女は処女かママである。──女の子が殺されること
映画版『溺れるナイフ』と『5つ数えれば君の夢』のネタバレがあります。
女といえば処女かママ(か時々老婆)しかいない。
「女」カテゴリーの幅はとても狭い。生まれた瞬間から人間や他の動物ではなく処女という生命体と見なされる。
処女期が終わった瞬間から、間はなしにママになる。
本記事で扱う「処女」とは男社会に吸収される前の、自分が自分のまま生きていく、自他がとけあい他者が自分であると信じていられる存在を意味する。
「ママ」は自分の人生を捨て他人の人生の周縁になる存在を意味する。
単にセックスしたことがない女性、子を持つ女性という意味ではない(本記事ではそういうことにする)。
本記事は以前書いたこの記事の焼き直しである。
処女よ、処女であった者つまりママよ。
という話である。
処女/処女であった者。その二項しか女には与えられていない。あるいは与えられていなかった。
そのために生まれるやり場のない悲憤をえぐりだすのが山戸結希映画だ。
『溺れるナイフ』を見た直後慟哭をなだめながら吐き出したときのような切羽つまった書き方はもうできないが、最近読んだ本によって新しい視点を得たので、『溺れるナイフ』と『5つ数えれば君の夢』を取り上げてまとめ直したいと思う。
山戸:前作の『おとぎ話みたい』を「少女の遺作」って言ってたんですけど、今作を撮りながら、映画の中でも外でも、もう私ってお母さんなんだなあ…と思いましたね(笑)
(『5つ数えれば君の夢』パンフレット)
目次
0.『女の子を殺さないために』要約
川田宇一郎『女の子を殺さないために』読了。
山戸映画分析をするにはおあつらえの材料だった。
というかこれでやっと『5つ数えれば君の夢』のラストが理解できたので記しておく。
『女の子を殺さないために』後半の主題、「恋愛小説の女の子はなぜ殺されるか?」の要約は以下。
一応この章は斜め読みでも本記事を理解できるようにはした……つもりです。
『不如婦』も『野菊の墓』も『或る少女の死まで』も『風立ちぬ』も『愛と死』も『ノルウェイの森』も『世界の中心で、愛を叫ぶ』も──、古今東西物語はヒロインがあっけなく死ぬストーリーをつづってきた。
それは女の子に死んでほしい=女の子に下降してほしいから。
『不思議の国のアリス』のように、落ちることは俗世間(まわりにあるもの)から抜け出すことを意味する。下降は気持ちよさを生む。
しかし男の子は上昇せねばならぬとパパになることを要求されるから下降できない。
女の子はママになることを要求されるから下降できる。下降とは女の子がママになりつつある過程を指す。
そのままママに同化される(自分の人生を捨て他人のために生きる、他人の人生の周縁になる)可能性もあるが、下降引力を利用して突破する可能性も秘めている。
アリスが不思議の国にたどり着いたように。
女の子を殺すことで、読者は人生の周りを囲うママ包囲網の向こうへと突き放される快楽を得たいのだ。
女の子がママになる過程で一番象徴的なイベントが生殖行為、ヘテロセックスである。
男とセックスすること=女の子が落ちること、と導ける。
したがってヒロインは主人公の男とセックスをして下降し、死ぬ。
(『女の子を殺さないために』p231/川田宇一郎)
正直ピンとくる形には要約できない……。
フェミニズム的側面から見て、「女の子が死ぬのは、おばさんになってほしくないから」と喝破する山田あかね氏の書評のほうがよっぽどわかりやすいと思う。
日本の小説のなかで女の子が殺されてきた歴史について。 - Togetter
『女の子を殺さないために』とフェミニズム観点は相反する理論ではなく相補だと思うので、以後そのように山戸結希分析を進めていく。
1.『5つ数えれば君の夢』
下降する≠ママになる
女の子が下降する物語の構造は以下。
女の子が落ちる
しばしば男とのセックスによって処女でなくなる
女の子がママになりゆく
女の子が殺される(死ぬ/消える/去る)
女の子がママとして周縁化されずに包囲網を突破し世界のしがらみから解き放たれる(ことで受け手の解放への欲を満たす)
つまり、下降とは死に向かう引力のことで、自分の人生を捨て忘却されるし忘却することであり、本屋で新刊棚から通常棚に追いやられ見向きもされなくなる一冊の本になることを指す。
