青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとか社会を考えるオタク

『MIU404』は『リーガルハイ』の現実追随主義を乗り越えにいく -「正義」の時代変遷-

『リーガルハイ』と『MIU404』は前面にはそれと匂わせないけれども「正義」に関して同じテーマを扱っています。
直接的に意識したわけではないかもしれませんが、結果的に『MIU404』は『リーガルハイ』のアンチテーゼとなっています。


弁護士ドラマ『リーガルハイ』第一期の放送は2012年4月~、第二期は2013年10月~です。
警察ドラマ『MIU404』は2020年6月~。
どちらも正義に関わる職業です。

二作の「正義」観の違いには政治的な時代の移り変わりが現れています。
二作の時代で「現実」観が変わったからです。
2000年代から積み重なり、花開いた2010年代前半の「現実」観と、それを客観視できるようになってきた2020年代初頭の「現実」観は異なって当然です。

では具体的に異なる部分はどこか。
『リーガルハイ』は厳しい「現実」を前に、それがあることを肯定して「正義」を相対化し懐疑しているのに対し、『MIU404』は厳しい「現実」に流されまいと踏みとどまり、「正義」とは何かを深堀りしてひとつ回答を探っているところです。

●両作の比較

『リーガルハイ』は新自由主義にもろに影響を受けた価値観で構成されたドラマです。二期はその中でも特に理想主義に反発する現実主義を打ち出します。
『MIU404』は明確な反新自由主義ではありませんが、新自由主義によって再生産された悪辣な現実追随主義への反骨心でできています。
それが結果的に『リーガルハイ』批判になっているということです。

『リーガルハイ』と新自由主義

『リーガルハイ』は新自由主義の申し子です。
この時期、新自由主義に影響を受けたカルチャーが流行しました。
このカルチャーについては去年ももいろクローバーZと『進撃の巨人』を取り上げました。
koorusuna.hatenablog.jp
koorusuna.hatenablog.jp

新自由主義とは、市場経済競争を無条件に肯定し、規制を緩和し競争を促す思想です。
経済の自由を謳いながら個人の自由を軽視します。
労働市場の規制を緩和するので資本家が得し、労働者が厳しい状況に追いやられます。
追い込まれた者は厳しい市場で戦いわたるしか生き残るすべがありません。

『リーガルハイ』のどこが新自由主義的かといえば、根底の作品テーマです。
絶対的な正義のない世界で、唯一金だけが信じるに足る価値観となり、勝つか負けるか競争原理が社会の理であり、勝つことがすべてであるとする価値観が『リーガルハイ』に通底しています。

「弱きを助け強きをくじく」「努力すれば報われる」
こういった「正義」は綺麗事でおためごかし。建前の欺瞞に過ぎません。
世界は残酷だから。
強者がハンデを負わされず、弱者は強者と同じルールで戦わねばならず、当然強者が勝って利益を総取り、負けたら即詰み。

そんな世界なのだから「正義」の存在を信じられなくなるのは当然です。

お題目で飯は食えない、生き残るためには戦うしかない。
絶対的な「正義」を共有できず、こうして万人は万人による闘争に巻き込まれ、散り散りになった各々の「思想」を持ってぶつかり合うしかなくなりました。
これが新自由主義を背景に背負った作品群の特徴です。


『リーガルハイ』主人公古美門は無敗の弁護士を誇り、二期最終回まで変わらず勝ち続けました。(一度負けた裁判も最終回で覆しました)

勝たねばなんの意味もないニヒリズムが見えます。

古美門「正義は特撮ヒーローものと『少年ジャンプ』の中にしかないものと思え。自らの依頼人の利益のためだけに全力を尽くして戦う。我々弁護士にできるのはそれだけであり、それ以上のことをするべきではない。わかったか、朝ドラ!」
(『リーガルハイ』4話)

このセリフに『リーガルハイ』の思想がぎゅっと詰め込まれています。
なにしろ世界が不平等で不公正なのです。
確かなものは経済競争のみ。だから「利益」確保のための「戦」いのみが信用に足る。
昨日の1万円が今日100円の価値になる社会じゃないので金は信じられます。
その代わり、誰も助けてくれないので生き残るには自分で金を確保しなくてはならない。
公正を重んじないルールで運営された社会では、生存を賭けた戦いに「正義」は役立たないのです。
*1


