青い月のためいき

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百合と男社会の闘争記録~なぜ百合は男に脅かされるか~

※いろいろネタバレがあります。タイトルを強調したので注意したい場合は避けてください。



近年の百合作品は「男」とどう向き合い「男」をどう処理しているか。
古来つづいてきた百合と男の微妙かつ繊細な関係を踏まえ、どのように古典的・画一的でない描写を編みだしているか。
ざっくり背景を見つつ、現在百合という文化が捌こうとしている「男」と「社会」について考察していきます。


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(『捏造トラップ-NTR-コダマナオコ 2巻p112)



百合オタの定番ネタ、「百合に挟まりたい」と口にする男への怒りと反発。

日々沸き上がる百合界隈の炎上案件は「最終的に男と付き合う女同士の関係は百合と言えるか?」「男の娘×女は百合か?」主に男の話題です。
なぜこんなにも百合好きは男を恐怖するか?

個別に見た表層としては「百合を見ていたはずなのに男が乱入してきたトラウマから」等挙げられると思います。
しかしこの根底にあるのは「男の乱入が許されていること」それ自体です。


見るべき本質は「なぜ、百合には男の乱入が許されてきたのか?」なのです。*1

男二人のBL関係に第三者の女が乱入することはまったく許されていません。
なぜ、百合には許されてきたのか。


結論から言うとミソジニー異性愛規範が悪魔合体したテーゼ」が強固に存在し社会権力によって肯定されているからです。

このテーゼ、具体的には例えば「女は男に見られ消費される客体としてのみ存在する」「女同士の関係は脆く儚い」「女同士の関係は男女関係より軽くて劣る」「女は男に挿入されることで純潔を失い大人になる」「思春期の女同士の恋愛は勘違いの擬似的一過性」……等々、があります。

つまり、「女は男に性的に消費されることで大人になるべきで、女同士の親密な関係は男とつがう前の閉塞空間のみに存在する紛い物である」というテーゼです。

背景にあるのは女が自立不可能で学生時代を過ぎれば強制的に男と結婚させられていた近代日本社会であり、現代にいたってもこの構造が風化しきれないほどに男女賃金・労働環境格差が女の自立を阻んでいます。



こういった支配構造が社会に存在するがために、百合には男の乱入が許されてきました。「女は最終的に男の手の内に納まるべきだろう」「女同士のセックスでは男の挿入がないから"物足りない"だろう」と男が割って入ってきました。

古くは少女小説現在は漫画アニメを拠点とする"百合"という現象は、女同士の関係性を描くジャンルとして、権力の作り出すそれら規範・テーゼと向き合わざるをえなかったのです。
結果、百合を語り創作する上で「脅威としての男」の存在は欠かせなくなりました。

以下に現在における「百合」たちの戦いと「男」との関わりを記します。





創作内であっても、古典的に、女同士の関係は一過性でもろいものであると繰り返し描かれてきました。
いずれ良妻賢母になる運命を抱えた少女同士の情熱的な関係を描く「エス」文学であったり、惹かれあっても最後に心中あるいは非業の死を遂げ分かたれる結末の少女漫画であったりと、永遠を誓う女たちは従来存在しえませんでした。


そしてそれは現代にも脈々と受け継がれていて、百合も「一過性の儚い美しさ」という業を負わされることになります。

世界に瞳を開かないでね 男に脚を開かないでね

『くちびるに透けたオレンジ』ロクロイチ

『くちびるに透けたオレンジ』
女同士=閉塞。男に脚を開いたときこの閉塞の儚い関係は終了することを暗示します。
男社会の権力規範をこの作品は強く肯定します。

百合作品の舞台を見ると、数えるまでもなく女子校の比率が圧倒的に高いです。
女子校は必ずしも閉塞を意味しませんが、意図せずとも閉塞になっている場合も多く、やはり男が関わってこない空間である安心感は代えがたいものということでしょうか。
「女が男の手の内に納まる」規範の吸引力が絶大である証左でしょう。




