青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとか社会を考えるオタク

続続・NTRを考えてみる~男らしさの苦悩~

前回記事のつづきです。
koorusuna.hatenablog.jp
koorusuna.hatenablog.jp

NTRの背景にある社会とは(ジェンダーをとりまくあれこれ)

 ところで、最終的にNTRが必要とされてしまうような社会環境とはどういうものなのかを考えてみたい。

 前記事で「これからの女性は性欲を自分の意思でコントロールし、表明していくかもしれない」予感を少女漫画を引用して考えた。
 今回はまた少女漫画を引き合いに現在の女性の性的意思をとりまく社会状況をもう少しだけ遠視して、NTRと接続させる。

リードを取らない女と取りはじめた女とそれでも苦悩する男

女は性的リードを取らないのか?

 少女漫画は基本的に男が主導権を握って迫り、女がそれを受け入れる構図である。それは今も2015年に報告の状況とほぼ変わっていない。*1
 それは従来の「男がリードを取るべき」規範を利用した、決定責任から逃れて他者が勝手に自分の望むほうへ導いてほしい願望である。

 ここで疑問となるのは、女性たちは皆ただ自己決定権を捨てたいばかりなのか? という点である。
 もちろんその面を否定すべきではないが、一面的に捉えても意味がない。

 菊地夏野曰く、英米のポストフェミニズムは性的能動性が前景化するが日本のポストフェミニズムは性的抑圧が残っているという。*2
 また青少年の性行動全国調査報告(第8回,小学館,2019)によると、男子大学生の92%が性的自慰行為経験済みと回答したのに対し、女子大学生になると36%しか経験していない。回答しづらさも含めて圧倒的に女性のほうに性的抑圧が加わっていることが読み取れる。
 女性が欲望を抱く主体性が阻害され、「はしたない」「卑しい」「(身の丈以上の欲望を抱くなど)おこがましい」と他者から辱められるのだ。
 あるいは「アダルトビデオに出た女性はヤらせてってお願いすればヤらせてくれると思われがち」と澁谷果歩は語る。菊地によると英米での女性の性的能動性は肯定されているもののその能動性が男に都合よく使われているというが、その実態は「ワンチャン狙い」である。
 いずれにせよ自身の意思を尊重されず他者の都合に合わせて性的欲望は解釈されるという抑圧が存在するだ。
 また、同調査によると女子のセックス忌避意識の裏には妊娠リスクがあるという。身体的な負荷はもちろん、妊娠がキャリアを阻害するリスク、それに伴う貧困リスクが彼女たちには意識されている。避妊方法も限られる状況では性的能動性は獲得しづらくなる。

 つまり「女が性的欲望を表に出すなんてはしたない」抑圧的な規範が存在し、性的欲望を表明する女への偏見や断罪が厳しく、安価かつ容易かつ確実な避妊方法もない中で妊娠による社会的リスクが大きくセックスそのものが忌避され、まだまだ女が簡単には性的欲望を表明できないからこそ従来的な規範に従って男にリードを求める傾向へつながるのだ。

 しかし、前記事で『思い、思われ、ふり、ふられ』を確認したように、昨今の少女漫画はリードされるばかりではなくなっていく兆しが見える。
 例えば『逃げるは恥だが役に立つ』もみくりからセックスを誘うし、『みにあまる彼氏』はヒロインが性的なことに関心が高く積極的に求める。『フラレガール』も同様だ。
 彼女たちが完全には主導権を取らない、あるいは「ドン引きされたのでは」という自己嫌悪に苛まれるところに性的抑圧がうかがえるが、同時代的にこうした変化が見えているのは注目に値する。
『フラレガール』においては自己嫌悪を乗り越え性欲を抱く自分を肯定した。このプロセスを丁寧に描写することそのものが現代が過渡期であることを示しているように思う。

 あるいは現実とフィクションの狭間にある恋愛リアリティーショーを例に取ってもよい。
 Abemaで配信中の『今日好きになりました。』シリーズは高校生の異性愛カップルの誕生を眺める番組だが、そこでの女性たちは自ら積極的に行動し、遠回しな言い方をするでもなくストレートに誘い、男性からのリードを待ってはいない。
 もちろん性行動が見られるわけではないし、リアリティーショーという舞台の特性もあるが、少なくとも彼女たちには積極的に行動することで視聴者からそしられるような不安は抱かないということである。

