青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとか社会を考えるオタク

(移転記念感想記事)流浪の月/凪良ゆう

感想レビューブログをはてなに移転させました。
移転作業が地味に大変だったのでお気に入り記事をこっちのブログにも転記して供養しよう企画やります。
全部で5記事予定。

最後、第5弾です。
お気に入りポイント:
この観点でこの小説を読んでる人が誰もいなくて孤独なので主張したい記事。
今回の企画はこれを転記するためにやりました。
近代家族への懐疑と終焉×福祉の脆弱性×新自由主義と個人vs社会×BL文脈をつなげる分析。

2022/08/06
remain.hatenablog.jp

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おいおいおいおい凪良さんまじかよ……
え? これどっかで「彼の話」に転換してどんでん返しあるんだよね? 美化しすぎた更紗の陶酔に冷や水ぶっかかるんだよね? 凪良さんがまさか小児誘拐神話を肯定しかねない話書くはずないよね?????


と混乱しながら読んでいたんだけど、どうやらどんでん返しなどないと悟ってきたのと並行で、ああこれは凪良さんの小説だし、それ以上にBLのコンテクストだと納得した。
最悪だ。
この「最悪」は凪良さんが張った予防線も、この作品が問おうとしたテーマも含めて、なんともざらついた手触りの「最悪」であり、その勢いで木原音瀬の『ラブセメタリー』を読んでようやくなめらかになってきた。私はどうにも『ラブセメタリー』のほうがいい。最悪に向き合うほうが。


昔『未完成』が嫌だったんだよ。
教師の受けと高校生の攻め。生徒に手を出しておいて「教師の立場があるんだから考えろ」と、なぜか生徒側が責められる話。
凪良さんは倫理的であろうとする人だから、差別はびこるBL界の中にあってもセクシュアルマイノリティの描写で差別性を感じたことはない。
だからもう昔のような描写はしないと思ってた。だから混乱したんだ。あーショックだな。


誘拐神話を補強する話だ。
『リーガルハイ』が「ストーカー神話」(ストーカー被害者だと思ってたけど実はストーカーに好意を感じていた)や「パワハラ神話」(パワハラを受けることでなにくそと奮起し良い仕事ができる)を補強したのと一緒。
手垢のついたよくある「家にもどこにも行き場がない少女を救った"だけ"なのに誘拐扱いされているのでは」という無理くり論理。
ようやく来た「彼の話」は、文が社会から排除されていたのだという話では、ない。
「犯罪承知で更紗を置いたのは文も社会から排除されて自暴自棄になっていたから」「文は小児性愛者という穢れ者ではない」という予防線。無理くり論理を正当化するため。
文を小児性愛者と思ったまま「あのとき文が望むなら触られてもよかった」と更紗に言わせるのがほんと虫唾走る。それは「歪み」として現れた歪みではない。信頼できない語り手から発せられた歪みではない。
「歪むほどに純粋な、ピュアすぎるほどに穢れなき聖域の、一般には歪みと断定されるだろうけれども作品的には切迫した祈り」として現れる。
最悪~。
現実の誘拐神話を使って現実の小児性加害を肯定しかねない最悪~。


こんなにネットが出てくるんだから誘拐神話唱える書き込みだって容易に見つかるはずなんだよ。
なのにそれは不都合だから出てこない。不都合な書き込みを見つけないように、更紗はSNSなんかも見ない。
出てくるのは「正義ヅラした潔癖な偽善者」のみな不自然。リアルだけならわかるけどね。
誘拐じゃなかったんじゃないかと勘繰るような人物が出てきて、その人さえも更紗と文の機微は掬わない、という筋ならまだましなんだけどそれすらねえからな。


DV彼氏が妙に生生しく、それは更紗と文が築いた不自然なアジールの肯定である。文がそういった「男性の臭み」がない浮世離れした存在だから余計に寒々しい。

でその「アジールとしての対幻想」と「異性愛アジールを破壊する」の二大イデオロギーがまさにBLコンテクストなんだわ。
異性愛とは、義兄やDV彼氏のような暴力と支配をはらみ、そしてそれを傍観し許容する血縁のしがらみが存在する生生しい世界。
男から女への性と愛による支配は地縁、血縁、社会、隅々まで行き渡り、逃れられない。
だからこそ更紗と文の間にあるのは異性愛であってはならない。