80年代後半~90年代にかけて、ようやく女同士の結びつきが破壊されることなく肯定される作品が出現し始めました。
強力な異性愛規範を捨て、男の手の内に納まるだけを幸せと呼ばず、女が男とつがわなくとも女と二人でやっていける道を模索しはじめました。

「ね? 二人でママになろう」
「うん」
「パパなんてどーだっていいじゃん ね」
「うん」

(『危険な二人』岡崎京子p129)


少女革命ウテナ

そして地獄の世界と戦い革命したのがウテナです。
「女同士の特別な関係は男とつがう前の閉塞空間のみに存在する」テーゼをひっくり返し、男との姦淫を経た上で男の手に納まらず、女と女が結びつける物語を提示しました。
男からの支配を打ち破ったのです。


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(『ついでのはなし。』/『ひみつ。』大朋めがね

『ついでのはなし。』
そして現在、百合と銘打たれた作品において男はほぼ振られ役になります。(一部ヘテロエンドになることもままあるのがこの男と社会の恐ろしさです)
嫌な男を女がすげなく振ることで、呪いのテーゼへの溜飲を下げ女同士の絆を強調します。

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(『MAKA-MAKA』岸虎次郎 2巻p79)

『MAKA-MAKA』
『MAKA-MAKA』のヒロインふたりは両者彼氏もいるし、複数の男と性行為をしています。
でありながら、掃いて捨てるほどの男よりも互いと体のふれあいのほうが快楽とし、特別な関係としてセックスをします。
ここでも男は女の体を消費しすり減らしていくものとして描かれます。


この流れのなかに見えるのは男への不信と諦念、女の自立です。
古来男に支配され縛られてきた女たちの苦しみがやっとその不信を表出できるようになり、女だけでも立ち上がれるようになり、男を踏み台にして「女同士でつながれるよね」と叫ぶことに説得力が出てきたのです。

オクターヴでは女と付き合うものの、男性器に惹かれ男とセックスしてしまう女が現れたのがセンセーショナルでした。
しかしそれでも男とのセックスは無意味だったという結論に至り女と結ばれます。

神無月の巫女
振られる男が支配階級でなく、どこまでも良い人である『神無月の巫女』はひとつの転換です。
男からの支配や男への不信から逃れる手段、あるいはその結果として女の絆があるわけではない、「男がいるのに、男は良い人なのに、特別な理由もなく女は男に回収されず女を選んだ」ことになるからです。
男は結ばれた女ふたりを前にして「俺にできるのは、せいぜい地球を救うことくらいだけど」という名言を残します。
このおかげでいっそう百合は地球よりも上位にある頂点として浮かび上がることになります。



百合にとって「男」は「災い」でした。
女の絆を揺るがす危機。女の絆を軽視し異性愛に帰結するならわしがあまりに強いからこそ、百合好きは「男」というだけで警戒せざるをえなかったのです。
だから以上のように百合は身を切る思いで「男」と対峙せざるをえませんでした。
しかしながら戦いつづけ警戒しつづけることはきつくて疲れます。
こうしていったん百合は主にアニメの分野で「日常系」と称される「男のいない絶対安定世界」へと派生していきました。

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(『百合男子』倉田嘘 1巻p27)

『百合男子』
『百合男子』の登場と説得力はそういう世の中に立ち上ります。
主人公の男が苦悩するのは「女は女とつがうべき、だからこそ男である自分がいてはならない」ことです。
「女は男に回収されるべき」の反転です。元の規範が強固すぎるからこそ、男である自分が存在するだけで百合崩壊の危機となってしまう。
腐女子が「女である自分が存在するだけでBL崩壊の危機になる」と言おうものなら「カプを崩壊させられると思い込むなどおこがましい」と一蹴されるだけです。
しかし"百合男子"はそうはならない。
女に対して男は権力であり脅威だからです。

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(『ささめきこといけだたかし 2巻p5)

だから、ささめきことのヒロインの片方に想いを寄せる男は「想い人が女を好きだから」「女装をして」「妹に勝手に応募された女性誌のモデルの仕事を諾々と続ける」「線の細い」「気弱で都合のいい」「後輩」になりました。
"男らしさ"の毒気を抜くことによって、「百合の脅威になりえない」ことをアピールする必要があったのです。



しかしながら男はいつまでも百合にとって「災い」でしかありえないのでしょうか?
男がいると百合が脅かされるというならそれは、結局のところ女同士の関係を信頼しきれていないということではないでしょうか?


