青い月のためいき

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【新居昭乃歌詞分析2016】歌詞の変遷-人とのつながりへの切望とその救済-

 去る2014年、ファンクラブイベントにて、この機会にとばかりに新居昭乃歌詞分析を発表しました。発表の場を与えてくれた企画者の方、ありがとうございました。
 ひたすら語句をデータ集計する方法で、そこで発見したことも多かったです。が、心残りもありました。本人名義で出している曲しか範疇にしなかったこと、個々の単語の抽出だったので文脈では正確に捉えられない部分もかなりあったこと、それと、時系列にかかわらずいっしょくたに分析したために時代ごとの変遷を見ていくことができなかったこと。しかし集計だけで力尽きてしまったので次回以降にと断念しました。


 それから2年。気力が回復しむくむくと書きたい衝動が湧いてきたので、心残りだったことをやってやろうと筆を執りました。
 今回主眼にしたのはデータだけではなく、歌詞の意味を考慮しながら見えてくるものがあるのではないかという発想でした。
 特に注意したのは昔と今との歌詞の違いです。すると相違点がいくつも見えてきました。しかし、まるで別のものを歌っているわけではないこともわかりました。

 昭乃さんの根底に流れているのはある「切望」です。その切望を今から解き明かしていきますが、昔からの流れで今があるときちんと知ってから最近の曲を聴いたとき、私は泣けて仕方ありませんでした。
 特に昭乃さんの明るい曲調があまり琴線に触れないと思っている方、ぜひとも私と同じ体験をしてもらいたいです。きっと見方が変わるはず。


 さて。まず昭乃さんの特徴と言えばその内向性であると言えるでしょう。しかし前回明らかにしたのは内向きばかりでない、「内向きかつ前向き」ということ。内向性にばかり目がいっていたのでこの結果は意外でした。しかしじっくり見てみるとその謎が解けてきます。

 月の上に寝ころんでいる ぼんやりと地球を眺めてる ひとり つながらない電話
(『メロディ』より)

 まずはお馴染みの孤独。『メロディ』における月と地球の距離は心の距離です。宇宙をよく描くのもその孤独を強調しやすいからという面があります。
 そしてなんと昭乃さんの歌詞には「一緒」というワードが一切出てきません。「一緒」が出てくる『遥かなロンド』『星の木馬』は昭乃さん作詞ではありません。
「ふたり」というワードはよく出て きますが、この頃はまだ「ふたりきり」「ふたりぼっち」などとともにネガティブな描かれ方をしていまし た。

 からだ中を傷つける 針金 永遠の罠 自分の手でつくったの 外に開くドアはない
(『城』より)

 閉じこもることもまた昭乃さんの特色としてあります。
 そしてこの『城』で少し、ヒントが見えます。この二種類の特色、「孤独」と「閉塞」ですが、どこか悲しく、そして痛々しく描き出されているのです。
 閉塞することが痛々しいのは、本来は開放が願っているあり方であると知っているということです。閉塞は窮屈で、閉じこもっていたくはないのです。しかし閉塞が剥がれていったら壊れてしまうので、まだひとり閉塞の中でじっとしているしかありません。

 哀しい夜のむこうへ私を連れ出して 壊してかたくなな夢 強い思いで
(『新月夜』より)

 解き放たれたい。けれどかなわない。新月夜』にもそんな悲鳴が窺えます。
 また『音叉』で表現していることは「理由もない閉塞感からの解放を願う」ワンシーンですし、思い切り解き放たれている歌詞である『Rêve』は自分で日本語で書こうとして書けなかったと昭乃さんは述懐しています。
 そこに開放したいのにどうしてもその歌詞が出てこない昭乃さんの苦悩が思われます。

 誰かと「一緒」になれずひとり孤独を紡ぐのもそのためでしょう。けれど本当は一緒にいたいので「あなた」に呼びかけてつながりたいと叫びます。

 どうしてそんなに遠くにいるの もし私があなたの瞳に出会ったなら 心を開いてくれるなら あなたにはなんでもしてあげたい
(『Siva~佇む人~』訳詞より)

 他者との断絶を嘆くのはつながりたいからです。だからそばにいられなくても他者を求めて、そばに来てくれることを待ちます。自分から動き出すことなくじっとその場に留まって、ひたすら待つ描写が多いです。

 今もまだ誰かを待つ 壊れかけた 舟にからだをそっと横たえて
(『ハレイション』より)

 人とつながりたい。閉塞から解放されたい。2014年で明らかにした「前向き」ワードの多さはここからくるものと今回判明しました。
 このつながりたさ、しかしつながれなさにはかなり悲痛なものを感じます。それはもう痛ましいほど繰り返し繰り返しあちらこちらで嘆きが綴られるのです。

『凍る砂』でも、触れていてさえ、触れているからこそ、遠さを実感しています。

 そっと輝く髪に触れてみても遠い
(『凍る砂』より)