共通ルールのない競争には個人と個人の思想がぶつかり合い、ここでの「正義」は「それぞれの利益増大を目的とした手段」程度の理解へと矮小化されます。
「権力バランスが不均衡にならないよう考慮した公正さ」や「公正を汲んで法廷で決定される社会的判決」ではなく。*2

こうして「弱きを助け強きをくじく」「努力すれば報われる」公正な世界らしき価値観は古美門によって「朝ドラ」と呼ばれ一蹴されます。

古美門の体現する思想はすべて、資本主義にしか拠り所のない利益至上主義です。
時に手段と目的が戯画的に入れ替わった勝利至上主義にさえなります。

利益最大化と勝利のために古美門は手段を選びません。
だから弁護士としての職業倫理など歯牙にもかけず偽証や捏造を繰り返します。
捏造してでも勝つことが一番重要なので。

勝つために手段を選ばず不正するキャラクターは元来悪役でした。
『リーガルハイ』の新鮮さは、今まで悪役でしかありえなかったキャラを主役に据え、しかも一貫して勝利を獲得させてその思想を肯定したことです。


大企業に存在を軽視される村人に向かって古美門が演説するのは競争原理です。
勝利と利益のみが信頼に足る社会で、弱者は公平な再分配などが与えられることはないので、生き残るためには誰にも頼らず戦わねばならない。
新自由主義の価値観です。

古美門「誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていければ楽でしょう。しかしもし、誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。戦うということはそういうことだ。愚痴なら墓場で言えばいい。
金が全てではない? 金なんですよ。あなた方が相手に一矢報い、意気地を見せ付ける方法は。奪われたものと、踏みにじられた尊厳にふさわしい対価を勝ち取ることだけなんだ。それ以外にないんだ!」
(『リーガルハイ』9話)

『MIU404』の現実追随主義批判

『MIU404』はポスト『リーガルハイ』とでも言うべきドラマです。
『MIU404』は極めて真っ当に従来的な「正義」を説きます。

「警察だからってルール無視で正当防衛以上の暴力は振るってはいけない」
「人を殺すのはダメ」
「権力を行使するには正当な手続きを踏まなければならない」

一周回ってものすごく保守的なメッセージですが、「一周回って」がポイントなのです。
一度『リーガルハイ』的な「正義なんて役に立たない」というニヒリズムを経由しているからです。

最終回で、組織のルールを順守していては久住を取り逃すかもしれないと焦った志摩が警察を辞めることを考えます。
そして志摩の相棒伊吹は二人一組の警察ルールを破り、かつ手続きを経ずに無断でひとり久住を追います。

まんまと久住に捕らえられたふたりは拘束されて夢を見ます。
久住を殺せるか?
志摩は引き金を引けるか?
志摩が殺されたら伊吹は手をかけてしまうか?
大事な人が殺されたから殺人に手を染めた恩人と同類になってでも?
正義か殺人かの選択肢が間断なく瞬き、最終的に久住を殺して志摩も死に全滅エンドで目覚めます。

この夢は「正義など無価値」の先にある結末を指しています。発砲要件を満たす規則なんてどーでもいいと捨てられるなら、人を殺せる。
けれどそこからは無秩序な殺し合いを容認する全滅への道が幕を開けます。
そんなインモラル世界の過酷さを経由して、夢から覚めて「正義」の存在する現実へ戻ってゆく。一周回ってきたのです。

オチでは久住が仲間に助けを求めるも、みな久住が渡した違法薬物で酩酊しており久住の怪我など気にも留めません。


つまり、無秩序で人を切り捨てる世界は、いつか自分も見捨てられる世界であると。

こうして『MIU404』は『リーガルハイ』的な「正義は無価値、ただひとつの正義などない」ニヒリズムに反抗します。
ニヒリズムをやっていたら社会のモラルが低下し安全は脅かされるのです。


また『MIU404』の舞台は警察という既存の正義を象徴する組織です。
「警察が隠す真実」を暴こうとするナウチューバ―RECも、「既存の正義など虚構である」というポストトゥルース思想の一種です。
既存の正義の逆張りのひとつは陰謀論に帰結するという示唆でもあります。

