映画『溺れるナイフ』考察。見た勢いで書いた。
本作と、原作のネタバレがあります。
『あの娘が海辺で踊ってる』『おとぎ話みたい』のネタバレもあり。『5つ数えれば君の夢』はないと思います。
原作は未読だったけど映画見たあとに全巻読みました。
山戸映画で描かれる「少女の死」の悲しみは絶対男になんか語ってほしくない。女の肉体性を女の社会性をひとつも知らない男になんか語らせたくない。
これは女の、女の肉体を持って生まれた女の、女として生きてきてしまった女の、女として生きていこうとする女の、かつて少女であった女の、かつて処女であった女の、あるいはこれらすべての女のための映画だ。
ならば女を自認している私が率先して堂々と語らねばなるまい。
山戸映画では「処女」と「社会」が対比的に描かれる。
その「処女」とは常にヒロインのことであり、「社会」はしばしば「正しい男」となって出現する。
「処女」とは男に消費されて心を削がれるかなしみを知る前の女のことである。
「正しい男」とは女が男に消費される存在であることを微塵も疑っていない男のことである。つまり「社会」はそういうところである。
『あの娘が海辺で踊ってる』の舞子は処女性の権化であり、菅原の彼氏古野が「正しい男」として「社会」のフィルター代わりとなる。
『おとぎ話みたい』の「処女」はしほ、「社会」は東京である。しいて「正しい男」を挙げるならダンス講師の杉本だろうか。
『5つ数えれば君の夢』のヒロインは5人とも「処女」を成し、彼女たちの外部に「正しい男たち」という社会が存在する。
「処女」は閉塞のなかにあり、「社会」はその外へ出たところにある。
『あの娘が海辺で踊ってる』『おとぎ話みたい』では田舎と東京が、『5つ数えれば君の夢』では女子校とその外が処女と社会を対比させる。
『溺れるナイフ』においてもその対比は顕著に見られる。
彼女たちヒロインは処女でなければならなかった。なぜなら閉塞こそが純潔を保ち、社会こそが彼女たちの純潔を蝕むからだ。
社会に汚される前の、たった一瞬の時間だけが彼女たちの純潔を保っていられる。
少女とはそういう危うい時期を指す。
その点だけを描いた「少女」のアートは周囲を見渡せばすぐに見つけられる。
手垢のつくほど繰り返された処女性の表象だ。
少女は儚いからこそ美しい。女はいつか男の手の内に収まる。そうカスタマイズされている。それが純潔を失わせ、少女はそこで死ぬ。
アートの中で繰り返される少女はこの儚い美しさをねっとり炙られ、清らかに肯定される。
山戸結希は違う。
山戸結希はこの少女を美化しない。
知っているからだ。この清らかな少女の蜜月がどんなに痛々しく、その死がどんなに無惨なものであるか、知っているからだ。
少女はかならず男に消費される。消費されて、処女を失い、死んでしまう。
女の辿るべき道の絶望を、山戸結希は知っている。
女の子は彼氏ができるとそっちが大事になるって言う。女の子は蹴落とし合う生き物だとも言う。それはそうさ、いつか母にならないといけないのだから。いつか、誰かにとっての聖母として頑丈に生きねばならないのだから。そのためには生まれつき、備わってるんだよ。志向性が組み込まれてるんだよ。女の子同士は、ただの練習に過ぎないの。「本番」に、全部の幸せが、インプットされているんだよ。そう信じざるを得ない回路が体の真芯に入っている。
(あの娘新聞 号外 平成24年11月号 編集長山戸結希より)
この言葉の重みを感じ取れない男になんか少女の死を語らせないからな!!!!
