青い月のためいき

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『蒼穹のファフナー THE BEYOND』加害の連鎖を止めろ

※アナウンス※
この記事の筆者は冲方丁従軍慰安婦像への侮蔑発言及びその後説明なしに記事を削除して発言をなかったことにしようとした対応を批判しています。
koorusuna.hatenablog.jp


 久しぶりのファフナー記事。……と思ったら2年以上書いてなかったな。多分今回が最後のファフナー主題記事になると思います。ではさっそく。


 BEYONDの大きなテーマは「加害の連鎖を止める」です。
 それを成し遂げるために「被害を甘受するでもなく、憎しみにとらわれるでもなく、適切な怒りを持とう」というメッセージが『蒼穹のファフナー THE BEYOND』の根幹にあります。

 本記事はBEYONDの批評です。
 その上でメッセージ自体は悪くないんじゃないかと考えます。ファフナーが歩んできた道の集大成として。
 しかし制作者側に「加害の連鎖」に関する知識と考察が不足しているがために被害者を蔑ろにして変なことになっているのが問題です。

 どこにでも適用できる普遍的な脱連鎖の知などありませんが、ファフナーのどこが誤っているかくらいは指摘できるのではないか……。
 以上が本記事の試みです。

●BEYONDの構造

ファフナーにおける加害連鎖要因

 まずはファフナーにおける加害連鎖の発生要因を洗い出しましょう。
 これははっきりと答えがあって、「個が確立していないこと」「確立した個が自己偏重しすぎること」の二点です。
 この前提に対してあとでまた批判しますがとりあえずファフナーの構造はなにか、を見つめるのが先です。

①個が確立していないこと
 これはファフナーが散々繰り返してきたのでわかりやすいかと。
 フェストゥムに象徴されるなにもなさ。空洞さ。何も考えないで、誰かに従うまま、全体に融けていると自分の意思がなくなり、相手を尊重できないから傷つける。

②確立した個が自己偏重しすぎること
 無印、ROL、HAEまでは①のみが描かれていましたが、フェストゥムがほとんど当然のように自我を持つようになったEXODUSから②も前景化してきました。
 己が信念と信念の衝突。明確に攻撃意思を持つディアブロ型、個体同士で食い合って自己を肥大するアザゼル型、同化された人間が人間を攻撃するのを食い止めるために同化即殲滅を目指すアルゴス小隊、などなど。

 そのように見るとEXODUSにおける真矢の人殺し×2は単なるリフレインではないことがわかります。

 二回の人殺しは真矢が自分の意思で明確に殺す自己確立の過程ですが、
15話は①「命令だから人を殺す人類軍」対②「大切な人を守りたい真矢」(自我の萌芽)、
18話は②「一騎暗殺を企てるアルゴス小隊」対②「大切な人を守る自我を確立した真矢」
と整理できるからです。

 端的に一回目は無印~ROL~HAEの文脈へのアンチテーゼ(個を確立したからといって個のない者の加害を止められない・加害の連鎖は止まらない)、二回目はその文脈を断ち切ってEXODUSのテーマ「確立した個同士の衝突」への飛躍というファフナー史の縮図と見ることができましょう。

 BEYONDで次第に見えてくるのはファフナー史を背負った①と②の対比です。

 ①を担うのは全体のために個人を犠牲にする竜宮島です。島のために死ぬ運命を受け入れる美羽には個がない。個を確立させてもらえない構造が竜宮島にはありました。
 個々人が個を確立して選んできたはずの選択が、「島を守るため」「未来のため」という全体奉仕精神に覆われ個を塗りつぶす。

 全体主義の竜宮島は①個を確立していない(しなくなった)象徴となって加害を繰り返そうとします。

 対する②を象徴するのはマレスペロとマリスです。
 憎しみによって個を確立してしまったマレスペロは、自分の憎しみをばらまくエゴがせり出すがために他者を加害します。
「誰かが生きるために誰かが犠牲になる。そんな世界を捨てて生きよう」と決意するマリスも、①に対するアンチテーゼとして②を肯定しています。自分と大切な人を守るためなら他者を犠牲にするのです。