現代の新自由主義社会に鑑みると、警察が公的機関で非営利組織であることもポイントです。
つまり経済競争とは別の論理で働いている、新自由主義とは無縁の世界です。
だから利益確保と正義が対立しません。 
『MIU404』は直接は新自由主義と関係ないので利益獲得を追求する拝金主義に走る勢力も出てはきません。
営利活動と切り離すことで新自由主義と距離が取れます。
(それだけ現代社会と新自由主義が癒着しているということでもあります。)

●現実と正義の距離について両作比較

「現実を受容する」とは真実の曖昧さを受け入れることか、知りうる真実に向き合うことか

『リーガルハイ』一期1話と『MIU404』の2話は対照的です。

どちらもフォーカスされるのは殺人の容疑をかけられた男です。
どちらも「自分はやっていない」と主張します。
『リーガルハイ』のほうでは最後真実は判明しないままうやむやにされました。

黛「先生は彼がやったと思ってたんですか?」
古美門「どっちでもいい。殺っていようが殺っていまいがそんなのは私に関係ないしなんの興味もない。検察の証拠は不十分だっただから彼は無罪になった。それが法だ。三木のもとに帰りなさい」
黛「でも、だとすると真実は……!」
古美門「自惚れるな。我々は神ではない。ただの弁護士だ。真実が何かなんてわかるはずがない」
黛「だったら、私たちはなにを信じればいいんですか」
古美門「自分で探せ!」
(『リーガルハイ』1話)

『リーガルハイ』の現実追随主義は、絶対的な「正義」への懐疑から出てきています。
ずるしてでも競争に勝たなければ意味のない、経済競争が唯一普遍の真理となるネオリベラリズム時代。
貧困を救う再分配や労働者を守る市場規制も後退している中、公平さが守られない世界で指標にすべき正義もなにもありません。一部の既得権益者が得するだけのピラミッドが残ります。
そんな社会では誰もが納得する正義など共有できるはずがありません。

『リーガルハイ』の「真実などない」現実観は、皆が皆信じられるものを失った時代の実感です。*3
大集団で常識は共有できず、ただ価値観の似通った小集団だけが乱立する。
そんなタコツボ社会はなにも信じなくなった果てに「事実」をも崩壊させてしまいます。
それが『リーガルハイ』の思想です。
真実などない、どうでもよい、「現実」は勝つか負けるか、利益獲得のために全力を尽くして戦う競争社会である、それだけが信用に足る、勝利と利益以上を求めるべきではない、曖昧模糊な正義やら真実やらを求めるのは傲慢である。
現実が正義を、そして真実を曖昧にしたのです。

これが2012、3年ごろの「現実主義者」でした。
だから一期第1話も、そして二期最終話も真実はうやむやになりました。
真実なんてなんだってよいのです。わかるわけないのだから。
そんな諦観を受容して利益を勝ち取るために戦うのが現実を直視する行為でした。


『MIU404』2話は、本当は殺していないのではないかと淡い期待に寄りますが、最後の最後にやっぱり殺してしまったのだと判明します。

わからないことをわからないまま受け入れることも大事です。
ですがそれは罪を犯しても闇に葬ってうやむやに誤魔化すことではありません。
2020年の現実受容とは犯した罪に向き合うことです。
殺人さえ野放しにして「真実はわからないから」と判断を放棄しては現実逃避です。
現実に向き合って、本当に事が起こったのだと認めることが『MIU404』の描く現実主義となります。

志摩「「俺はやってない」
犯人がそう言うとき多くはごまかすために言う捕まりたくないから。
だけどもうひとつ。犯人自身がやっていないと思いたい。自分のやってしまったことを認めたくないんです。できることなら罪を犯す前に戻りたい。なかったことにしたい。でも時は戻らない!」
(『MIU404』2話)

伊吹「お前バカだなあ! 殺しちゃダメなんだよ! なあ。相手がどんなにクズでもどんなにムカついても殺したほうが負けだ」
(『MIU404』2話)