女が性的リードを取りはじめた「にもかかわらず」ではなく、「だからこそ」僕を選ばない

 女性が少しずつ性的能動性を獲得しはじめたなら、男らしくリードできない自己嫌悪に悩む必要はなくなるのではないか? なぜ今もってNTRが必要とされるのか?
 解答を急ぐなら、過渡期だからこそ女性たちに課されている性的抑圧の根強さとその奥にちらつく性的主体性との統合を試みた結果がNTRとして応答していると説明できるだろう。

 ――寝取られをあえて定義するなら。
 ひ(引用注:ひげなむち) 好きな女性の性が思い通りにならない敗北感かなと。男はバカなので好きな女性の性を自分のものだと勘違いしますけど、そんなわけはなくて。女性にも自分の性があり、意志があり、それを満足させるように行動するのが普通です。そこを納得しきれてないのに、受け入れるしかないという、男の情けない敗北感が寝取られなのだろうなと思います。
(『〈エロマンガの読み方〉がわかる本2 特集:NTR』/2019)

 NTRのヒロインは良き妻/良き恋人として欲望を表に出さない貞淑な、あるいは自己開示できない女性である。このヒロイン像は女性を取り巻く性的抑圧性に対応している。
 けれども彼女は本当は激しい欲望を抱えている……というのはヘテロ男性向けのエロコンテンツの様式美でもあろうが、NTRは「女性の性が思い通りにならない」点が主題なのだ。
 これは曲がりなりにも女性が主体性を持ち始めたなら男性が「手ごめ」にできなくなるという予感に対応するだろう。
 女性が性的主体性を獲得しだした"にもかかわらず"男がリードせねばと思い悩むわけではなく、"だからこそ"支配できなくなるがために「男らしくリードしないと捨てられてしまう」不安が喚起されるのだ。
 けれども女性の性的抑圧がなくなったわけではないから(誰とでもいいからヤりたいビッチでなければ)彼女たちには流される言い訳が用意される。

 男性向け恋愛ものでも男性は女性を気遣い性的行動を起こさず男性の受け身願望が描かれる*3が、NTRは受け身願望を許さない。なぜなら次節で見るように「女は強い男に惹かれるのが本能なのだ」という旧来的なステレオタイプを信じてしまう環境にいるからだ。
 そこに「本能的なセックス=快楽」とみなすエロのテンプレートがすんなり当てはまってくる。
 NTRを解き明かすと現代社会が立ち現れるといっても過言ではない。

「男らしさ」に苦悩するとき

 次になぜ今「男らしくない」ことが重荷となっているかを考えたい。
 それを考えるには女性が恋愛対象/婚姻相手の男性に求めているものはなんなのかを知る必要があるのでまずはアンケート調査結果を確認する。

女は恋愛対象/婚姻相手の男になにを求めているか?
『女子大生の恋愛と結婚に対する意識調査 ──理想の男性像と,男性への許容意識との関係──』三木 幹子,広島女学院大学論集,2016*4

 女性が結婚を考えたとき、まず目につくのは経済力を男性に求めていることである。対して真面目さ誠実さはあまり求められていない。(ただし優しさは重視される)
 また、全体的な傾向として旧来的な男らしさを求め依存を求める女が多い。*5NTRの現実認識が生まれるのは自然である。
 ただ、問題に分け入るともうすこし多層的な女性たちの価値観が見えてくる。

 第一に、経済力を求めるのは結婚を見据えた時点であり、恋愛時にはあまり注目されない。高校生は経済力を求めないが年を重ねるにつれ重視するようになるというのもそれを裏づける。*6つまり結婚と育児、男女の賃金格差、キャリア途絶を考慮して生涯賃金の試算をした上で結婚相手に経済力を求めているのだ。
 第二に、調査の詳細を見ると女らしい女は男らしい男を求め、女らしくない女は男らしくない男を求めていることがわかる。
 三木によると、「結婚相手の条件として経済力を重視する女性は,仕事ができて決断力のある肉食系男子を好んでおり,反対に結婚相手に経済力を求めない女性は,優柔不断で仕事に意欲を持たない草食系男子を許容する傾向がみられ」る。*7

 また、調査では「結婚を現実的に考えていない未分化型」と言われているものの男性に経済力も頼りがいもルックスも求めない女性がけして少なくない一定数存在するのだ。

『女子大生の恋愛と結婚に対する意識調査 ──理想の男性像と,男性への許容意識との関係──』三木幹子,広島女学院大学論集,2017*8

 世のドミナントな価値観が「女性は男性に男らしさを求めがち」だから見逃されてしまうが、実際は女性の好みひとつとってももっと多様である。

なぜ今「男らしさ」が重荷なのか?