 ①個のない集団は内部の個人を消し、そこに加害が発生し、本人はアポトーシスとして自己犠牲を選びます。
 ②個を確立した個人は確立した信念のために他己犠牲を選びます。

 個人を起点に考えたとき①自己犠牲か? ②他己犠牲か? のジレンマが発生しているのです。

○BEYONDの連鎖の止め方は弁証法

 ここまで整理したらBEYONDのやりたかったことが理解できます。
 全体主義の竜宮島と自己偏重主義のマレスペロの弁証、すなわち自害と他害の弁証です。

 ①と②どちらに走っても加害は連鎖してしまう。全体のために自分が犠牲になるのはだめ、しかし個人を重視しすぎるために他者を犠牲にするのもだめ。
 だから、加害の連鎖を止めるには自己犠牲と他己犠牲の両極の中立を取らなければなりません。 
 繰り返しますがこのへんも批判ポイントたくさんあるので次章で書きますね。

 全と個のバランス、自己犠牲と他己犠牲のバランス、許しと憎しみのバランス、どれをとっても同じことです。
 皆城総士弁証法で加害の連鎖を止めました。BEYONDにおける「怒り」は中立の上に成り立っています。


 ではその構造のどこがまずいのか。以下より批判ターンです。

●「自己犠牲と他己犠牲の中立を取る」の誤り

「自己犠牲と他己犠牲の中立を取れば上手い具合に自他尊重ができるはず」。
 それは幻想です。
 そういう幻想を描いて被害を受けた苦しみを抑え込み、結果的に被害者に憎しみを昇華させなかった。昇華しないままに憎しみを「適切な怒り」へと変換できると描いた。
 以上によって被害者に大きな皺寄せを強いていることが、BEYONDの問題点だと指摘します。

○他者の存在を知覚することで他者尊重を覚え、自己限定尊重を引っ込めていく

史彦「私も家族を守れなかった」
総士「えっ……」
剣司「この全員が同じ経験をしてるんだ」
(BEYOND 3話)

総士「敵が憎くないんですか」
剣司「そうやって相手からも憎まれるんだ。仲間は思いやって敵は許せない。なんでそうなるのかわからなくなる。それよりも、大切な人が傍にいてくれたことを忘れたくないんだよ」
(BEYOND 5話)

総士「どうだ。僕が許せるか」
美羽「わかるよ。そんなことしなくても総士が辛いこと、美羽わかってあげられるよ」
(BEYOND 5話)

 総士の苦しみは美羽を傷つけても涙ながらに許されてしまったことによって途切れてしまいました。
 憎しみに囚われて苦悩する総士に対峙するのはまず史彦、先導してくれる真矢零央美三香彗、奪われても憎まないと諭す剣司、そして美羽。

 すべて"自分の憎しみばかりに囚われている総士が、他者の存在を知覚することで他者尊重を覚え、自己限定尊重を引っ込めていく契機"となっているのです。

 被害を受けて尚加害者を憎まずに受け入れる姿勢。
 総士はそれらによって他者の存在を知覚していき、一騎への憎しみを相対化して考えます。

 ファフナーは、敵もまた自分と同じ存在なのだという共感によって相手への思いやりを喚起してきました。
 核攻撃してきた人類軍に向かって叫ぶ「同じ人間なんだぞ!」やフェストゥムが学んだ「痛いよお、青い空が見たいよお」がその典型です。
「この全員が同じ経験をしてるんだ」と聞いた総士もそこで自分の被害性を引っ込めて相手を受け入れはじめました。

 相手も自分と同じ気持ちを抱いていると思えば攻撃しなくて済む。
 そういう思想が見えてきます。
 しかしこれから検討するように、それでは自己尊重など獲得できないまま憎しみが抑圧されてしまいます。

○被害性と憎しみを否定される

 美羽も、真矢も零央も美三香も彗も「あなたの傷つきは尊重されるべきものである」と教えなかったし、総士はマリスやセレノア、レガートと悲しみを分かち合うこともできませんでした。

 総士の傷はなんら処置を施されず無視されます。
 無視されたまま憎しみを「制御」せよとするのは第5話『教え子』によく表れています。
 これでどうして加害の連鎖が断ち切れるでしょうか。