こんなきわめて常識的な、真っ当がゆえにありきたりすぎる台詞は『リーガルハイ』では忌避されたものでした。そんなものみんな知っているし綺麗事だし世界は競争社会だからたったひとつの正解があるわけではない真っ当さよりも経済的勝利が重要であると。
『MIU404』は正解のない社会で改めて、あえて保守的なやり方でこの台詞を伝えるのです。

「正義の暴走」

『リーガルハイ』の正義と理想主義の関係はこうです。
正義=唯一絶対性のないもの
→だからただひとつの正義を唱える者は欺瞞=綺麗事=非現実的=理想主義者。
理想主義と現実主義は相いれず、また正義と現実主義も同様の水と油の関係です。

二期のラスボス・理想主義の象徴羽生は、理想実現のために恐喝や監視も辞さない人物でした。
理想を押しつけて他者を自分の思い通りに動かし利用する姿は「正義の暴走」と呼ぶべき様相を体現していました。

『MIU404』で羽生に対応するのは志摩の元相棒・香坂です。
香坂は追い詰められて犯人を逮捕したいあまり証拠を捏造して捜査令状を取ろうとします。

香坂「大きな正義の前に、そんな些末なこと」
志摩「警察は法律が定める手続きによってのみ個人の自由を制限できる。法を守らずに力をふるったらそれは権力の暴走だ!」
(『MIU404』6話)

『リーガルハイ』も『MIU404』も正義は危ういことを描いています。
しかし決定的な違いが二点あります。

ひとつ、詳しくは後述しますが『リーガルハイ』が羽生に指摘したのが「人間の醜さを認めろ」であるのに対し、『MIU404』が香坂に糾弾するのは「権力者が不当に個人の人権を制限することは悪だ」であること。
『リーガルハイ』では古美門も別の目的のためには他人に偽証させたり不法侵入させたり犯罪も辞さない点で羽生と同類なので、そこを責めることはできません。(なのに自覚的に悪に手を染める古美門はなんとなく免罪され、清く正しいはずの羽生が同じことをするとより悪く見える。ヤンキー捨て猫理論の逆ですね)
エゴのために時に犯罪をするような醜さが人間なのだ、それを認めろと。現実追随主義です。
古美門は弁護士の権力を大いに暴走させて勝ちにいきましたが志摩はそれを否定する点で異なっています。

ふたつ、正義のために暴走するキャラクターが、『リーガルハイ』ではラスボスだったのに対し、『MIU404』では正義と悪を考える上でのバリエーションのひとつに過ぎないこと。
『リーガルハイ』は最初から悪に自覚的であるよりも正義感が行き過ぎて悪に変化するほうが危険な悪である、というメッセージを発しています。
ところが『MIU404』は正義も暴走する危険があるが、自覚的な悪を受容して促進するのはより悪であるというメッセージになっています。
ラスボスの比較から見えてくるのはこうした「悪」に対する姿勢です。

『MIU404』のラスボスは『リーガルハイ』でいう古美門です。
世の醜さ人間の醜さを「現実ってこういうものなのだから」といって放置し、自分の悪を正当化する者。
悪を正当化すれば当然より多くの悪が蔓延ります。となると「現実」は本当の現実よりもひどくなっていきます。
現実追随主義には歯止めがありません。*4

「自分を正しいと思い込んでいる人」にも歯止めはありません。それはそれで危険です。
しかし「正義の暴走」にばかり着目することで単なる悪を看過し免責してはいないでしょうか。
「正義の暴走」は畢竟「悪」に陥るから危険であるのに、「正義」そのものさえも嫌悪されてはいないでしょうか。

そうなればまったく本末転倒です。
悪はよいが、正義はわるい、という着地になるからです。
『リーガルハイ』が描いたような新自由主義時代の既存の綺麗事嫌悪と現実追随主義は、「正義」の欺瞞性を暴いているつもりで実は、悪をみすみす見逃し培養しているのです。
その空気を察知したから『MIU404』は現実追随主義をラスボスに据えたのだろうと思います。