しかしそれゆえに下降は俗世間から突破する可能性を秘めており、女の子はママになりつつあるがために下降できるという。
『女の子を殺さないために』では女の子が下降する種々様々な瞬間を抜粋している。
例えば電車のホームから落ちるだとか地下への階段を下るだとか。
いずれも程なくきたる死を予感させる。
『5つ数えれば君の夢』で下降するのは斉藤りこだ。
女子校の文化祭でミスコン直前、りこは秋の濁ったプールに飛び降りた。
濡れたままミスコン会場で躍り狂い、女子校から立ち去って消えた。
つまり女の子が下降して"死ぬ"、従来的物語の引力が働いているかに見える。
りこ「ねえ……一度リズムが聴こえたら踊らずにはいられないの 夢に見ているときにまでずっと音楽が流れているのに」
女子校は「社会」に出る前の処女の最後の揺りかごである。
という話は以前にもした。
映画『溺れるナイフ』処女よ、処女であった者よ - 青い月のためいき
処女かママしかいない社会では、処女が男とのセックスによってママになって下降する。
そう運命づけられた処女たちは女子校で最後のひとときを過ごす。
委員長「女の人がやること、全部やるよ。女の人の中で、一番できる人になるよ。マザコンでもいいよ。だってマザコンはしょうがないよね、みんなそうだよね」
ここでの「女の人」は他人のために生きているママのことだ。処女たちはまだ「女の人」ではない。
処女たちは女子校のなかで死を待っている。ママになるために。女子校だけが唯一女の子がママになる社会から隔離されているとも言い換えられる。
そんな引力が働く場所にいるにもかかわらず、りこはママになることを拒絶した。なぜだろうか。
りこ「誰とも仲良くできなくていいの。人非人になっても私は踊っていたいのよ。夢の続きをずうっと泳いでいきたいの」
りこ「みんなとなんて踊りたくないの。私はひとりで踊りたい」
ママになればひとりで踊りつづけることはできない。「みんな」ネットワークのなかで踊るママは周縁であり埋没者であり、中心にはなれない。
女子校のミスコンとはだから、処女たちがママになる直前、ひとりで輝くことのできる最後の表舞台だ。
命短し踊れよ乙女、なのである。
にもかかわらずりこはひとりで躍りつづけることを望んでしまった。
ここに山戸結希の描くやり場のなさがある。
ママになる引力に抗う処女たち
りこが下降して死んだのは、処女がママになる従来型引力にひかれたからではない。
むしろその真逆である。
処女でいられる女子校を出たらママになってしまう。夢の続きを泳ぐためにはプールに飛び込んで"死ぬ"しかない。
ママになれないのだったら処女のままでいるしかない。
りこは処女のままでいるため、処女斉藤りこを永遠化させるために、夢から覚める現実をぶつりと切る。
最後白いドレスで舞い去ったのは、女の子の逃亡劇なのだ。
これを単純化させたのがバンドじゃないもん!のMV『パヒパヒ』(監督:山戸結希)だろう。
このMVではふたりで戦士になった13歳の少女たちがそれぞれ男に恋をしたり初潮を迎える。「大人になんてならないで!」「永遠に少女でいよう!」と叫びあうふたりがクライマックスだ。
いずれも処女かママしかない道の悲哀がここにある。
ママになりたくない。ただの「まわりにあるもの」として心を去勢されたくない。
処女でいたい。欲望や衝動や愛する人を失いたくない。躍りつづけたい。忘れたくない。忘れないために処女でいたい。
──女の子を殺してきた物語はそんな悲惨を汲み取ってはくれなかった。
りこはプールに落ちてずぶぬれのままミスコン会場へ赴いて出番の順など意に介さずうつろにしなだれ、処女のまま「死」ぬまぎわ最期のダンスを踊り狂う。
白と赤(手垢のついた処女性)
白いドレスを身にまとう処女りこ。りこを目の敵にしてミスコンに出場する、真っ赤なドレスのライバルの女の子宇佐美。
宇佐美は既に女子校の外部の男と関係し、やや直接的典型的ではあるが(大人の暗喩たる)経血の赤を身にまとう。
宇佐美は男とのセックスを経験してしまったため、もはやほとんどママなのだ。*1
だからミスコンの出番はりこに乗っ取られ、りこの死に際を呆然と眺めて活躍することなく周縁化する。
りこの死出を飾った女の子がいる。
