青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとか社会を考えるオタク

宮田眞砂『夢の国から目覚めても』感想 ~これが私の百合スタンスです。~

いつもなら感想ブログのほうに投稿するが、書いてみたら私の百合への基本姿勢を語る内容になっていたのでこちらに表明として残しておく。
ネタバレ前提の感想です。




ものすごく局地的な作品だ。名作にはなりえない。
普遍性がないから。
普遍的な感情の掘り下げという点ではあまりにも浅い。「彼氏がいるヘテロの女」への興味なさ、想像力の乏しさには笑ってしまう。

しかしながら私はこの射程の狭さに当てはまる稀有な読者なのである。


百合は誰のものか?

嬉しかった。
女の子を愛する物語は、女の子を愛する女の子のものだ。
そう言いきってくれる人は誰もいなかった。言いきってほしかったのかな、ずっと。
いや言いきってはない、むしろ結論は真逆なのだけど。


「百合」は他のどの単語とも異なる手ざわりを含んでいて、だからわたしはこの言葉が好きなのだった。
百合とは、「女」至上主義でありさえすればあらゆる二項対立が融け合うウェットポイントである。

友情と恋愛、憎しみと愛情、執着と恋愛、性欲と無性欲、モノアモリーとポリアモリー、自己と他者、対幻想と自己幻想、個体と融合、客体と主体、他。
はずしちゃいけないのは、リアルとフィクション。

女の子が女の子をいちばんに大好きでありさえすれば。
私は、女の子が女の子を一生いちばんに大切だと認めあう瞬間を繰り返し繰り返し体験するために、百合を見ている。

ヘテロの女の子は、女の子のことを一番好きだと思っちゃいけない?」

百合がなにを包摂しているか、百合が大事にしているものが一体なんなのかがこの台詞に込められている。
ヘテロの女の子」と銘打つならばもう少し、ヘテロフレキシブル感よりも恋愛的には男が好き感の描写がほしかったけれど。(異性愛よりも大切な女の子が際立つので)

シスターフッド」の飛距離の長さがまばゆく思えてしまう。
そんなにも個人主義で、そんなにもウェットさが間引かれて、そんなにも性愛を排除して、そんなにも個人と個人の集合としての連帯が大切で、そんな言葉のほうが必要な人が多いんだ。
私にとってはそれもこれも丸ごと百合なのに。
切り分けのなさ優劣のつけなさこそが百合なのにね。
『夢の国から目覚めても』は私たち、有希とか由香とか、女の子が好きな私たちが大切な「百合」を、とことん愛してくれる、肯定してくれる、一緒にいてくれる作品だった。


だから本作にも意図的な二項対立の融解がある。
(破壊でも霧散でもなく、融解である)

ヘテロレズビアン
性愛と性欲のない愛。
中でも重要なのは、先にも述べたがリアルとフィクションの境界融解である。

ねえ、私たち。
私たちにとって百合がこんなに大切なのは、紙背に私たちが接続するからだよね。
私たちしか知らない。ここに鬱蒼とするほど私たちがいることを。
百合ジャンル外の人にも、百合を客体としか見ない人にも伝わらない。

彼女たちは私たちにとって客体であり主体である。
フィクションでありリアルである。
だって私たちこそが女の子を愛する女の子なのだから。切り離せるはずがない。

ここが私たち以外に伝わらない。
男が消費するための女体でしょうとか野蛮から逃走した繊細な心の行き場だとか、確かに百合にはそういう面もある。
しかし私たちにとっての百合は、そうであっても、そうではない。
本作はそういう「私たち」の存在を雄弁に語ってくれる。

「百合の中の女の子は幻想だよ」と言いながら「マシュマロのような胸」とか「桜色の突起」というフィクショナルな表現が平気で登場して笑ってしまう。
そのフィクションとの融合こそが百合の本懐だ。
だから、夢の国から目覚めても、なのだ。
森島明子が私にとって百合の象徴なのはここだ。現実の冷静な透徹、百合のファンタジー性へアンチテーゼを叩きつけながら、その絵には女の子への幻想が溢れ出ている。百合の中では矛盾さえも両立してしまう。
だから女の子を愛する女オタクと、百合に幻想を見る男オタクとの接点が生まれる。

百合レズ論争(この作品は生々しいからレズだ、いいやファンタジーだから百合だ論争)。
「同性を好きになったことに葛藤は必要か」論争。
我々に馴染み深い古式ゆかしきネタは、実は百合がリアルと接続するかしないかという摩擦だったのだと本作は解き明かす。