この抑圧をこのミソジニーをこの無力感を知らない人間なんかには。
ええ、正しくないです。男と女で理解力に差をつけるなんて正しくない。だから私は冒頭「女」の定義を狭めず、「知っている男」の感性を排除しないことで少しでも正しくなるようにした。
でも男の肉体で男として生きてきた、この抑圧を知ってこなかった、このせりあがる痛みを理解できない男には、無神経に語ってほしくない。
私のなかで山戸映画ってそういう位置づけ。
『溺れるナイフ』もまた、処女と社会の物語だ。
処女の夏芽はまだ社会を知らない。消費されて羽をもがれて少女たる自分の一部を失う痛みを知らない。
冒頭、祖父の家に向かうまでに強調されるのは夏芽のその処女性だ。
父「夏芽……元々お父さん芸能活動には複雑な気持ちだったんだ。女の子なんだからさ」
母「直樹くん。女の子だからだよ」
祖父「夏芽、べっぴんになったの」
夏芽「(手を振り)……全然だよ」
どちらも原作にはないシーンである。
モデルの夏芽は写真を撮られている、つまりその身が商品として消費されているのだが、それを夏芽は当然のことと思う。
「女の子だから」自分の身体性や容姿、すなわち少女性を消費されることを嬉しく思う。まだ痛みを知らないがゆえに。
母「でも悪くないかもねー。若くて綺麗なうちに撮っておいてもらうのも」
夏芽「……そういうもの?」
そんな処女夏芽が海に圧迫される田舎(=閉塞)で瞬く間に惹かれたのは、処女コウちゃんだった。
……きわめて真面目に言う。
原作版を確認したらそうではなかったが、映画『溺れるナイフ』におけるコウは処女である。
『あの娘が海辺で踊ってる』における処女舞子は、田舎を出てアイドルになり自ら「社会」に消費されに行くことで処女を殺す。
続く『おとぎ話みたい』『5つ数えれば君の夢』における処女たちは、いつか無惨に死ぬことを知りながら少女を全うする。
彼らは最初から少女消費の暴力を知っている。
さて『溺れるナイフ』はというと、比喩ではなく、実際に夏芽は処女を失う。
処女を男に殺される。レイプされる。
祖父「夏芽は美人だからのう」
夏芽「……(うつろな目で力なく首を振る)」
レイプされた夏芽はようやく、少女性を消費される暴力を知る。だから容姿を褒められて照れ笑いなどできなくなる。
このシーンの直後にある夏芽が「カナちゃん、可愛くなったね」と言い、カナがこそばゆそうに照れ笑いするシーンは、夏芽が消費の暴力を知ったことを浮き彫りにする。
カナはまだ知らない処女なのだ。
コウは夏芽の処女性の具現化だ。
万能感を抱えたふたりはだからこそあの火祭りの夜まで共に蜜月を過ごすことができた。
そしてだからこそ、あの夜からふたりは二度と交えなくなってしまった。
処女は不可逆だ。失われたら元には戻れない。だから少女は儚く美しい。
夏芽「私、コウちゃんといたいよ。もう離れたくない」
コウ「夏芽……遠くに行けるのがお前の力じゃ。どこに行ったところでお前は綺麗じゃけえ。俺はお前にしてやれることはなんもねえ」
少女であった夏芽は処女を取り戻そうとする。その姿はあまりに痛々しい。蜜月の終焉の痛み、少女性をすり減らす痛みだ。
二度目の火祭りの夜、コウがレイプ犯に飛びかかるのは夏芽の痛みすべてを知っているからだ。
そして男に処女を奪われた夏芽本体がその復讐心を処女に託し、殺せと願うのだ。処女が散らす、最後の花火。
『溺れるナイフ』に登場する「正しい男」は今までの中で最も直接的で強烈だ。
それがレイプ犯・蓮目である。
蓮目「さっき生意気そうな男の子とキスしてたでしょ。今日のために練習してくれてたんだね。これからが本番だよ」
原作の蓮目がここで言うのは「早く俺が救ってあげなくちゃ汚れてしまうって思って」だ。
コウが蓮目と同じ「男」であればこそ、汚れると言える。
だが映画の蓮目にとってコウとのキスは「本番」のための「練習」に過ぎない。
女の子同士は、ただの練習に過ぎないの。「本番」に、全部の幸せが、インプットされているんだよ。そう信じざるを得ない回路が体の真芯に入っている。
(あの娘新聞 号外 平成24年11月号 編集長山戸結希より)