 そばにいるのに遠くに思えてしまうその深い絶望は表現を変えて何度となく歌われていて、根深い傷が存在することが窺えます。


 ではなぜこんなにつながることを切望するのでしょうか。『降るプラチナ』『星の雨』を見てみます。

 腕の中で目が覚めたあの朝に ひきさかれた怖くて暗い夜に
(『降るプラチナ』より)

 最初は温かな母の腕、大いなるものに包まれていました。そこから離れて自我を得ます。が、それは「ひきさかれてしまった」だけです。放り出されて自立せざるをえなくなっただけ。人は生後すぐ一人立ちできるわけではないので、それは健全な成長ではありません。一度分かたれてしまったものは二度ともとの安寧には戻れなくなりました。

 生まれる瞬間はじまる孤独の産声 還ろうと叫ぶ/すべてを受け入れ目覚める今
(『星の雨』より)

 ひとりさまよう魂は還りたいとその孤独を叫びます。けれどそれが不可能だとわかるとやがて孤独を受け入れる、それがはじまり。
 そんな過酷な経験を経た魂は「はじまり」そのものを絶望として捉えます。
 投げ出されてしまった丸裸の未熟な自我が受け入れた孤独は、一体的なゆりかごの中で完全に癒されなかったがためにその不充分を埋めようとしました。すなわちそれが、人とつながる「切望」です。
 ──こんな物語が見えてはこないでしょうか。もちろん丸々すべてが昭乃さん自身の物語であるとは言いません。ですが、関係するところはあると言っていいのではと思います。


 さて。つながりたいけれどつながれない。その絶望は絶望のままなのか。焦燥で終わるのか。
 だとしたらきっと昭乃さんの曲はもっと陰鬱な雰囲気をまとっていたでしょう。昭乃さんはこの絶望を放ってはおきませんでした。

 風の歌が地上の果てから届くこの世界へ まだ君のことさえも信じないこの心へ
(『覚醒都市』より)

 空や風に仮託して孤独を癒す概念が登場するのが昭乃さんの大きな特色です。こうして人とつながれない絶望を慰める方法を確立しました。
 孤独でいても、人とつながれなくても、わけもわからない閉塞感に悩まされても、空や風がそばにいて苦しみに潰れそうな存在を肯定してくれる。そうしてやっと呼吸ができるようになり、慰められるのです。

 しかしそれだけでは満たされませんでした。あくまで切望するのは人とのつながりです。ひきさかれた痛みを癒すにはそれしかないのです。
 しかし人と本当につながるには勇気がいりました。「はじまり」は痛くて、他者は怖いからです。
 孤独になる前は大いなるものと一体だった、そこに他者はいません。そこから離れて孤独になってしまうと今度は得体のしれない他者に向き合わなければならなくなりました。
 閉塞感を厭いながらも解放できないのも怖いからです。
 閉塞とは安定なので、そこにいさえすれば、心が乱されることもありません。しかし他者は制御しきれない。籠の外は繊細な心を揺さぶるものばかり。それが根深い孤独と断絶の元です。
 他者と関係を結ぶことはまた安定からの離脱、つまり新たな「はじまり」となるので、トラウマが蘇って躊躇してしまいます。


 昭乃さんはそんな物語をずっと歌っていました。つながる勇気がほしいと言いました。
 そしてその切望はやがて少しずつ、おそるおそる、報われていきます。つながれるかな……つながってもいいのかな……はじめることに傷ついてもつながれないことに絶望しても立ち直れるかなその準備ができてきたかな……と思えるようになっていきます。
 空や風、自然や宇宙すべてが孤独を癒してきてくれたおかげです。
『きれいな感情』にも孤独から自然による治癒を経て繊細さをもって「あなた」へつながる流れが端的に表れて見えます。

 朝の光が今孤独を包んだ あなたが目を開けて微笑む瞬間
(『きれいな感情』より)

 そして2000年代に入ってから、闇の中の光を探し当てます。ついに他者とのつながりを得て、世界に開けたのです。

 暗闇に夢を見失いそうになる でもあなたがいてくれるのなら
(『懐かしい宇宙』より)

 明るい雨が優しい歌になる ゆっくりと漕ぎだす 怖れないで
(『金の波 千の波』より)

『きれいな感情』では孤独を一抹残したからこそ「あなた」の微笑みで微妙なつながりを得ましたが、懐かしい宇宙ではもう「あなた」の胸の中にいて、ふたりはしっかり寄り添うようになりました。
 そして、以前は怖くて閉じこもったまま踏み出せなかったけれど、勇気を出して世界に対して開けるようになったことを表したのが『金の波 千の波』です。ここでの雨は空や風と同じく優しく包んで見守ってくれるマザーです。
 傷ついた魂は様々なものに癒されながらその傷をふさいでいき、再生力を身につけていきました。探りあてた光を頼りに人とつながれるようになったのです。閉塞から脱し、そばにいることが痛いことではなくなりました。
 そして誰かを待つことしかできなかった心も自分から動き出すことを覚えます。

 夜明けを超えて so divine 君に会いに行く 会いに行くよ
(『Orient Line』より)