夕飯にアイス、というのは社会からの解放を指す。
更紗が自分を捨てた母を責めないのは、更紗も社会から解放されたいからだ。

母を責める=社会のしがらみによって個人を束縛することを肯定する、だから。


その社会不信が「人生丸ごと救ってくれる個人」を希求させる。
いや重てえし危ういわけ。
その危うさがBLとはマッチするわけですがそもそもマッチするような社会であることが悲しいねという話で、であるなら、本作のメジャー化が表すのは現代社会はその危うさが男女間にも進出してきた悲しい社会だということ。


資本主義の暴力を剥き出しにした新自由主義は近代家族(家父長専業主婦子ども核家族)をばらばらにして個人化を促進した。


近代家族はDV男のパターナリズムを許容する。
「家族」の解体は一方で近代家族から解放されるがもう一方で経済的身分的情緒的に不安定化した個人はアジールとしての"家族"に再帰したがる。
鬼滅の刃』の流行は「家族崩壊の危機だからこそ家族信仰を純粋化する」示唆も含んだわけで。(本作も2020年の本屋大賞、『鬼滅の刃』も2020年にメガヒットしたコロナ禍元年)


『鬼滅』に見るように新自由主義下の日本でも近代家族は減少こそしたもののその家族幻想は失われていない。
家族幻想の中では、家父長(新自由主義下において自立した個人)に従属する女子どもは個人として認められない。

その欺瞞性を知ってるBL作家こそは異性愛近代家族を忌避するわけね。
更紗の母も一度は異性愛家族の中で自分なりのアジールを築いたけど、夫を失えば自立を失い更紗が足枷になる。


「お母さんは我慢をしない。だからママ友がひとりもいない。しかし、そのことをまったく気にしていない。ママ友とのおつきあいより、楽しいことがたくさんあるそうだ。映画を観ること、音楽を聴くこと、朝でも昼でも飲みたいときにお酒を飲むこと。お父さんとわたしとの暮らしを愛することに忙しく、つまんないことに割く時間なんてないと言う。
 お母さんとは反対に、お父さんは市役所に勤めていて気の合わない人とも毎日ちゃんとおつきあいをしている。湊くんはえらい、すごい、大好き、とお母さんはいつも言う。」p14


更紗の両親が表すのは近代家族の中に立ち上るユートピアだった。
大黒柱の家父長とそれを支える専業主婦と核家族の子ども、という近代家族の中で母は家父長制をハックした。
本来暴力を容認して個人の自立を妨げるはずの家父長制をハックすれば、そのアジールの中で母は社会から解放できる。
父だけに社会のしがらみを引き受けさせれば。
だから父が去ると母は盾を失って社会に曝されてしまう。ハック術は脆い。ユートピアでは個人と個人だった更紗と母もひとたび社会に曝されれば血縁はしがらみへと変貌する。
そして母は更紗を捨てた。


父の「公務員」は安定したユートピアを備給するための資源だ。
企業戦士で過労死、だったならユートピアではなく父を犠牲にしたディストピアになってしまう。
かつ、それよりも重要なことは、資本主義にさらされた企業が弱体化して公務員にしか安定を見いだせない社会の中で、もはや贅沢品となった専業主婦像の幻想が浮かんでくるということ。
バブル崩壊リーマンショックコロナ禍等々枚挙にいとまがない長い不況の中で企業がセーフティネットとして機能しなくなり、新自由主義の浸透で労働組合の解体や労働規制緩和により個人対個人の競争社会で皆サバイバルを強いられる。女性も働かなければ食えなくなった、それが新自由主義下のポストフェミニズムの実態である。
更紗の家はその競争から距離を置いて国からの安定に支えられた家族だったからこそユートピアでありえた。
それがどんなに脆いのか、もはや専業主婦は成立不可能な幻想でしかなく、剥がれてしまえば国も家族も守ってくれない孤独な個人はどんなに貧窮に追い込まれるのかを、本作はよくよく暴いている。国家公務員ではなく地方政治の市役所職員というのもまた階級社会における非エリート公務員の絶妙な立ち位置といえるかもしれない。