 ではそんな現代においてなぜ「男らしさ」が注目され、疲弊を伴って男性たちの負担となっているのだろうか?
 およそ思いつく限り6点挙げてみるが、他にも考えうるだろう。

①経済の縮小により男性が従来どおりの「甲斐性」を持てなくなってきているから
 経済が拡大していた時代なら一律的な「男らしさ」を難なく実現できていた男性たちだが、不景気の煽りを受けて経済力の誇示が難しくなっていく。
 理想の男らしさを実現できない負担が近年顕在化していると見ることができる。

②性のダブルコンティンジェンシー
 前記事で説明したダブルコンティンジェンシーであるが、改めて詳しく解説すると、これは非身分制時代の産物である。

 前時代においては個人は身分に縛られていたので、個人が各身分の規範に制限されてあらゆる行動は予測可能であった。個人の行動責任は、なぜそうしたのかを問われることなく「こうするのが当然だから」で免責されていた。男が奢るのが当然だし、奢ったらヤれるのが当然だし、男がリードして女が男を立てるのが当然だから女は男のアプローチを待ってるのが当然で女がつくった隙を突いてちょっと押せばうまくいく、お約束。

 しかし「当然」という暗黙がない社会ではお約束が通用せず、次の行動は相互に予測不可能となる。近代以後身分制から解放されるにつれ、現代でますます互いの行動は属性では判断できなくなった。
 相手がどう出るか、自分がどう行動すべきか不確実な状態で向き合わねばならず、相手自身を理解する、より高度なコミュニケーションが必要になる。押すのが正解なのか引くのが正解なのかは個々の事情に左右され、自分の行動にはつねに判断責任が伴うようになる。
「男性が生きづらさを感じる瞬間」の調査で20代・30代男性の1位が「デートで男性がお金を多く負担したり女性をリードすべきという風潮」である*9のはこの細かな判断責任と従来の規範による責任感の掛け合わせがもたらしたと言えはしないか。

③年上世代のドミナント価値観 男らしくしろ
 こうした状況の変化に前時代の世代の価値観がついていけていない。
『今日好きになりました。』金木犀編#3でのノンスタイル井上のコメント「グイグイ引っ張る男のほうがモテやすいやん。言ってんねんけどやらないよね」が象徴的だが、未だ素朴に「男は男らしくリードして女を手に入れるべし」という中年以降世代の価値観は根強く、あの手この手で発破をかけてくる。

「男がリードすべき」規範と「お約束のなくなった世界で自らがした行動の結果責任は自らが取らねばならない」の板挟みになった男性たちはその責任の重さに耐えられなくなってきているのではないだろうか。

④ロマンティックマリッジイデオロギー 「本当の恋愛」の社会的責任重いから
 さらにはそこにロマンティックマリッジイデオロギーも拍車をかける。
 ロマンティックマリッジイデオロギーとは「結婚には恋愛がなければならない」とする価値観である。
 この価値観が現代日本で支配的である一方、結婚には従来的な生殖の役割も期待され、それらと一体になった「一人前の人間」になれるという社会的承認も埋め込まれている。
 つまり社会に認められるためには結婚しなければならず、結婚には生殖がつきものだから子供を育てられるだけの経済力が必要となり、さらには結婚は恋愛を経てたどり着くものであり、女性との関係を恋愛に発展させるには男性側がリードを取らねばならない、にもかかわらずどこでリードすべきかはマニュアル化できなくなっているので行動責任も引き受けなければならない。
 社会的承認を得るために辿るべき道のりが長すぎるし、重すぎるのだ。
(コミュニケーションがある程度マニュアル化され、相手からの好感度を間接的に把握できる制度として結婚相談所が一般化しているのは当然の帰結であろう)

⑤女らしさを求める男は男らしくあれと思うから
 ④に見るように、旧来的ジェンダー観に沿ったまま現代の社会に適応するのは旧来よりもハードルが高い。
 達成が難しければ難しいほど「自分は女性に求められるような男らしい男になれない」と絶望も深まろうというものだ。
 NTR作品から見えてくる男らしさへの劣等感からは、逃げたいけれども逃げられないがために唯一救われる道としてのロマンスを渇望する男性の疲弊が浮かび上がってくる。
 旧来的ジェンダー意識の低い男性が結婚から遠ざかる*10中、異性愛ロマンスを渇望する彼らは旧来的ジェンダー意識が高いからこそ逃げたくても逃げられない。そこには女性には女らしさを求め、だからこそ男性も男らしくあらねばならないと考える一貫性がうかがえる。