現在、百合文化においてだんだん「男」が脅威でなくなってきている兆しが見えます。
これは現実社会の不況によって男性権力のひとつであった経済力が失われ権威が失墜したことにも関係があると思われます。
そのおかげで性規範が弱まり多様性に目が向けられ、男がイニシアティブを取れず女をコントロールできなくなってきている社会状況と連動するように、百合も壊される恐怖を手放しはじめました。

男不信を克服し、女同士の間に男が入れるわけがないじゃん、男がいても別に女同士で繋がれるわ、というコンセンサスが取れてきています。
女同士の関係を信頼したいがために、かつて脅威でありえたはずの男が支配的役割非付与に投入されていきます。



こうして男に揺れながら最終的に女とつがう王道『オハナホロホロ』ばかりか、不倫百合『明日の君に花束を』や、両者彼氏持ちで彼氏のキャラも顔もしっかり描かれながら女同士で性行為を重ねる捏造トラップ-NTR-など、女同士よりも劣位に落とされた男の地位が見え隠れするようになってきています。



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(『私の無知なわたしの未知』百乃モトp30,p35)

『私の無知なわたしの未知』では、男女関係=閉塞、女との出会い=衝撃と開放を描いています。
「女子校=閉塞と処女性、卒業=男社会への迎合と蜜月の終焉」であるテーゼを見事に反転しているのです。
それができるまでに、女同士の関係を信頼しうる合意が形成されたのでしょう。



その合意形成に一役買ったのが青い花です。

青い花』では、ヒロインのうちのひとりが最初に女子校の女の先輩と付き合うことになりますが、その先輩は実は男の先生に惚れていて、最終的にヒロインは振られます。
ここだけを切り取ると「男女よりもろい女同士の閉塞恋愛の終焉」となりますが、本作の本筋はそこではありません。
先輩は女をたぶらかしつつ男を想う女でありながら、振られたヒロインは別のヒロインと結ばれます。

異性愛と同性愛、どちらの関係にも優劣をつけずどちらもただ存在するものとして描き出しました。
つまり「女同士の閉塞」から脱けて男とつがう女もいればずっと女だけを愛しつづける女もいるのだ、と、価値を相対化したのです。
女同士の関係を信頼すればこそ元の規範も肯定することが可能となったということです。


『彼女とカメラと彼女の季節』
異性愛と同性愛の等価性を見出した百合は、『彼女とカメラと彼女の季節』もその流れのなかに内包させました。

この作品は『神無月の巫女』と同様、女ふたりの間にいる男がいちばんの良い人です。全員一方通行片想い三角関係の主役3人は、みな同レベルにキャラが立っています。

ここで特筆すべきは主人公の女が男に惹かれるポイントは精神的な安心感で、女に惹かれるポイントは直球に性欲なところです。
ヒロインの性欲が湧くのは女にのみ。ここが逆で、男にのみ性欲が湧くのであれば「じゃあ女へ惹かれるのは勘違いだね」で終わってしまいます。
「女に性的欲求を、男に安心感を求める」ことでようやく三角関係の釣り合いが取れる。
異性愛と同性愛の等価性はこのように表現されます。




「男は脅威である」という命題が崩壊しはじめてようやく、百合は、男を意識せずにはいられない悲哀を捨て、男を排除した物語か男の地位を貶めることで女が結ばれる物語という、二極的な構造を破壊しました。
現在百合は多様な「女と女と男」の関わりを描こうと挑戦しています。



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(『やがて君になる仲谷鳰 2巻p56)