彗「敵なんてどこにもいない。状況が敵を生む。心が対象を選ぶ。そして現実にはいない敵を作り出す。敵はお前の中だ」
(5話)

 目の前で妹を殺されたのに、すでに沸いてしまった憎しみを無いものとされ、挙句の果てに「現実にはいない敵」?
 では総士の憎しみはどうなるのでしょう。

 その疑問への応答として「乙姫を消すのはよくてなんであいつはだめなんだ」と言わせたのでしょう。けれどその憎しみも美羽を傷つけて、許されたことでかき消えてしまいます。

 憎しみから目を逸らしたまま、逸らされたまま、被害を被害と同定できないままに感情を「制御」できるなんて幻想です。
 誰にも伝えず分かち合わず自分だけで感情を制御しようとして間違えたのは初代総士だったではないですか。
 憎しみを受容できなかった、させてもらえなかった総士が被害を被害と捉えることができているのが不自然なのです。

 総士がこうも傷つきを否定されつづけながらも自己尊重を疑いないままでいられるのは海神島、偽竜宮島での養育環境によるものだったかもしれません。
 しかしそれで済ますにはあまりにも孤軍奮闘すぎます。

 一騎からのびのびと育てられたとしましょう。マリスやフロロと喜びを分かち合ってきたとしましょう。それでも総士は偽竜宮島の中で「島の外」の話禁じられ彼の知的好奇心は抑圧されてきたはずです。
 そのうえで一人で消化するには大きすぎる傷を一騎から与えられてしまった。

 憎しみは、場合によっては憎んで憎んで憎みきって燃焼しなければ消えない、そうしてすら消えない厄介な感情です。なのに総士の憎しみを肯定し、それでも他害に変換させずに憎しみと付き合っていこうと説いた者はおりませんでした。

 たとえ取り返しのつかない被害を他者から被っても、瞬間的な憎しみを抱いても、他害に転換せずに受容する人がいないわけではありません。現に、います。
 しかしその人が受容できるのは「自分はひどい扱いを受けるべきではなかった」と被害者になれているからです。自己の感情を否定されることのない人間関係を持っているからです。

 ――もしくは、非情なことに、他害する代わりに自分を犠牲にして被害を受け入れているからです。

 自己犠牲をやめよう、というのがBEYONDの主旨であるはずですが総士に我慢をさせるばかりで残念ながら失敗しています。
 さらに問題なのは「総士が苦渋の思いで皺寄せを引き受けている」とは描かれなかったことです。初代総士では描かれてたろ。

 後述しますが加害者の真壁一騎相手にツンデレに収まるなど被害の矮小化でしかありません。総士の憎しみは宙ぶらりんのまま消滅します。
「被害者が憎しみを消滅させたら加害の連鎖が止まります」なんて理想論にはなりえません。

 傷ついたとき、その傷を受け止められないときさらに人は傷つきます。ただでさえ弱っているところに自分の傷つきは尊重されるに値しないものなのだと突きつけられて混乱するからです。
 傷ついて当然なのだ、傷つくべきなのだ、とひとりで納得するには自己基盤と他者からの受容が必要です。
 総士には自己基盤はあったようですが、他者からの受容はありませんでした。ここを私は疑問視しています。

○被害者から加害者への免罪

総士「この島と……僕のためにやったんだろ。許しはしないけど……理解してやらなくもない」
(BEYOND 10話)

 加害が発生する仕組みを知るのは重要です。知らなければ対処もわからないからです。
 しかし被害者が加害者の言い分をわかってあげた(対話なしに!)上、ご親切にわかってあげたと言ってあげるのは加害者を免罪する行為でしょう。

 どうしても許せないことがあるとき、「許せないけど、わかる」と言えるでしょうか。「わかるけど、許せない」ではないでしょうか。総士が自分の感情を大事にすればこそ、仕組みはわかるけど、その仕組みによって自分は被害を受けたのだとはっきり認識していてしかるべきです。