 繰り返すと自らの女らしさを追求しない女性は男性にも男らしさを求めないのだが、当然女らしさを要求してくる男性とはマッチングしない。(逆もしかりで、女らしくあらねばならないと考える女性は男性に男らしさを要求するため、女性に女らしさを求めない代わりに男らしくなりたくない男性とはマッチングしない。)
 前節で確認した、全体傾向として男性に旧来的男らしさ求める女性が多いこと、社会的圧力により男性に経済力やリードを求める傾向が促進されることに覆い隠され、男性に男らしさを要求しない女性の存在が見えにくくなっている。その女性は旧来的ジェンダー意識が低いのだから、旧来的ジェンダー意識が強い男性はますます男らしくなさを受け入れてくれる女性に出会えない。
 そうしてますます「自分は男らしくなれない」絶望を深める……というサイクルである。
「女性に女らしさを要求する男性は、一家を養わねばならないと思っている/恋愛願望が強い/気軽な恋愛を好まず結婚を意識する」という調査結果*11からはまさに寝取られ男の人物像が見えてこないだろうか。

 しかし「男らしさを求めない女性もいる」と説明しても彼らには届かない予感がある。
 なぜならそんな女性がもしいるならば誰にも男らしくなさを受け入れられていない現状の彼らが説明できず報われないからだ。
 また能動的になることを求められて疲弊した彼らにとって、「女は結局男らしい男が好き」にしておくことで動かずにいられるエクスキューズをつくり絶望を味わい自己を癒やすことのほうが先決である。

⑥そもそも結婚以外に孤独を埋める手段がないから
 結婚は社会的承認が得られ、かつ、孤独感が軽減される(可能性が比較的高い)一石二鳥の社会制度である。
 身分制の頃は地縁社会で存在が承認され、孤独リスクは低かったといえるが、現代では両得を得る手段として社会的に受容されるとなるとほとんど結婚しか手段がない。
 近年、社会的承認を捨てて孤独リスクを軽減していこうとする動きが見えないこともないが、まだ強力な存在肯定にはなるとはいえない。そもそもリスクを背負わざるをえない生活者もいる。
 だからここではただ「結婚以外のオルタナティブ道の舗装はまだまだこれからである」ことだけ確認しておこう。だからその道に乗れないことが絶望へつながりやすいのだ。

自己責任論とNTR――真面目で優しい弱い男

 最後にNTRに見る自己責任論に触れておく。
 NTRの主人公は非モテ男性の肖像画そのものであるといって差し支えないだろうが、非モテ男性論と自己責任論もものすごく近いと思う。
 詳しい話は別の機会に譲りたいが、NTR非モテ男性論も「自己責任論を押し付けられ、内面化している」ことと「重たい自己責任から免責されたい」のはざまで揺れ動いているのではないかというのが私の見立てだ。
 どんな苦しみも悲しみも「男なら男らしくなれ」「その苦しみはお前が男らしくないせいだ」と回収されてしまい、被害者を名乗ることができず自己責任にされてしまう彼らにとって、「その男らしくなるってことができないんだから仕方ないじゃないか」と開き直ってすこしだけ自己責任から逃れうる先が「非モテ」「NTR」なのではないか。
 ただし社会はまだ自己責任論が主流であるため完全には逃れきれずに「やっぱり自分のせいかも」に捕まり思考は行ったり来たりしているように見える。

「男らしい男になれない自分が悪い(から寝取られても仕方ない)」という思考回路には自己責任と自己免責が癒着しながら同居している。
 一方では「自分が悪い」と過大な自責感を背負い、もう一方では「優しくて真面目だから」と美点を慰撫して自分は悪くないと免責する姿から見えてくるのは混乱だ。
 NTR世界にとって男らしさとは加害的であることを指すため加害が善で無害が悪とされている。だからNTR主人公の倫理では男らしくないことは善であるにもかかわらず、世界がそれを悪と呼んでくるのだから混乱もしよう。

 NTRで「強い男」を極端化して(多くの女が忌避するタイプのチャラさを含めながら)弱い男と対置するのは読者が「自分はそこまでガツガツ系にはなれないから、弱い男のまま変わらなくていい」という安心を欲した結果ではないかと推測するが、なぜそんなに安心がほしいかといえば「強い男にならなければならないのではないか、弱い男のままでいると苦しくなったとしても弱いお前のせいだと責められるのではないか」と怯えているからに思えてならない。

 彼らは男らしくないことのみをもって被害者にはなれない。被害者になることはすなわち責任を免除されることである。自責と免責のはざまで揺れ動く彼らは男らしくなさ=悪の価値観によって被害者になることを阻まれる。
 寝取られることは唯一「自分のせい」から逃れられる、イノセントな被害者になれる装置なのだ。
 だから主人公は真面目で優しい、つまり一点の非もない存在でなければならない。
 その潔癖なイノセントさは「一点でも非があれば被害者にはなれない。お前の責任である」と合唱される自己責任論の裏返しである。