例えば『ナチュリーズ』の一編『ゆりのおねえさん』は男視点から見る百合カップルで、男はひたすら女二人を見守る第三者に徹しますし、やがて君になるの男は、自らを「恋愛しない人間」と自認し、恋愛する側の人間を眺めることを趣味としています。
両作品共通点は、男が百合オタク視点のフィルターの役割を成していることです。
まるで「男は存在してさえ百合に混ざれない、混ざれるわけもないし、混ざる気もない」と主張しているかのようです。
「混ざってはいけないのに男が存在してしまう」ことに苦悩した『百合男子』から考えるとずいぶんフラットになりました。


『ななしのアステリズム』では女3人の三角関係が中心となるなか、そのうちのひとりに惚れた男は入る隙もなく振られます。しかしいい友人として付き合いつづけるうちにその男は思わず別の男にときめくことになります。
いまも連載中のため先行きはわかりませんが、いまのところ、よもやBL展開なるか? という微妙なところまで至り、女の恋愛からはほぼ完全に隔絶される形になりました。

乙嫁語り
これは1エピソードが百合なのですが、片方が夫持ちです。
そのため『MAKA-MAKA』をはじめ「男にすり減らされた女と女の自尊心回復蜜月」物語類型へと収束するかと思いきや、男女の重婚が可能な世界であるため、最後は男公認の関係になり男女3人で家族関係を結ぶのでした。
女が男に脅かされることなく、かつ男が貶められることなく、女同士が深くつながれる物語が提示されたのです。

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(『響け!ユーフォニアム2』13話)

アニメ『響け!ユーフォニアムではヒロインは女と強く惹かれあいながら、並行的に男とのロマンスも示唆されます。
にもかかわらず「結局女同士は一過性の疑似恋愛だから正しき異性愛が必要」のような呪いになっていないのは、女同士の関係が男女関係を凌駕して重きを置かれているからです。
男とのロマンスは最低限の描写にとどめられ、カタルシスになるのはいつも女が女に臆面もなく愛を告白するシーンです。
男女の恋愛をしながらも男同士の絆のほうが崇高だとする価値観はホモソーシャル上で繰り返されていますが、男女恋愛がありながら女同士の絆がより価値のあるものとして描かれるのは革命といえるほどでしょう。
女は男の手の内に必ず納まってしまうものではなくなった証です。



して、男が脅威でなくなった現在においては、「では、男がいなければ脅威は存在しないのか?」という疑念にも挑戦が向けられることにもなりました。

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(『ユリ熊嵐』12話)

ユリ熊嵐には観測者以外の男が存在しません。
だから脅威がいなくて安全な閉塞空間かといったらそうではなく、マジョリティーに同化しない者は排除される世界です。
男が存在しなくてさえ女同士がつながれない。女を支配するのは本当は男じゃなくて分断と同調圧力だから。
脅威はほかに存在することが暴かれ、それは、悲哀です。百合はひたすら「許されるがゆえに乱入してくる男」と戦いつづけてきたので。(ウテナが戦ったのは男の上にある支配構造そのものでしたが)
一方で、『ユリ熊嵐』が脅威を男から外在化させたことで、実は男っていらないよね? とも気づかされることになりました。

ユリ熊嵐』のキャラ原案森島明子『聖純少女パラダイムもまた、男が存在しないことでむしろ支配構造そのものがよく観察できる作品となっています。
女子校は従来「社会に染まる前の少女たちの揺りかご」という閉塞として機能してきましたが、本作では男のいる社会と同様のパラダイムが「校則」というフィルターを通して生徒を抑圧するものとして描かれます。
女子校が安寧の閉塞空間ではなくなることで、男の存在が無意味であることが示されたのです。
そうして両作品は、抑圧してくる規範を打ち破り女の連帯を獲得していきます。



