのか?」である。
 NTRを巡るこの問いは、私の記事も含めてすべて、答えにたどり着けずにその周縁をぐるぐる回っている印象を受ける。
 だからこそ答えを求めて彼らは自ら語りだす。
 私がNTR愛好家の語りを好むのは彼らが男性ジェンダーの実際をここまでじっくり語ってくれる、メンズリブに親和的な人以外で唯一の男性たちだからだ。

 そしてしばしば問いは核心にすこしだけ触れる。
 以下は前回記事のコメント欄における私の言である。

 私は百合オタクなので百合に挟まる男は天敵でして、でも今ほど反発なく百合を踏み台に異性愛が勝っていた時代は「男を挟んだ百合はいい」とか「失恋百合こそ至高」とか自傷してました。思えば防衛的NTRですね。
 振り返るに、現状を受忍せざるをえないと感じているときに「興奮するくらい現状を受け入れている自分」を確認すると安堵したんですよね。性的興奮は強い麻薬だし「事実」として認識が容易なので防衛手段として適してそうです。

 私自身はNTR愛好者ではないと思っていたが、コメントに返信していてかつての心理を思い出した。
 私は失恋百合に興奮することで「どうせ百合は男に侵害される/どうせ同性愛は成就してくれない」女性差別異性愛規範からの傷つきをごまかしていた。
 NTRは自分がどうにもできない危機に対して自分の心を守ろうとする防衛反応である。防衛機制で言う転倒(感情や欲求が当初とは逆になる)と言える。
 ではその防衛反応とはなんなのか? NTRに興奮することでなにを防衛できるのか?

 思うに寝取られて興奮することは「負けたままでいない」ための唯一の生存戦略なのではないだろうか
 敗北はすなわち自己の手綱を奪われることである。自分で自分をコントロールできない、足元をすくわれ宙づりに浮かんでしまうような不安感が襲う。
 存在を脅かされた人はたいていなにかの優位に立って世界をコントロールしようとするが、現状を受忍せざるをえないと認めた彼らは性的な興奮を得るという些細な方法で世界のコントロール権を取り戻そうと抵抗しているのではないか

 フーコーいわく「権力とは状況の定義権である」という。最近立ち上がったモラハラ加害者改善コミュニティの言葉ではこれは「解釈の独占」と名付けられている。*1
 つまり「誰が優位に立ち、誰がそれに従うか? 今この場はどのような状況であるか?」を決定づけられる力が権力だというのだ。
 一般的に状況をとらえるなら「気弱な男性が野蛮な間男に愛する人を寝取られた」でしかない。
 NTR主人公は状況の定義権を間男(権力者)に奪われて、間男が定義した状況に従わざるをえない。
 ところがここに「NTR」というパッケージ処理をほどこすと「に、興奮する俺」を付加してそれらの状況の上位存在に立つことができる。
 彼らは興奮することで状況を再定義し、独占された解釈をささやかに奪い返すことを試みているのではないだろうか。

 性欲の発露はしばしば所有を誇示するイコンとなる。
 暴力の例で失礼するが、露出狂は性を利用して強制的に状況を定義して瞬時に支配関係を作り出す。性は自分が優位に立てる安易な手段だ。
 興奮してしまう/できてしまうことで、寝取られた状況もろとも所有するような感覚になりうると想像するのは不自然ではないだろう。われわれは性欲で対象を所有できると社会から学んだのだから。

 寝取られることそのものがエロいから興奮するのではなく、状況の定義権を奪取するために興奮しなければならないという転倒。
 その転倒を可能にするため、具体的に興奮を得るにあたっては前記事で詳述した「快楽支配」がキーとなる。
 ストレートな欲望に合致する「快楽支配」を利用して興奮することで敗北感をも道連れに興奮できる回路を形成するのだ。
 足や腰など新たに性感帯を開発するときは性器や乳首を触りながら快感を体に覚えこませていくものだが、NTRに関しても同様のことが言える。
(ここで間男が線の細い女ウケするイケメンであっては快楽支配の純粋性が濁る。「イケメンに愛されたい」みたいな女の主体的欲望はエロを濁らせる雑念である。純粋に「性的快楽」によってのみ堕ちたほうがエロいのだ。)

 そもそも真面目で優しい受け身な女性にも出会いがなく、「決め手に欠ける」と選ばれない時代である。(20代~40代の人間のうち恋人がいないかつ恋人がほしい人の割合は男性で約40%、女性でも36%というどっこいどっこいな調査結果もある。*2無論一概にその全員が受け身だとは言えないが)
 受動的でいては敷かれたレールにも乗れないのは男性も女性も同じだ。
 しかし例えば結婚相談所ではほとんど当然のように男性からのプロポーズをけしかけられる(しばしばドラマティックなセッティングを伴って)ような現実もまた事実であるし、前記事で示したように性のダブルコンティンジェンシーもある。
 重要なことだが、女が受け身ならそれは性規範に従っていられるが、男が受け身ならそれは不本意な性規範からの逸脱となってしまうのだ。
 NTRの基本的な関係として「性規範に従った女らしい妻/恋人」「性規範に従った男らしい間男」「ただひとり性規範から逸脱した男らしくない主人公」の対比がある。
 受け身であること・女を所有できないことがイコール性規範からの逸脱だからこそ、NTRのように強い敗北の衝撃が必要なのだろう。