「許せないけど、わかる」と言っている時点で、料理という真壁一騎のテリトリーに歩み寄っている時点で、総士は一騎を許してしまっています。「勘違いしないでよね!」とツンデレ仕草まで見せてあげて。
 被害者から加害者に歩み寄って「わかる」と対話してあげるのはあまりに不均衡です。
 犠牲を強いられた側が強いた側に対して自己犠牲と他己犠牲の中立を取る、などと無理筋なことをやろうとしているから変なことになっています。

 口先だけの「許しはしない」は機能していません。
 本当に簡単には許せないものだとわかっているなら総士から一騎に歩み寄らせるなどできるはずありません。

 周囲からも、自らも、総士は傷を放置されている(=被害を被害としてラベリングしきれていない)のに一足飛びに「自分は被害を受けたので自分の怒りは大事だ、被害を連鎖させない」にたどり着けていることが不自然なのです。

 正直、この総士→一騎への歩み寄りがなかったらBEYONDの問題点はだいぶ帳消しになっていた気がします。

・一騎がどれだけ重大な罪を犯したか総士の苦悩によって暴かれ、総士は何があっても振り払うし譲歩しないし許さない(そして「お前の命なんかいらない」につなげる)
・罪を憎んで人を憎まずで一騎を許すが、たっぷり憎しみと被害者性を肯定されて苦しみを誰かと分かち合える

 そのどちらかであれば筋は通っていましたし、後者を描く尺と知識がなくても前者は描けたはず。
 しかしここで長編シリーズの弊害が出てしまった。ファフナーが積み上げてきた「一騎と総士」への愛着により、一騎は総士ツンデレ免罪されてしまったのです。

○なぜこんな問題が起こるのか

 なぜこんなちぐはぐなことになったのか。
 BEYONDのテーマが誤った前提に依拠しているからです。

 全体主義による個の自己犠牲と自己偏重主義による他己犠牲は一直線上の両極に位置する

 BEYONDは終始この前提で進みますが、この命題のどこが、なぜ誤っているのでしょうか。

誤っている理由①自己犠牲と他己犠牲は不可分なので両極の真ん中は取れない
 自己犠牲と他己犠牲を対立軸にした直線は作れません。
 そもそも自己犠牲と他己犠牲は不可分だからです。

 翔子、衛、僚らの最期は彼らにとってフェストゥムという他者を道連れにした自/他犠牲でしたし、カノンが島を破壊しにやってきたのも自殺を成就させるためでした。
 いわゆる心中だって自/他犠牲の極致です。無差別殺人犯だって犯行後に、DV加害者だってターゲットを失った後に、しばしば自害を図ります。
 ファフナーは他害の発生要因として「自己犠牲」と「他己犠牲」を描いているはずです。そこでは自己犠牲/他己犠牲どちらにせよ他害が含まれていると了解しているのではなかったのでしょうか。

 自己犠牲と他己犠牲は一直線上に存在するのではなく、ベン図で重なりのあるもの、しかも容易に他の領域に転じうるものではないかと考えます。

誤っている理由②一直線上に置いたとしても自己犠牲と他己犠牲は両極にならない
 百歩譲って一直線上の対立として捉えたとしましょう。しかしここでも全体主義と自己偏重主義を両端に置くのは無理があります。

 ファフナーにおいて全体主義とは自分も他者もいない状態です。
 自己偏重主義とは自分はいるけど他者がいない状態。

 対極にするなら自分も他者もいない状態↔自分も他者もいる状態じゃないでしょうか。
 全体主義↔自他尊重主義とでも言いましょうか。

 全体主義(端)と自己偏重主義(真ん中)を両立させたら自他尊重主義に止揚する、という弁証法をやろうとしていますが、端と真ん中の真ん中を取ったらその点はかなり端寄りの位置になってしまいます。

 ちなみに美羽は他者偏重主義です。
 島を覆う全体主義の裏には子どもたちの他者偏重主義がありました。その自己犠牲は全体主義が強いる他己犠牲と裏表なので結局真ん中など取りようがないのです。

●加害連鎖の止め方の不完全さ

 さて、続いて「加害者」に焦点を当ててBEYONDを振り返ります。被害者に目を向けるだけでは問題の半分を見落としてしまいます。

 ファフナーは加害者ケアを繰り返し描写してきました。加害者ケア自体は必要です。加害した時点で排除されてしまう社会への問題意識を突いています。
 しかし加害者ケアだけでは連鎖を止めることはできません。それはなぜか、ファフナーの加害者描写がいかに不十分かを検討しましょう。