このように百合における男性表象は、脅威から劣位へ、そしてニュートラル、「脅威になる気もない」ポーズ、存在の無意味化までたどることとあいなりました。
無意味化まで到達したとはいえいまだ男の存在は脅威であり、百合は日々その脅威と戦い、手を変え品を変え男性優位を解体しています。
いつか本当に男が脅威でなくなる日が来るならばそれは、現実社会においても女性の完全な自立が叶ったときでしょう。
それまで百合は女同士の特別な関係がいかに脅威をかいくぐり成立していくかを証明しつづける責務を負わざるをえません。
これを積極的に負っていくのもまた、百合という文化の業であり宿命なのですが。
その一端が「百合に挟まりたい男」への反発に表れているのです。






余談。BLジャンルとの比較。

今まで百合はあたかも女子校、思春期の一過性にのみ出現するもののように描かれてきましたが、近年社会人百合ブームが賑わっています。
大人の女も男から自立してつながれるんだ! という説得と叫びが見えるかのようです。
しかしBLにおいてはブームになるまでもなく10代、20代、30代が主な年齢層カップルとして混在し、40代~老年期までももはや珍しいとは言えません。
この差はそのまま「女は若さが価値基準」「大人になった女は男との結婚しか選択できない」「年を重ねるごとに現実社会問題が突きつけられる難しさ」が如実に表れた結果となっています。
社会人百合ブームの挑戦はここにあります。(でもこれも20代が中心に見えるのでもっと上の年齢にも頑張って挑戦してほしい)


さてBLの動きとして、2015年には『女子BL』アンソロジーが出版されました。
これは男二人のカップルの間に入らない、入れないことを前提にした女子からの眼差しを描いたものです。
昔から、BLにおいてほとんど女は引き立て役以上の役割を得られませんでした。
そもそも社会が「女は男の世界に入れない」ホモソーシャルで組み立てられてきたので女が男二人の脅威や災いになどなれるはずもなかったのです。
そういう女が、BLジャンルから「発見」されたのがこのアンソロジーです。「男子百合」は発見されるまでもなく常に強い存在感を宿命づけられているというのに。

そして2016年を賑わせた『ユーリ!!! on ICE』。
この作品はホモフォビアはびこるアニメ社会を革命しました。
しかしここでの主役カップルを女二人にしてみるならば、恐らくここまで話題にはならなかったと思われます。キスだってハグだって指輪交換ですら、百合では革新的な光景にはなりえないでしょう。
女同士の関係性のなかでは、いずれ男に回収されることを認める疑似恋愛の限り何をしても許されてきたし、互いの肌に触れ合うことだって男同士よりも風あたりは弱いです。
男同士となると革命の意味を持つ理由は、このように男同士にのみ許されてきていない行為をすることによって社会のホモフォビアと戦っているからで、百合が戦うミソジニー異性愛規範の悪魔合体はここでは関係ないからです。

例えば同じ秋期百合アニメ『終末のイゼッタ』では主人公側と敵対する新キャラとして現れた女キャラが突然イゼッタにキスをしましたが、ホモフォビアの声で非難する意見はおそらくひとつも出ませんでした。
これがBLっぽいアニメで敵男キャラが主人公の男に突然口づけようものならたちどころに「腐媚び」と嫌悪を丸出しにする声が上がっていたことでしょう。
女同士の関係において社会が排除しているのは女同士の絆ですが、男同士の関係においては絆それ自体は称揚されるものの、"男らしくない"エロスとアガペーが忌避されているのです。
女同士と男同士では戦場が異なることが浮き彫りになった作品だと思われます。


さらに最後追記。
わかっている。もう少し作品数絞って論理展開を強化したほうが伝わりやすいのはわかっている。(しかもこの主題でマリみて未履修……)
けど、このエントリはほとんど純粋に自分のためだけに書いた文章であり、思考と視点の整理をしたい一心だったのです。ご容赦を。

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↓第二弾
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*1:注意してほしいのは「なぜ男が乱入してくるか」ではないことです。エロコンテンツで女二人の間に男が入りこむ理由は色々あるのでしょう、以前AVにおける実用性から見た考察なんかを聞いたこともあります