1-2.防衛反応――現状を受忍せざるをえないとき

 自己コントロール権を奪われたときの防衛現象の例はNTRに限ったことではない。
 ストックホルム症候群は「支配者に取り入ったほうが生存確率が上がるから」と説明されるが、実際は支配者が独占していた解釈を自らの手に取り戻そうとする観念的な試みといったほうが正確ではないか。つまり「生存確率が上がるから」ではなく「上がる"気がする"から」なのだと。
 支配されている圧倒的状況が眼前にあり「負け」を受け入れなければならない。生殺与奪(状況の定義権)を奪われているとき人はその内部でなんとか「自分はここで生きられる」確信を奪取しようとする。その確信のために自分が状況をコントロールできる感覚が必要になるのだ。
 だからストックホルム症候群に陥った者は自ら進んで支配者に好意を寄せることで「支配されている」圧倒的状況を定義しなおし、自分がコントロールできうるという錯覚を得る。
 実際支配から抜け出したほうが生存確率が上がる場合ですら支配者を支持するケースはこれである。

 アルコール依存症の夫を支える妻もいったん「負け」を受け入れた上で陶酔を得ることになると信田は言う。

 ふだん飲んでいないときの居丈高な夫と比べると、比較にならないほど従順な夫を両腕に抱えてベッドに運びながら、妻の心中に去来するものは何だろう。階段から転落した夫が、「もう死ぬしかない、お前は俺といると幸せになれない」と泣いたとしても、飛んでいってすぐさま夫を抱きしめて、「だいじょうぶ、絶対離れないから」と応じることもできる。その時どのような感情に妻たちは浸っているのだろう。
(中略)彼女たちを満たしているのは、ケアを渇望している存在にケアを与えることで得られる快感である。
(中略)忍耐と苦労ばかりの生活にあって、これらの満足感だけが砂漠のオアシスのように感じられるとしたらどうだろう。結果としてもたらされた感覚を享受するだけでなく、能動的にケアの快感を獲得するようになるかもしれない。彼女たちは夫からふりまわされる存在から反転し、むしろケアを求めるように夫を操作するようになるだろう。
(『共依存 苦しいけれど、離れられない』/信田さよ子/朝日新聞出版/2012)

 上記の「共依存」と呼ばれうる記述を信田は「夫婦間の非対称が前提とされなければ成立しない」と語る。
「俺が死んでもいいのか」と脅すアルコール依存症の夫は、妻が経済的社会的に離婚の選択肢を取りづらいことや「妻がケアして当然」という性別役割意識を背景に妻が逃げないことを確信し、妻に依存する。
 妻は逃れられない状況で労苦を強いられるからこそ状況を強引に陶酔へと読み替えることで生存戦略を図っている。
 自分が今までもこれからも夫にふりまわされつづけ、夫に依存して生きていかざるをえない「負け」を重々承知だから状況を再解釈することでしか優位を奪取できないのだ。

 一般に男性は「負けたままでいない」ことが女性よりしやすい。
 負けを認めさえしなければ状況の決定権を思いのままにできる立場につきやすいし、社会通念上女性を所有し支配しうると信じられているから女性相手にならば「勝てる」のだ。
 現実では無理でもそれこそポルノフィクションではその社会通念を利用して「女を所有する(快楽支配する)」欲望を達成させられるのだし実際そのようなポルノが氾濫している。(女性は男性を所有できると信じられるような社会通念がないから、ポルノになりにくい)

 しかしNTRはそのフィクションの中でさえも負けを受け入れる。
 だからこそ「どうして敗北に興奮できるのか?」という問いを誘うのだろう。
 勝利という所有に興奮できるはずなのに、敗北という所有の失敗に興奮するのはなぜ?

 ……おそらくNTRの核たる愛好者にとって、負けた姿が自身の「ありのまま」なのである。
 所有に成功した姿はもう自分ではないし、世にあるのがそんな物語ばかりでは所有に成功しなければいけないとプレッシャーになるだけ。
 受難は変えられない。自分の真面目さや優しさを捨てて強い男に変わるか、女が強い男になびかずに真面目さ優しさを良しとし弱い男を選ぶように変わらない限り。
 けれど自分か他人どちらかを変えるなんて途方もないことはできない。
 だからありのままの敗北を受け入れる。
 NTRの主人公たちは弱い男を選ばない女が悪いなどと責めたりしない。ただただ、女とはそういうものなのだ、そういう世界の理なのだと受け入れる。
 その敗北をただの敗北にしないために「女を所有できなかった敗北感」というパッケージにして所有するひと手間が最後に必要なのだ。

1-3.過酷な運命を受け入れる生存戦略

 こうして見るとNTRの「受忍せざるをえない運命」への反応は、少女漫画系譜の前世ものによくよく近似している。
 少女漫画ではない前世ものは運命を否定し抵抗するが、少女漫画は運命を受容する。(「前世もの」作品の構成要素――少女漫画と少女漫画以外の相違性 - 青い月のためいき

 過酷な運命の受容を強いられるならばそれを受け入れる自分を肯定的にとらえたいと望むのが少女漫画だ。この運命の受容は受難を陶酔へ読み替えるアルコール依存症の妻も同時に彷彿させるが、これは女性がいかに厳しい運命への抵抗に現実味がなく、受容を強いられるかの証と考えれば当然だろう。

 そうするとNTRの出現はこれまで女性の専売特許だった「過酷な運命の受容」が男性にも流れてきたと見ることができる。
 被支配者が支配者に取り入るストックホルム症候群生存戦略だとしても支配者を利することになるし、アルコール依存症の夫を支える妻の陶酔がどんなにサバイバルであったとしても夫は妻に依存しつづけるだろう。
 同様にNTRもまた敗北への性的興奮がどんなに生存戦略だったとしても「強い男」が勝ち続ける世界を承認しつづけるだけなのだ。
 悲しいかな弱者のサバイバルはつねに脆弱性を抱えている。

つづく。
続きは男性のジェンダーについて
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