「現実(追随)主義VS.理想主義=正義」と「現実主義者(+正義+理想主義)VS.現実追随主義」

『リーガルハイ』と『MIU404』が似ている点はメインキャラクターの役割です。ただ、配置が全く異なります。

f:id:koorusuna:20210224231815p:plain

ラスボスが『リーガルハイ』では理想主義者、『MIU404』では現実追随主義者。
前述したように作品がいちばん否定したい価値観が真逆です。

また、志摩は他人も自分も信じておらず世を斜に構えるひねくれ者です。この点で古美門と同じ。
古美門と志摩それぞれの相棒は理想主義者です。
黛は「理想が現実を越えられるはず」、伊吹は「昔の俺みたいなやつらをまっすぐな道に戻したい」なタイプ。
古美門はキラキラ理想主義者黛をなじりますが、志摩は伊吹を否定しません。
黛は次第に古美門の思想に染まっていきますが、志摩は逆に伊吹に感化されていきます。
現実主義から始まった両作ですが真逆の方向を辿ります。


『リーガルハイ』二期は「重要なのは勝ち負けじゃなくてwin-win」理想主義VS「勝利がすべて」の現実追随主義を描きます。

『リーガルハイ』において正義とはまず「既存の綺麗事」であり、そこから「それぞれの利益増大を目的とした手段」へとすり替わっているので、羽生の理想主義は「既存の正義」の具現でありながらなおかつ「一思想に過ぎないwin-winの利益増大を目指す、という正義」でもあります。
つまり羽生の理想主義は既存の意味でも『リーガルハイ』的競争社会ででも正義として扱われます。
人倫にかなうかどうかとは無関係に理想主義はイコール正義です。

羽生の理想主義は古美門の対抗馬として設定されたわりに古美門に負け続けます。
裁判で負けても原告と被告の仲が解消した、win-winの理想主義が実現したのは全10話中、わずか2話です。
その2話さえあまりにラストが飛躍する、非現実的和解です。
つまり理想主義の実現を「いかにもありえそうな、信じられる、説得力のあるもの」としては描いておらず、「胡散臭い綺麗事」として印象づけているのです。
それが証拠に最終回で古美門に「君たちが和解させたあと、彼らはかえって不幸になっているかもしれない」と言及されます。

「ご近所トラブルで傷害事件に発展したので引っ越したけど結局相手もわざわざ引っ越して再度お隣さんにハッピーエンド」
「社内の著作権トラブルで会社から多額の金を巻き上げることに成功したがそのせいで倒産した会社の社長にわざわざ近づきやり直し」

こんな綺麗な和解は現実的ではありません。
羽生が目指したユートピアのような理想主義は、だから、人間の愚かさを直視していないということで古美門に否定されます。

古美門「君は人間は愚かだと言った。全く同感だどいつもこいつも愚かで醜く卑劣だ。(中略)
我がままで勝手でずるくて汚くて醜い底辺のゴミクズどもそれこそが我々人間だ」

古美門「もし君が皆が幸せになる世界を築きたいと本気で思うのなら、方法はひとつだ。醜さを愛せ」
(『リーガルハイ2』10話)

最終的に羽生は「理想主義を実現するためなら人間を駒としか認識しないし監視社会でも脅しでもやる」と悪へと染まってゆきます。

『リーガルハイ』は徹底して「理想主義、ひいては正義は脆弱である」と主張しているのです。 
汚いものから目を逸らし、現実と乖離した聞こえのいい言葉だけ見ているからお題目を唱えられると。
醜い現実から目を逸らしているから、時に理想主義はルールをも無視して一人歩きで暴走してしまう。
『リーガルハイ』の現実観と正義観はこのように出来ています。


『MIU404』はモラルを守るために正義の手続きを踏むドラマです。
『リーガルハイ』は正義=理想主義でしたが、『MIU404』における正義は人倫を守るための手段です。
目的と手段が逆転しそうになれば途中で正します。(6話)
正義は倫理の欠けた理想主義ではなく、ましてや利益増進手段としての単なる一思想でもありません。
正義と現実主義も両立可能です。『リーガルハイ』と違って。
現実を直視することはごく単純に可能であり、それは汚い現実が見ようとするまでもなく目の前に現れてしまうからです。外国人留学生の搾取構造しかり、風俗と裏カジノと資金洗浄会社の近さしかり。
現実から目を逸らすことも、けれど逸らせやしないこともすでに知っているから2話の殺人を犯した青年を描けました。