○加害者ケア

 ファフナーはずっと「加害者ケア」を行ってきました。
 なぜ加害者ケアが必要とされたか。
「どこかで誰かが加害者を受け入れなければ加害の連鎖は止められない」信念がファフナーにはあるからです。

 真壁紅音がフェストゥムを受け入れ祝福したところからファフナーのテーマは始まりました。
 一騎が起こした左目事件も「実は総士にとっては感謝すること」になったし、操も一騎に受け入れられました。
 受け入れることから始まる芽がある、というのがファフナーのテーマでした。ゆえにマレスペロも美羽に受容されたのです。

美羽「あなたが守ってた人たち、みんな最後まであなたに感謝してたよ」
(BEYOND 12話)

 これらのなにが不十分なのでしょうか。

①加害者ケアを優先して被害者ケアが蔑ろになっている
 被害者ケアと加害者ケアは本来両立可能です。
 にもかかわらずファフナーは被害者ケアを犠牲にして加害者ケアを描いています。

 美羽は竜宮島メンバーに殺されそうになったのにその被害性を描かれることなくマレスペロを救います。総士は一騎を「倒す」ことで乗り越えていますが前述のとおり結局ツンデレに堕して許してしまっています。

 被害者は加害者を許す必要はないし、同時に別に許したっていいのです。許しとは我慢でも制御でも甘受でもないことさえ弁えれば。
 被害者性を誰にも認めてもらえず憎しみを制御することは、散々見てきたとおり被害者ケアが蔑ろになっているということです。

 被害者ケアはもう別に、描く必要はない。だってシリーズ通して描いてきたし、総士が純粋な被害者だなんて見てればわかるじゃないか。
 そんな意識で制作されたのでしょうか。

 そんなことはないのです。被害者ケアと加害者ケアは両立せねばならないし、受けた被害ゆえに加害者になってしまったマレスペロを見たら被害者ケアの重要性がわかるというものではないでしょうか。

②ケアされただけでは無意味。責任を取れ
 ケアされただけでは意味がありません。
 非加害的な在り方を学ばない限り、そして実践しない限り、加害の連鎖は止められないのです。
 加害者には学んで実践する責任があります。

 はっきり言ってマレスペロの最期は最悪です。生まれ変わることで罪から逃げています。
 尺なさで追いやられた、つまり個を確立して加害してしまったあとの向き合い方は今さらきちんと処理しなくていいと判断される程度の課題としておざなりにされたのがマレスペロでした。

○加害責任の欠如・貧しさ

 ファフナーは加害責任の取り方をよくわかっていません。
 どんな責任があるか、これは論の分かれるところですが、例えばDV加害者臨床心理士信田さよ子氏は「①謝罪と賠償(償い)②説明責任(事実を認める)③再発防止責任」があると述べます。「悪意のない加害者」の変容を導くえいなか氏は「①理解責任(被害を理解する)②修復責任③説明責任④再発防止責任」だと言います。(責任を引き受けること 全ては被害を見つめることから始まる - steps

 BEYONDで一騎は、総士が受ける苦しみ、被害について「理解」はしています。しかし謝罪も修復も説明も再発防止策も提示していません。なにひとつ対話がない。これでは調和もなにもありません。

 ファフナーにおいて加害責任を突き付けられた者たちが取った行動は以下です。

・誰にも打ち明けず抱える(総士と和解前・直後一騎、フェストゥムに対する総士
・出前に行って苦しみを吐露する(EXODUS3話一騎)(罪悪感をケアしててえらいね)
・墓を立てる(フェストゥムに対する芹)
・そしられることを受け入れる(子どもに対する千鶴)
・身を挺して死をもって償う(初代操、ウォルター)
・殺されることを受け入れる(EXODUS最終話真矢、BEYONDの一騎)

 そして、「反省したら戻ってこい」とあまりに軽い責任を任されて逃げたマリス、意思を一度失うことでうやむやになったミツヒロ(兼ケイオス)、被害性を受容されて逃げたマレスペロ。
 誰も責任を果たそうとしていません。