「あなたに会えない」「そばにいるのに近づけない」だった物語はついに、「あなたといられて嬉しい」を歌えるようになりました。

「手」の描写の変遷ひとつとってもそれはわかります。

 あの娘だけ 君の手を滑り落ちた
(『Black Shell』より)

 痛くても手をつないでいよう
(『Silent Stream』より)

 その手を差しのべてもう少し近くまで
(『夜気』より)

 さあここへ手をつないだらほどけないよ 君と遠くへ
(『蜜の夜明け』より)

 触れても掴みきれなかった、そばにいたのに近づけない『Black Shell』。触れ合うのに痛みが伴っていてなおつながりたかった『Silent Stream』。どうにか手を伸ばして一緒にいたいと願った『夜気』。そして、やっとの思いでとうとう固い絆を結ぶことができた『蜜の夜明け』
 並べるだけで物語が明確に読み取れるのがわかるでしょう。

 もう覚めてもやわらかな 雨でもあたたかな 痛み
(『ターミナル』より)

 心細くひとりで耐えていた傷が人とつながることによって癒され始めると、「痛み」の描写もだいぶ変化を見せます。
 悲観やどうしようもなさではなく、やわらかくてあたたかいものとして痛みを抱きしめて受け入れられるようになったのです。

 ここにきて「はじまり」観も変化を見せ始めます。
 ひきさかれて傷ついた魂は、広大な自然や宇宙に少しずつ勇気づけられ人とのつながりを得たあと、痛みや悲しみではなく、もっと穏やかに歩き出すことができるようになるのです。

 その翼であなたがただ一度羽ばたけば世界はそこから今始まる
(『Fly me above』より)

 昭乃さんの最大の変化は、この、「はじまり」に悲痛さを伴わなくなっていったところではないでしょうか。

 その転換点が『祝祭の前』です。傷あとを残しつつ魂は力強い「はじまり」へと昇華していきます。

灰の上に種を撒き花を咲かそう 天の空の真下に立ち風を起こそう 闇の重さ深く沈めて
『祝祭の前』より)

 花を咲かす祝祭の、直前です。

 そしてブレイクスルーが『エデン』一曲目を飾る『New World』となりましょうか。そこで長年願ってきた閉塞からの解放を果たしたのです。

 痛みから 外へ New World 光へ
(『New World』より)

『祝祭の前』の「その傷あと 悲しみが 悪い現実(ゆめ)が 光の方へ」と、『New World』の「痛みから 外へ New World 光へ」は同じことを指しています。

『空の森』の一曲目『星の雨』では生まれた瞬間の痛みと孤独がありましたが、『ソラノスフィア』の一曲目『Haleakalã』はエネルギーの開放と目覚め、『Red Planet』の一曲目『ハロー、ハロー』は穏やかで晴れ晴れとした旅の朝を歌っています。これは『New World』を通して痛みを光へと導くことができるようになっ たからです。『New World』以降昭乃さんは優しく「はじまり」を歌えるようになったのです。

 もしひとが今までとは違う一歩を踏み出そうとするとしたら、たとえ意識的でも無意識でも、それはとても尊い瞬間です。世界中がそのひとの味方となってくれるはず。
『Red Planet』ライナーノーツより)

『金の波 千の波』について、昭乃さんはライナーノートでこう語っています。きっと以前からそう考えてはいたのでしょう。けれどこうも穏やかに、見守ってくれる空に支えられながら「怖れないで」とささやけるのは、今だからこそなのです。



 ……しかし物語はここでハッピーエンドではありません。というのも、昭乃さんは今も絶望的孤独を歌いつづけているからです。
 人とつながりたいのにつながれないもどかしさを。
 例えばそれは『ノルブリンカ』『The Tree of Life』『飛び地』 『HAYABUSA』『Tyrell』等に表れます。

 あなたがいた夏をどうしてももう思い出せない
(『ノルブリンカ』より)

 暗く深い闇の中の静かな絶望がそこかしこに見られるのです。
 昭乃さんの書いた歌詞を見てみると、実は、他のアーティストへの提供曲では他者とつながる喜び、世界に対しての開放感を歌詞に乗せることができていました。
「閉じていたところが開けた」のはっきりした流れを見ることができるのは新居昭乃名義の曲だけです。
 つまり昭乃さんは昔からこの、絶望と希望の思想両面性を持ち合わせていたということです。本当は開けていたかったのでその両面性は当然とも言えますが。
 かつては自分が歌う場合には希望をためらっていたけれど、他のアーティストが歌うなら、かつ外部的事情も加味した上でなら希望を書いてもいいと思えたのではないでしょうか。
 それが変化し、自分自身の曲でも開けることができたのが今だと結論づけられそうです。


 昭乃さんは変わりました。今後どうなっていくかはわかりません。しかし、一度知ってしまった孤独は一筋縄にはいきません。根本の絶望が癒されない限り。
 以前からずっと人とつながりたくて、世界に対して開けたくて。やっとつながれて広がれた希望と、それでも拭えない孤独の絶望を、しばらくは、あるいはこれからもずっと、昭乃さんは両面的に歌っていくのではないかと思われます。