そんな醜い現実だけど、志摩も伊吹も現実をわかりきった上でそれでも「間に合いたい」から諦めません。
しかし久住はそんな醜い現実だから、すべてを虚無に捨て去ります。

久住「言うとくけどな、俺は大したことなんにもしとらん。作りたい奴がクスリ作って使いたい奴がつこて人形になりたい奴がなった。
まあみんな頭悪いんやなあ。頭悪い奴はみんな死んでもろたらええねん」

久住「汚いもん見んようにして自分だけは綺麗やと思てる正しい人ら、みーんな泥水に流されて全部なくしてしまえばええねん」
(『MIU404』11話)

「汚いもん見んようにして自分だけは綺麗やと思てる正しい人」はまさに『リーガルハイ』の羽生でした。
『リーガルハイ』では古美門研介の体現する「今まで悪とされていた論理」が羽生のような「今まで正しいとされていた論理」を"論破"しました。
が、『MIU404』ではまた古美門研介の持つ現実追随主義思想が悪役となります。
現実とは綺麗事のおべんちゃらではなく汚れた醜い世界。人間は生来クズであり未来永劫変わらない。
そんな人間観だから久住は「大したことなんもしとらん」と言うのです。人間のクズ性にほんの少し寄っただけ。

しかし主役は羽生ではありません。
綺麗事だけで生きようとする人間ではありません。

志摩「俺は他人のことなんかどうだっていいんだほんとは。心配するふりして善人のふりして人間らしく見えるように振る舞ってるだけ」
久住「俺とおんなじやん」
(『MIU404』11話)

志摩と久住は根本のところでは同じなのです。クズで醜くて冷酷非道な感性を持つ。
ではふたりを分かつのはなにか。
本作はそれを「スイッチ」だと言います。

志摩「誰と出会うか、出会わないか。この人の行く先を変えるスイッチは何か」
(『MIU404』3話)

古美門/羽生の対立は「現実をわかってる人」と「現実を直視できない人」でしたが、志摩/久住はそうではありません。
ただ、なにがあったか、誰と会ったか、どんなスイッチがどこで押されたか。単にそれだけ。
久住が現実に流される現実追随主義者なら、さしずめ志摩は現実に負けぬよう踏みとどまる現実不屈主義者でしょう。

環境因を考えるということは社会を考えることです。
非正規労働と女性、外国人留学生の搾取、性風俗への接続、少年法、福祉、等々社会問題を扱う『MIU404』は社会のスイッチを捉えようとしています。*5

『リーガルハイ』における「現実」とは競争社会であるため、現実を直視するとは戦うことにほかなりません。
戦わずに和解を目指すことが現実逃避となります。
『MIU404』における「現実」は「いくつものスイッチによって簡単に悪が蔓延る場所」です。
だから現実直視は悪蔓延る社会と己を見つめることだし、現実逃避とは悪を放置し促進することなのです。


志摩が体現するのは、法を遵守し、権力の持つ責任を理解し「正しくあろうとする者」が現実離れした理想を掲げたお花畑を目指しているわけではない事実です。
ただ現実に規定された秩序を守ることで人倫に寄って立とうとする姿勢を当たり前のラインに設定しているだけ。

もちろん『リーガルハイ』が指摘するように善の実現を目指す意味での理想主義が現実から乖離する可能性はつねに存在します。
しかし現実が醜いからといってそれを甘んじて受け入れてしまっては現実は維持されるどころかより悪くなってしまいます。
その果てが違法薬物をばらまいた末に自分も見捨てられる世界です。
羽生は人間の清らかさしか見ていませんでしたが古美門も人間の濁りしか見ていません。
古美門の愛した醜さは、ただ愛するだけでは現実を凌駕し現実が悪化してしまいます。それが現実追随主義です。

志摩は自分が久住と本質的に変わらないと知っていても、伊吹含めたスイッチに出会ったり出会わなかったり、「善人らしく振る舞おう」としたりして、醜悪な現実へ流されるのを押し留めています。
別に醜い現実をよく見知っていても「現実はそんなもの」と諦めないことくらいはできるんですよね。