 唯一責任を取ろうとしているのが下ふたつ、死の覚悟です。すなわちかれらは自分の身を捧げて賠償しようとしているのでしょう。
 何をしてももう取り返しがつかない、だから罪の重さは死で賠償するしかない。
 そんなふうに加害者が今度は加害されることを甘受するのが加害責任だとは呼べません。それはファフナーが描いている「加害の連鎖」そのものでしょう。

 その極端さはBEYONDで総士に否定されました。

 HAEのラストで島に核を落としたウォルターに対し、EXODUSで暉は言いました。

暉「竜宮島に来ませんか。俺たちの故郷を見てください。空からじゃ何を壊そうとしたかもわからないでしょう」
(EXODUS 21話)

 しかしBEYONDで一騎は偽竜宮島と、そこで生活する総士を丹念に見て回りました。それで尚、島を破壊しました。
 作品としては「加害者が被害を理解しても変わらない」というメッセージです。「加害者は変わらない。だからこそ、連鎖を繰り返さないために被害者が感情コントロールしよう」と言うのです。
 極端を否定して極端に振れたのがBEYONDです。

「加害者は加害される責任がある」は悲劇。しかしだからといって「加害者は責任を取らなくてよい」もおかしいです。
 BEYONDの一騎には前者の極端さがあり、一騎否定には後者の極端さがありました。

●ではどうすればよかったか

 BEYONDが描いた・描かなかった加害連鎖の止め方をまとめましょう。

BEYONDで描かれたこと
・自己犠牲と他己犠牲の真ん中を取る
・憎しみを「制御」する
→以上が誤った幻想であることは述べてきました

・「敵」への共感(被害者から加害者へ共感(総士→一騎・竜宮島、美羽→マレスペロ))
・加害者の被害性をケア(美羽→マレスペロ)

BEYONDで描かれなかったこと
・被害者の被害性をケア
・「敵」への共感(加害者から被害者へ共感)
・加害者の加害責任追及
・非加害的な関わり方の学習

 こうしてまとめるといかに蒼穹のファフナー THE BEYONDが被害者に負担を強い、加害者への「許し」に偏重しているか(たとえそう描いたつもりではなくとも)わかります。
 総士から一騎への「父殺し」が一貫せず「許し」になってしまっていることは再三述べても述べ足りません。

 BEYONDの問題をまとめると下記の図になります。

 「適切な怒りで自分を大事に 加害を繰り返さないよう他者も大事に」というメッセージは真っ当なのです。
 だからBEYONDは最低限納得のいく体裁は整っていたし、事実その試み自体は物語の面白さに最大限寄与していました。
 しかしそこにたどり着くまでの道のりがまずい。これが私のBEYOND批評のすべてです。

 ではどうすれば真っ当な過程で加害の連鎖を止められるか。
 まだ世界も、社会も手探り状態です。しかしその一端を、たとえばDV更生プログラムの運営者や犯罪者更生支援、アディクション治療などが担っています。
 その知を借りて少しだけファフナーになぞらえて本記事を終えようと思います。

○加害者の主体化
 ここが最も重要です。加害者とは自分がない状態なのでどんな加害言動も逃避も自分事にできていないからです。
 そしてファフナーはそれをちゃんと丁寧にやってきました。すなわち「あなたはそこにいますか」と。

 無印15話の乙姫から一騎への「あなたはここにいることを選んだんだよ」はまさに主体化を引き出すカウンセリングの話法です。DV加害者臨床で「よくここ(カウンセリング室)まで来ようと思えましたね」と促すことと同じです。
 同じく17話一騎からカノンへの「お前はそこにいるだろ」「自分で、決めたんだろ」やHAE一騎から操への「そこにいることを選びつづけろ」もまた主体化を促しています。

 EXODUSで「個が確立したことで対立する」悲劇を描いていますがグレゴリ少年(現マレスペロ)やアルゴス小隊を見てもわかるとおり、かれらは再び憎しみという没個に飲まれています。

