『聖☆高校生』百合の第一原則を死守した男女セックス
※引用画像に男女の微エロがあります。(元作品は成人指定されてません)
上記記事をupしてから書こう書こうとしていたんですが延びに延びてしまいました。
百合と男の究極関係の話です。
小池田マヤ作『聖☆高校生』(全11巻)とは、1998年~2010年まで少年画報社ヤングキングに掲載された性愛がテーマの漫画です。
百合文化とは縁もゆかりもない。
一点つながりがあるとすればそれは、レズビアンカップルが登場すること。
ジュンとみくと呼ばれた彼女たちは、ところが百合文脈的にはなんとも曲者です。
レズビアンカップルと言いながらまず両方男性向け風俗に従事しています。その上顔のない男たちとのプレイシーンも細かく描写される。
その片方であるジュンさんは無類の性欲魔で性別問わず誰彼構わずヤりまくってます。
であるにもかかわらず、この作品は、「百合の第一原則」を守りきっているのです。
百合の第一原則。
それは「女と女の関係に、男が乱入しない」です。
『聖☆高校生』で、ジュンさんは主人公の男ともセックスします。(この描写もまた細かい)
挙げ句の果てにはその男がセックスによってジュンさんの不感症を矯正し、ふたりの男女は恋に落ちます。
待って、待ってください。
まさかの、本当にまさかなんですけど、これ「レズビアンに男のよさを教えて寝取る」胸糞悪い話じゃないんです。ほんとです。
この作品の功績は、おびただしい数の男とのセックスを描いたからこそ、逆説的に百合の鉄則を浮き彫りにしたことです。
「女と女の関係に、男が乱入しない」。
百合の鉄則を。
このレズビアンカップルはまず主人公の男をセックスの小道具にします。
普段は情事を「見てて」と言いつけ傍観者にするし、渦中に入ることを催促したときでも男をただ女の腕を押さえる役に留めます。
男は付け入る隙もないままただヒートアップする痴話喧嘩とセックスを間近で見せられるのみ。
女と女のセックスに男は入りこめません。
そこを死守しながら、今度は男女セックスで不感症の矯正。感じたこともない快楽を、女は男から与えられる。
ジュンさんは主人公に向かって
「おまえが好きだぜ聖……」
と言い放ちます。
しかしここでも、女と女の関係は男よりも劣位には置かれません。
快楽に満ちた顔で「好きだぜ」と言う見開きで、ジュンさんの太ももに刻まれた入れ墨が。
大写しになるのは、「美紅」の文字。
来るジュンさんの次の言葉は、「みくの次にな……」です。
(『聖☆高校生』7巻p140 小池田マヤ)
女と女の関係を前にして男は敗北するのです。
作者は百合が好きなわけではないでしょう。ただ、男に客体化されてきた女、およびその性の主体性を追求したひとつの到達点としてレズビアンと男の交わりがあったのだと思います。
唯一無二の快楽を与えてさえ、恋に落としてさえ、男は女を支配できない。レズビアンはレズビアンのまま、女女カップルの結びつきに男の心は割り込めない。
それは男女セックスが描かれなかった百合よりもむしろ残酷です。
男女セックスが描かれない──つまり男から女への干渉が徹底的に阻害されればされるほど、干渉しさえすれば簡単に女を支配できると信じていられるから。
女子校がもろく感じられるのは「女子校さえ卒業すれば女は男を愛する」というメッセージも同時に得ることができるからです。
「女が男とつがわずにいられるのは男とセックスしていないからだ」、を風俗勤務とヤリマン設定で否定しました。
「ならば本当に気持ちいいセックスを男としていないからだ」、を不感症矯正してなお女を愛しつづけることで否定する。
見たことない柔らかな笑顔と恍惚をたたえながら「好きだ」と陥落した次の瞬間「みくの次に……」と言う女に、男は頭を垂れるしかないのです。
最終的にジュンさんはみくを追ってフランスへ旅立ちます。
一時帰国してきたかと思えば、主人公に子種を求めます。
(『聖☆高校生』9巻p69 小池田マヤ)
女女カップルに唯一男がマウントを取れるもの。それが生殖。
女同士では子どもをつくれないのだから男とセックスするしかないのだ。それは呪いにもなります。
しかし『聖☆高校生』、ここもまたあっけらかんと男を単なる種馬扱い。
何から何まで男の優位性を潰していきます。
プライドを傷つけられた主人公は結局精子を提供しませんでした。
笑いがとまらない。
つい先日、2010年のスペイン映画『ローマ、愛の部屋』を見ました。
そこではホテルマンの男が女女カップルに向かって「3人でセックスしない?」と誘いますが、女たちは部屋から男を追い出します。
ラスト、女と女が結ばれようとする傍らで、ホテルマンは彼女たちの朝食を用意し、ふたりをほがらかに歌いながら祝福するのです。
男が乱入しない。できない。受容する。
そんな百合作品は近年いくらでも見つけられますが、『聖☆高校生』まで踏み込んだものは稀少と言わざるをえないのではないでしょうか。