これが正しくあろうとする者の姿であるし、あるべきだと『MIU404』は主張するのです。
それを理想主義と言うならそうでしょう。
『リーガルハイ』が論破できる程度の現実基盤のない理想主義者だけが理想主義者ではありません。

●時代背景

最後に『リーガルハイ』と『MIU404』それぞれの作品が生まれた時代背景について触れておきます。

『リーガルハイ』の2012年~2013年は新自由主義的ニヒルズムカルチャー全盛時代です。
第二次安倍政権が誕生したころです。
安倍政権はひとつのシステムなので、安倍じゃなくてもこの時期誰かが同じ役割を担っていたのだと思います。
選挙で勝ちさえすれば政権の行いすべてに「国民の支持を得られた」と語る様はまさに勝利至上主義です。
森友学園問題や加計学園問題もろくに説明せずに許されたとアピールし、選挙前は沈黙していたにもかかわらず選挙後は同じく「理解を得られた」と消費税増税や度重なる憲法改正への執着も勝利にのみ支えられています。
ここでは選挙権を持った人口の30%しか自民党を支持していない等の事実は無視されます。勝ったのならば数は問題にならないことをよくよく理解しています。

震災や豪雨、台風等自然災害への支援を積極的に行わなかったのも、東日本大震災の復興費を住民ではなく企業や事業に注ぎ込んだのも、医療費介護費生活保護費の削減も、長期雇用義務の欠けた労働者派遣法改悪も、徹底して経済競争の強者を見つめており庶民には「自助」を求めました。
アベノミクスで発生した株高円安は輸出関連の大企業・一部資本家と金融所得者に恩恵をもたらしましたが、グローバル化の現代、その好況の影響は海外へ流れ、国内産業へは届きませんでした。

弱きを見捨て資本家や一部の仲間を優遇する社会で、ただでさえ掬っても掬っても取りこぼしがある「正義」が機能するはずありません。
弱肉強食利益増進への道を舗装するのであればそれがこの時代の「正義」にすらなりえましょう。
丸山眞男の「その時々の支配権力が選択する方向が現実的と捉えられ、その反対勢力の選択が非現実的だと考えられがちだ」はまさにこの時期にぴったりの言葉だと言えます。


『リーガルハイ』のような「それぞれの利益増大を目的とした手段」くらいの正義観が安倍政権を下支えしたのです。
というかそのような新自由主義時代の経済競争主義・利益主義・勝利的な価値観を読み取った政権がこれを利用したともいえます。
政治と文化は新自由主義を共有する互助関係にありました。

『リーガルハイ』は常識や王道の逆張りをするニヒリズムぶりは徹底していたので、時に「これからはかつて情でなあなあにして丸め込まれてきた個人の権利を戦って勝ち取っていく時代」「親子であってもわかりあえない」「複数人との交際も関係者の合意さえあれば幸福のひとつの形である」といった、古い慣習を唾棄して新規的な価値観をもたらすことに成功しています。
問題は、この「常識」と「正義」が切り分けられず混在し、既存の正義が「非現実的な綺麗事」程度の道具に成り下げられ、代わりに「それぞれの利益増大を目的とした手段」へと「正義」がすり替わったたことです。



どうせドラマが政治と結びついているという考え方は忌避されがちなんでしょうけど、『MIU404』が政治批判でもあることは疑いようがありません。
脚本家が社会を捉えようとしているので。

今までの刑事ドラマで「巨悪」を描いてきて、結果どうなったかというと、社会は変わらなかったし、権力側の不祥事を見ても「ああそんなもんか」といつの間にか慣れてしまってたんじゃないかと。それよりも、ルールは絶対に守る、公文書は破棄しないという、本来あるべき姿を描いていれば、それが当然だという空気になるかもしれない。

もし実際の社会に、ルールを破る警察が出てきたり、公文書を破棄する官僚が出てきたら、「それはダメでしょう」という空気になるだろうと思うからこそ、私は、そっちの方を描いたし、むしろ今はそのほうが意義があると思ったんですね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f980e322588d09d49d74062fbcb154703141dacb