 何度でも選びつづけ、何度でも主体化を図らねばなりません。個は一度確立したら終わりではないのです。

○被害者性の認識と承認、トラウマケア
「理不尽な被害を受けた」「被害を受けたのは自分のせいでも、仕方のなかったことでもない」
 そういう被害者ケアが重要であることはすでに述べてきました。

○非加害的な在り方への学び
 これも、やろうとしているけど失敗していることを書いてきました。
 加害者責任を取るとともに、「持続可能な再発防止策」を検討する必要があります。
 総士に課された再発防止策は総士に負担を負わせて、憎しみを昇華するのではなくコントロールする持続不可能策だったので。

○加害者ケア
 最後に加害者ケアのやり方です。

美羽「あなたが守ってた人たち、みんな最後まであなたに感謝してたよ」
(BEYOND 12話)

 これではマレスペロの加害を肯定しています。加害してもよかったというのでしょうか。
 ちなみにEXODUS最終話美羽から真矢への「守ってくれてありがとう」も同様の構造です。加害するよりほかなかった、そうしたやるせなさの肯定でした。物語としてはそれもありかもしれません。

 しかしBEYONDは「加害連鎖を止める」が主題のはずです。もう少しくふうできるかもしれない。
 目的は連鎖の停止です。

「子ども虐待やドメスティック・バイオレンス(DV)に対する動機づけ面接の応用――役割の多重性と自立性の尊重を中心に」(高橋郁絵,2021,『子どもの虐待とネグレクト』第23巻第3号)によると、虐待親に暴力に向き合わせるには共感が必要だが、子育ての苦労に共感していくと焦点が暴力から子どもに逸れるといいます。
「子どもがいうことを聞かないのが悪い」から「暴力は仕方なかったんだ」に終着してしまう。そこで支援者は子育ての苦労ではなく児相介入への驚きや拒否感、暴力に向き合う難しさに対して共感するといいます。

 ほかにも細かいスキルが必要で、虐待親を頭ごなしに否定しないように、しかし暴力に向き合わるよう誘導していくようです。
 その過程の中で加害者自身の被害性(例えば幼少期に親から虐待されていたなど)のケアが時に要請されます。自分の被害を加害に転換させないためには被害性への癒しと加害性へ向き合うことが必須です。

 必要なのは、左目を傷つけても感謝されるとか、人類殲滅計画を実行しても「感謝してたよ」と肯定されるなど加害性への癒しではありません。

 美羽がマレスペロにかけるべき言葉は「そこまで憎むくらい傷つけられたんだね」「みんなを傷つけた罪に向き合おうね」だったのではないでしょうか、最終シリーズであるならば。

●最後に……権力構造

 今まで一騎と総士の関係に権力構造があることを言及できませんでした。
 一騎と総士は同い年の同じ島の少年だったから、どうにか権力関係のない対等さを得ることができました。
 しかしBEYONDで生まれ変わった総士と一騎は明らかに非対称です。

 そもそもロボアニメは構造的な弱者で無力な子どもが大人と世界に対抗できる唯一の力としてのロボットを希求している側面が大きいです。
 総士はニヒトという強大な力で真壁一騎を超えることができました。
 一方で純粋なパワーでのみ関係が転覆できると見てしまうと、そこにある加害者/被害者、本物/偽島、親/子、全知/無知などの権力関係が覆い隠されてしまいます。
 ここがBEYONDにおいて総士が憎しみの抑圧を強いられ、にもかかわらず一見そう見えない理由なんじゃないかと思います。

 確かに総士は一騎を倒した。一騎の論理を超えた。ニヒトによって。しかし被害者としての総士は見捨てられ「なんだかんだツンデレ反抗期だもんね」程度に丸めこまれたのは、結局二人の間の権力関係を無視されたからなんじゃないかと思います。

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 以上、『蒼穹のファフナー THE BEYOND』の批評でした。
「加害連鎖を止める」を主題にしたBEYONDに対して「そのやり方で止めるのはおかしいだろ」と言いたかった。
remain.hatenablog.jp


 ともかく上記感想を半年じっくり煮詰めることができてよかった。当時と感想が変化した部分もあり。
 私からファフナーへ最後の愛を丁寧に語ったつもりです。今までありがとうございました。