りこの落下を目撃し悲痛を耳にし、そのお別れを悟った女の子さくは、りこが踊る道を追いかけ上から花を降らせていく。
その花々はすべて赤い。
ところがさくが走る途中で踏んだクッションの中身が飛び出て、りこの頭上には白い羽が次々舞い降りる。
その意味するところはなんだろうか。
ママになりゆくことで処女は死に近づく。
処女の死を飾るのは赤が相応しいと思われた。
しかし、処女は処女のままでいようとするのだ。
最後敷き詰められた白い羽のなかで、一片の赤い花弁が舞うのは処女とママの対比のように思われる。
「マザコンでもいいよ」とひとりごちて処女の死を待つ委員長、この女の子に降るのも白い羽だが、委員長は赤いランドセルを背負っている。
ランドセル、白、赤。
処女とママの間で引きちぎれるアンビバレントな心が見てとれる。
紅白を解釈するならそんなところになるのではないか。
2.映画『溺れるナイフ』
処女はいつ死ぬか
『女の子を殺さないために』では、小説『太陽の季節』が処女の意味をスライドさせたと分析する。
女は数多の男とセックスするが、ただひとりの男とのセックスがまったく特別となってしまったのでママに近づき、死ぬ。
特別な男との特別なセックスが処女を喪失せしめる。
では山戸映画は処女をどう定義づけたかというと、以前の記事でも言ったとおり、「男に消費され心を削がれるかなしみを知る前の少女」のことである。
映画『溺れるナイフ』処女よ、処女であった者よ - 青い月のためいき
より厳密に言えば、「男に消費されることで周縁化され、今までの欲望や衝動や愛した人すべてが遠ざかり、ママになる道を決定づけられるかなしみを知る前の少女」だろうか。
まだ欲望も衝動も愛する人も持ち合わせることができる時代。
「特別な男との特別なセックスによって処女が死ぬ」という男の物語のまさに裏側でありながら、男の物語ではついぞ発明しえない処女の定義である。
処女は正しい男(男社会の原理に正しく沿って女を下降させる能力を持つ男)によって死ぬ。
映画『溺れるナイフ』の処女喪失シーンはどこか。
本作で性行為が発生するのは一度きりである。
万能感を抱えた少女夏芽と少年コウが、夏芽レイプ事件によって分断されたあと、何度目かの再会のとき。
事後生まれたのは、もう二度と事件前のふたりには戻れないことを確認しあってしまった鈍圧だけだった。
『溺れるナイフ』の処女喪失シーンはそのセックスではない。
私は今までレイプ事件のシーンが処女喪失だと思っていた。
レイプによって人間性を奪われ、かなしみを知るのだと。
しかしそれも誤りだった。
夏芽はレイプの前に「落ちる」のだ。
夏芽はレイプ魔から逃げるために橋の下へ降りるが、危機を察して追ってきたコウに発見される。
だが引き上げようとふたりが伸ばした手は取り合えなかった。
映画『溺れるナイフ』は夏芽がレイプされんとする瞬間と同様に、コウがレイプ魔に見つかり手が引き離される瞬間をも衝撃的に描いているのだ。
夏芽はそのまま逃げるように山の斜面から滑落し、絶望する。
なにに絶望したかといえば、コウが夏芽の思い通りにならない存在であったことにである。
ふたりでひとつなのだと疑っていなかったのに、まったくの他者であると知ってしまったことにである。
まわりのものが自分である、肥大した自我。他者さえも自分だと信じていられた季節が突如終わった。正しい男の手によって。*2
これこそまさしく、夏芽の処女が殺された瞬間だった。
女の子の下降を気持ちよく見れるのは誰か
人は女の子の死を求める。女の子が落ちることを求める。
落ちる様を見るのは気持ちよいからだ。
『女の子を殺さないために』では俗世の突破を期待するために女の子の死を利用すると述べているが、単に下降が気持ちよいとも言っている。
なぜ男の子ではいけないのかというと、男の子には上昇引力しか働かないからである。
男の子は女の子を引き上げはしても落ちると不協和が生じる。
それこそ崖から落ちそうになるのは女であり、崖の上からその手を取って助けるのは男であって、逆はない。
──というのが、従来的な物語だった。男のための物語だった。
映画『溺れるナイフ』はほとんど100%女のための物語だ。かつて処女であった者のための。
果たして本当に女の子の下降は気持ちよいだろうか?