もちろんコウは女ではない。
だが夏芽の体の一部の処女であったのだ。
蓮目は夏芽に対ししきりに「夏芽ちゃんはボクと同じ人間だ、ひとつになろう」と話しかける。
しかしながら蓮目は「正しい男」である。処女である、男に消費されるためにある、少女を脱ぎ捨てなければならない女である夏芽とは決定的に違う。
本当に夏芽とひとつの同じ人間になれたのはコウだけだった。
コウ「お前の人生に巻き込まれるのはもうごめんじゃ。関わらんで」
原作におけるコウはこんな台詞は言わない。夏芽とコウは最初から別々の人間だからだ。
同じであれたからそう言える。同じと思えたからお互い傷つく。
傷ついてしまったふたりがセックスしても、再度ひとつになれることはない。むしろ離れ離れになってしまったことを確認するだけだ。
大友は、少女でなくなった夏芽の先にある「社会」のひとつだ。
大友の前では着替えひとつも恥じらう。
左足の薬指に大友色のペディキュアを塗り、夏芽は処女への未練を少しずつ癒そうとする。
しかしふたりは結ばれない。
夏芽が大切だったコウとの思い出を捨てられないからだ。夏芽もコウも時間が止まったままだと確認してしまったからだ。
もしも大友と結ばれていたら、筋書きはこうなる。
少女を終えた女が社会に開け、男の手の内に収まり救済される。処女殺しは単に大人になるための通過儀礼に堕す。
もちろんのこと山戸結希はそんな映画を作らない。
消費された女の絶望は男の手によって救われなどしない。
閉塞からの離脱を余儀なくされた、開けてしまった女が行ける社会は多くない。男に着いていくのが正しいのはわかっている。
通過儀礼にしてしまえばいい。
だけど、それならわたしたちの蜜月は、あんまりに悲しいお別れは、誰が観測してくれるの。わたしたち以外の、誰が。
こうして夏芽はペディキュアをすべて青に塗り替える。
コウは処女の象徴であった。
コウの絶望は、彼が女ではないことであった。
『おとぎ話みたい』の先生はしほのただひとつの田舎として童貞を抱えた。一生殺されることなく抱えた。
『あの娘が海辺で踊ってる』の舞子は自身が女であるからこそ、処女の象徴であっても処女を捨て少女をすり減らせることができた。
コウは彼の一部分をすり減らせない。彼がまさにすり減らされるその一部分だからだ。永遠に痛いまま。
彼は捨てられた夏芽の処女性だ。捨てられるだけの存在だ。
逃げ場がない。どこにもない。ただ静かに閉塞に縛られ閉塞のなかで朽ちていくだけである。
夏芽は処女と別れても開けた女として生きていけるが、コウは女ではないので女として生きていけない。道は塞がれてしまったのだ。
もしもコウが「正しい男」であったなら、あの夜、助けてくれたはずなのだ。
それが叶わなくてもふたりはあんなに傷つかなかったはずなのだ。大友のように、夏芽を癒す存在として導いてくれたはずなのだ。
しかしコウは「処女」そのものだった。
最後にレイプ犯を"殺し"て、散って、夏芽の処女としての彼が終わった。
処女としてのコウの救済は、夏芽がいつまでも生傷のまま忘れずに処女との別れの絶望を抱えて生きていくことだけである。
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これは単に作品解釈だ。私はそんな、処女の不可逆性など信じちゃいない。女は単に人間であり、処女と処女でない女に違いはないと思っている。そもそも処女の定義自体に吐き気がする。
「正しい男」なんて存在しない。性別にかかわらず人間は正しかったり正しくなかったりする。これが私個人の価値観だ。
それでもこんなに山戸映画が響くのは、私もそういう社会の抑圧を身に沁みてきたからだ。
ミソジニーを内面化し、女特有の正しくなさや少女終焉の痛みを信じていた頃があったからだ。
これはそういう、私たちのための映画なのだ。
あとこれは入らなかったのでここで言うけど、広能晶吾も「正しい男」ですね。少女を無批判に消費する男。
彼の愛した少女が死んで絶望に泣きすさぶ夏芽のカットのやるせなさときたら……。