「優しくて真面目だから」イノセントな被害者になれる。
「優しくて真面目だから」強い男になれない自分のせい、自分が悪い。
「優しくて真面目だから」という理由で世界から拒絶されようとそんなのは自分のせいではない。世界が悪い。

「優しくて真面目」が自分を免責してくれる盾でありながら、同時に自分を攻撃する毒となるさまはまさに男性の混乱そのものだろう。
 信田は「最終的に被害者を脱するためにこそいったん自分を完全に免責し荷を下ろす過程が必要。一度「被害者」になることで、そのあとに適切な自分の責任を負える」と述べるが、男性の場合免責した分ともすれば女性差別の構造を追認しかねないという難しさがある。またどこまでが女性からの加害の告発でどこからが女性差別になるのか切り分けられない混乱もある。被害者/加害者どちらかに属したらもう一方には属せないという社会通念からくる思い込みもあるだろう。
 矛先を権力者に向けようとしても、社会的地位さえ違えどおおかたの社会権力者の性別が自分と同一であり、その属性がゆえに権力を握っているということでやはり刺した刀が自分へ跳ね返ってくる危険性があり、おちおち被害者でいられない。「自分にも同じ加害性が認められるのでは」、「自分も甘い汁をすすったのでは(と責められるのでは)」などという後ろ暗さもあろう。
 ただおよそ社会問題には「自分にも落ち度があるのではないか」「落ち度があるならすべての苦痛は自分のせいとして甘受すべきではないか」の自己責任論がつきものである。
 どういうことか改めて説明するのは面倒くさいので自分の『オッドタクシー』感想から引用して結論としよう。

 ついでの話。
 苦痛の中にある「自分のせい」をやめるためにはまず苦しみを外在化することが必要だが、自分で被害を被害と名づけること、ひいては社会に被害と認められることも個人の免責に絶大な効果をもたらす。
 前述した「マイノリティを羨むマジョリティ」は自分の苦しみを「自分のせい」にしなくて済むマイノリティへの羨みであるが、現在社会の被害者と認められている属性もかつて、そして現在に至るまで個人の問題とされてきた。
 象徴的なのは障害の医学モデルから社会モデルへの変遷だ。医学モデルは障害を個人の心身機能が原因と考えるけど、社会モデルは障害を作り出す社会に原因があると考える。「社会モデル」が国連で採択されたのは2006年らしい。
 今も障害者が環境改善を訴えようものなら「努力しないお前が悪い」と言われるし、鬱病患者は心が弱いのが悪い、同性愛も進んで同性を好きになったそいつが悪いとされてたし、性被害に遭った女性にも「そんなことをされたお前が悪い」というバッシングが湧くし、それが性風俗キャストやトランス女性ならなおさら「好きでやってるのだから自己責任」となる。

 羨むほどのものはない。皆「自分のせい」にされている。
 そういう嵐の中で個々の人々が「個人のせいじゃない」を掲げて社会問題化してきたのだ。


 マイノリティ属性を持たない男性にもその時機がやってきたのだろうと思う。
「社会問題だと思うんなら自分でどうにかしろ」という堂々めぐりの自己責任論をかけるつもりはない。自己責任論をこそ否定したいのだから。
 でも杉田俊介非モテの品格』や西井開『「非モテ」からはじめる男性学』を始めとする男性学の著は社会問題化の実践とも言えるわけだし、それは「自分のせい」から一歩抜け出す道の模索のひとつだろう。
 例えば『「非モテ」から~』ではアルコール依存症グループの「苦しみの外在化」手法を取り入れ、苦しみを自分から切り離して眺める非モテ研究会の試みを紹介しているし、男性が自分を貶める価値観に自ら奉仕してしまうから被害化できず「自分のせい」に絡め取られるメカニズムを記述している。(それは例えば鳥飼茜『先生の白い嘘』で記述されるような「レイプされた私も悪い」と根底でつながっている。それならきっといずれ彼らも社会からの被害を被害化できるようになるはずだ)
オッドタクシー - 真昼の淡い微熱

 みんな「自分のせい」を手放せるようになるといい。手放してから、適切な責任を負えるようになるといい。
 被害者になれるのならそれがいいし、なれないのなら別の手段で「苦しみを外在化」できたらいい。
 NTRだって自分の苦しみを外在化して肯定してあげる癒やしの作業のひとつである。