勝てばいい。
正義なんてない。捏造も改竄も些末なこと。
利益追求だけが真実。

こういう不正義を受容する土壌はなにをもたらしたか、2013年よりも後の時代、2020年を生きた『MIU404』は知っています。
2016年選挙に勝ったトランプ政権樹立。この余波は言わずもがな日本にも流れつきました。
2017年森友学園問題が発生。公文書を改竄・実行した職員の自死に起訴されるも逃げ続ける国。
2019年桜を見る会問題。政治資金法違反の疑いも不起訴処分、繰り返される虚偽答弁。

不正義に目をつぶり、「弱きを助け強きをくじく」価値観すら唯一絶対の正義ではないからと相対化され、その間にも新自由主義政策が進められたその先の世界が今です。
結局コロナ禍で逼迫した医療や増大した貧困への手当ても不十分なまま、五輪には追加資金が投入されます。
災害時でも見ている方向は変わりません。


新自由主義のコンセプトを持たない『MIU404』が描いていないところですが、利益を追求し現実追随主義に陥り不正義を許容する価値観は強者に都合のいい理屈です。 
際限なく私腹を肥やす自分の行為を正当化できるためです。
実際新自由主義が生み出した自己責任論や社会的再分配への不支持率が高いのは圧倒的に資本家階級です。
特に保守統治エリートの世襲政治家などは自らの権力性への認識が薄く、切れ目なく受け継がれてきた世襲財産という特権に制限をかけられたくないわけです。
そんな既得権益者らにとって特権を持つ者の責任を放棄してくれる現実追随主義は実に都合がいい。
こうなると「正義」は脇に捨て置かれて当然です。

『リーガルハイ』の価値観すべてが批判に値するとは言いません。
言いたいのは、現実なき上滑りの理想主義と同様に、正義なき上滑りの現実主義は簡単に既得権益者に利用される現実追随主義に陥る危険がある、ということです。

『MIU404』は、上滑りするお題目の「正義」の中身を掘り下げ、「正義とはなんなのか」を描こうとしています。
『リーガルハイ』の言うように正義に正解はありません。『MIU404』が答える正義も十全ではありません。『MIU404』が本当に「現実」を捉えきれているとも言い難い。(風俗の実態も描かれなければヤクザが探し回った恨めしい女も殺し切らないし……。)
しかしだからといって正義を放棄するのではなく、考え、点検し、積み重ねつづけることがいちばん大事なのだ、と『MIU404』は応答しています。

桔梗「小さな正義を一つひとつ拾ったその先に、少しでも明るい未来があるんじゃないんですか?」
(『MIU404』11話)

*1:もっとも古美門は常勝弁護士で金持ちです。新自由主義を背負った作品はその結実たる『進撃の巨人』のように生存の切実さが見られるものですが、2000年代に切実な生存競争を散々経て思想が定着した2010年代にはもはや弱者側の悲愴性が欠けても「勝利がすべて」「弱肉強食」がなんの批判も皮肉もなく表現することができているのが興味深いです。これが後述する「既得権益者が利益総取りを正当化する」土壌になりました。

*2:法の理念は「正義」と「力」なのに! 『リーガルハイ』は法がルール通り執行される信頼を前提にしながらも正義を建前の綺麗事として軽視します

*3:この感覚に影響を及ぼしたのはネオリベラリズムのみではなく情報化社会やグローバル化等複合要因があるでしょうが

*4:そもそも古美門はダークヒーローなので悪の権化なのですが、何度も言うように『リーガルハイ』において古美門は「ダークヒーロー」っぽくは描かれず「正義感0の変わり種現実主義ヒーロー」として君臨したところが新鮮だったのです。

*5:けれども『MIU404』は「誰と出会ったから止められた」のような安直な物語を行使したりはしません。伊吹が恩師蒲さんの殺人を止められなかったことや久住が「お前らの物語にはならない」と言い放ったことがそれにあたります。社会に切り込んだとしてもすべてが安易な因果論で片づけられるほど社会は単純ではないからです。例えば犯罪を犯す人すべてが家庭環境に問題を抱えるわけではないように。スイッチというのは単純な一本道にはなく、ピタゴラ装置のように複雑に絡み合った先で押されるものだと『MIU404』は説いています。