「自立した自由な個人」の希求という一点でつながったリベラリズム新自由主義は現代、前者が後者に食らわれている。
更紗家のユートピアはいわばリベラルな衝動が新自由主義に絡め取られゆく時代の間隙を突いてほんの一瞬立ち上る幻である。
新自由主義が個人化の利点を食らい、リベラリズムを放逐し、幻が壊れたあと、個人は不安定にさらされる。


捨てられた更紗は新自由主義により近代家族(家父長専業主婦子ども核家族)を維持することが難しくなったあとの不安定な孤独を生きる個人だ。


近代の弱い公的福祉の日本では企業と家族だけがセーフティネットだったが、新自由主義が浸透したら家族だけがセーフティネットとなる。
しかし新自由主義下では家族への依存は隠蔽されて「自立した自由な個人」がせり出してくる。(『鬼滅』の竈門家は近代家族が毒抜きされた新自由主義下のユートピアである)


ユートピアの中では更紗は新自由主義が指す「自立した自由な個人」だった。
家族依存を失ったらさらなる個人になったわけだが、同時に経済的身分的情緒的に不安定になったので、更紗というキャラクターが「自立した自由な個人」幻想のメッキを剥がしている。
新自由主義がリベラルな衝動を引き連れた先はこの不安定さである。


孤独な個人は容赦なく社会の暴力に曝される。本来近代家族も社会の縮図なので義兄の性暴力とそれを隠蔽する義母の暴力と「洗脳されてかわいそうに」の暴力は同根なのだ。
その暴力はけして自立した個人を社会に取り戻そうとする"再"侵入ではない。
家族への依存を隠蔽した見せかけの「自立した自由な個人」は、依存先を失ったら摩擦なしで容易に社会から"侵入"されてしまうということ。


個人は不安定だから社会の暴力に曝されるし、けれども異性愛の性愛婚も社会の暴力。
家父長制ハックも失敗した。
個人vs社会ではない。「個人になってもどうあがいても社会から逃れられない」絶望がある。
だからこそリベラルな衝動は近代国家の欺瞞のことは新自由主義とともに暴けても新自由主義の唆しには抗えず結託したままさらなる「個人」化を求める。(リベラリズム福祉国家を基盤と考えるが、その基盤はもはや新自由主義に破壊されたあとなのだ)


だから更紗は根なし草の「個人」として文を求めるし、社会化の害から逃れて個人性を保つために文と非異性愛的な地縁血縁に縛られない関係を切り結ぶ。
文への執着は「個人×個人として依存させてほしい、そうすればゆりかごの中で私は自立して社会に対抗できるから」という願い。
文とセックスできるか、に何度も意識が割かれるのは生殖によるしがらみに縛られないことを確認するためだ。


社会は暴力だし、個人になっても社会の暴力は迫ってくるし、だから個人を守る防波堤を求めた先に対幻想がある。
その対幻想の危うさまでよくわかるという意味でこのグロテスクな「誘拐幻想の追認」はエッジが効いてるわ。
なのに単なるアジールとして美化されてる描写が無理。


凪良さんの非BLどんなもんかと思ってたけど大人しくグロテスクをグロテスクとしてまだしも受容できるBLだけ読みますね。
(それもちょっと怪しくなってきたが……)




「欠損を埋めあう」もBLコンテクストなので最後にそれだけ。
「(本人のコンプレックスとしての)欠損」を抱いた谷さんが文と別れたのは文の本当の欠損を埋められる存在ではなかったから。凹凸が噛み合わなかった。
更紗と文は噛み合った。
文と谷さんのコンプレックスはジェンダーと「欠損」が結びついている。男/女なのに、こんな身体で……。
ふたりは「男/女なら○○であるべし」という社会の要請に囚われている。
凹と凹だから文と埋めあえなかった。
更紗は新自由主義下のポストフェミニズムによりユートピアの中ではジェンダーから「自由」に育つことができたから。ジェンダーから解放された女が「男の呪い」を解くのも『逃げ恥』にも見られるポストフェミニズムの価値観ですね。