百合を現実から切り離されたフィクションとしてのみ扱うオタクと、現実の祈りをフィクションに託しまたフィクションからリアルへ還元される弾力働くものとして捉えるオタク。

「リアルではなしでしょ、そんなの」
恵利に押し倒された有希を突き刺す、ヘテロ百合オタク由香の言葉。
百合を客体かつ主体ではなく、客体としてのみ扱うことで突き放される私たち。
百合の曖昧な融合体はその言葉で唐突に二項対立の世界へ切り離される。

しかしこれは意図的であって、キャラの変態化が好きな由香が「無理やり押し倒すのはリアルではなし」という文意で言っていたとわかるのは、百合のどこがリアルと接続し、どこを切断すべきかを線引きするためだ。
性犯罪をフィクションにのみ置き去ることで、女の子が女の子を愛する世界は現実とつながる。

イベントのアフターで女同士でいちゃいちゃして男オタクが尊いと拝み、「まったく、本当に、そんなんじゃない。」という心境。

小学生の陽猫さんが初めて出会った、女を愛する自分が肯定される世界としての由香の同人。

現実の女の子を丸ごと愛したい動機でプロ作家を目指す決意をする由香。
逆に現実の夢が叶ったから同人をやめる有希。


百合に託す祈り、百合がもたらす社会へのひとしずく
この切迫した実感こそが局地的で、百合に祈る者にしか伝わらないだろう。
わかるよ、とてもわかる。私なら。私たちなら。

百合レズ論争はもう古き話題だ、たぶん。
百合の客体消費が幅をきかせていたころの、無神経でグロテスクな可食選別。これは俺向けだから食える、これは俺向けじゃないから食えないという。

そんな時代を経て、「フィクションに現実を重ねるのは現実に失礼だから」現実と切断しようとするのが今。
でもこの作品が伝えるのは、ほんとうは現実とフィクションの境などなくて、フィクションが現実へ浸食してすべての女の子が肯定される世界を導けるはずだということ。
百合がどんな二項対立をも融かしてしまうこと。


私たちはそんな百合を愛してやまないのだから。





感想おわり。ついでに難点をいくつか。

ラノベだからってもろ「フィクションの女の子」の表紙と挿絵、私は嫌だ。
この作品はリアルとフィクションの融合を見るので実写寄りの空気感を想像しているのに、挿絵で一気にフィクションへ固定されてしまう。

「百合に葛藤は不要」への掘り下げはもう一歩ほしい。
フィクションとしてのみ百合を消費したい層までは描ききれていない。
「百合には葛藤がなければならない」意見は出して相対化すべきだった。

由香の有希に対する性欲のなさはもっと強調してほしかったな。
ヘテロの女の子は、女の子のことを一番好きだと思っちゃいけない?」
やっぱりここを際立たせてほしかったのだ。繰り返すけど女に性欲がわかなくても、たとえ性的には男に惹かれてても、女の子がいちばん好きな女の子がよかった。

あと女の子の「夢の国」と、そこから一歩踏み出すと危険で野蛮な男のいる世界という構図。
百合の世界はとっくに夢の国から目覚めている。
女の子を当然に愛するのは女の子しか信頼できないからではない。ましてや世界に女の子しかいないからでもない。
夢の国から目覚めてもとは、この作品内部だけじゃなくて百合の世界すべてに敷衍しうる。
なのに女のユートピアを囲い、周縁に女を蔑視し取って食らう男を配置するなんて古臭い退行に見える。
いや、百合を軽視し当然女を手中に収められると信じてやまない男はもはや出てこない。
由香の元彼さえ百合を前にすごすごと退散する。
だからその意味での退行ではない。
ただ、外敵を排除した無菌の女子校と、ざらりと女を蔑ろにしてくる男から身を守るための百合は同じだ。
夢の国をリアルに実現させたい、女の子の世界(内)を膨張させてプロデューサー巻きおじさんのいる世界(外)を圧倒したい、その気合は伝わってくるが、いささか内外世界感が単純すぎるし危うすぎる。
描くならそれこそ私が大好きな森島明子『聖純少女パラダイム』の内外規範の連続性くらいまではせめて手を伸ばすべきだ。

最後に、この作品に限ったことではないけれど、「現代にも差別はあり、同性愛に悩む人はいる」のは本当だが、ここに私の悩みが反映されたためしがない。
私は「私の気持ちは1ミリたりとも誤っていないのに社会が潰そうとしてくる」ことに悩んでいたのに、いつだって同性愛の苦悩を描く作品のキャラはどうにも殊勝なことに自分の気持ちが間違っているんじゃないかとか相手に迷惑をかけたくないとかで悩むのだ。

そのくらい。

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