山戸結希が作品を通じて問いかけているのはその一点と言ってよい。
気持ちよいと他人事にして消費できたのは誰だ。
処女がやがてママになり自分の人生を捨てることを易々認められたのは誰だ。
女の子が男のちんこひとつに支配され処女からママへ変貌させられる物語を受け入れられたのは誰だ。
処女orママの二種類のかたちでしかいられないことを当然視したのは……。
山戸結希はくりかえしくりかえし、落とされる側の女の子の声を掻きだしつづけている。
男の子が下降する
映画『溺れるナイフ』は女の子が下降するが、男の子も下降する。
というかそもそもコウは最初から落ちていた。
海の中でたゆたうのが彼の初登場シーンだ。
そして夏芽を海の中へ誘い、落とす。
映画『溺れるナイフ』の最初の下降は、ふたりが同じ存在になるための儀式である。
上昇する男の子と下降する女の子ではなく、ふたりとも同じように下降する存在なのだとあきらかにするための。
そのときコウは言った。
コウ「海も山も俺は好きに遊んでええんじゃ! この町のもんは全部俺の好きにしてええんじゃ!」
海も山も自分の一部。肥大した自我がある。下降する存在であり自他の境が曖昧なコウだから、夏芽ととけあえる処女として描かれる。
そんなわけで、コウが夏芽を引き上げられないのは当然なのだ。彼は下降するしかできない。引き上げてほしいと望んだ夏芽が履き違えていた。
同じように下降する存在→(だから)→ふたりでひとつと信じていられた
はずなのに、夏芽はいつしか信じたことを前提にしてしまった。
ふたりでひとつ→(だから)→自分の思い通り引き上げてくれる
と勘違いしてしまったのだ。
だからふたりは傷ついた。
夏芽「コウちゃん……、なんでやっつけてくれなかったの」
夏芽「思い出してよ……コウちゃんの手で私のものにさわったでしょ」
そう言ってふたたび自分もろとも海に落とすのは今度は夏芽だ。
ふたりでひとつのはずでしょうと祈る、だがそうではないとわかりきっている、痛々しい落下である。
そしてコウは夏芽にされるがまま下降を受け入れ、沈んでいく。
そんなコウを見て慌てて夏芽は引き上げる。
これだけでもう、ふたりが分かたれてしまったことを確認するには充分だ。
コウは死に向かう存在になってしまったし、夏芽は生命力によって上昇できていく。
死ぬ前にできることといえば、レイプ事件の1年後に、あの日できなかった「夏芽が望んだように」レイプ魔を殺すことだけなのだ。
それだけがふたりでひとつを信じていられたあの頃の真実を完成させる手立て。
女の子が下降してもママにならない
映画『溺れるナイフ』が女のための物語であると断言できるのは処女がママにならないからだ。
ここが古典的な女の子が殺される物語と決定的に違う。という話を『女の子を殺さないために』を読んでどうしてもしたくなって私はいま筆を執っている。
女の子が落ちる
しばしば男とのセックスによって処女でなくなる
女の子がママになりゆく
女の子が殺される(死ぬ/消える/去る)
女の子がママとして周縁化されずに包囲網を突破し世界のしがらみから解き放たれる(ことで受け手の解放への欲を満たす)
これが女の子が下降する物語の構造だ。
しかしながら映画『溺れるナイフ』では、夏芽はラストシーンで女優として賞を獲り脚光を浴びる。つまり下降したにもかかわらずママとして周縁化せず自分の望んだ人生の主役として表舞台に戻ってきている。
落ちきって世のしがらみから脱出したのでもない。夏芽は一旦落ちて、しかしまた上昇している。
なぜ上昇できるのか。
女は処女かママしかいない、もはや山戸結希はそんな窮屈な箱に女の子を納めないからである。
処女でなくなることはママになりゆくことを意味しない。
ヘテロセックスがママになりゆく一大イベントではない。ひとつになろうとするのに結局はひとつになれないことを確認し傷つく作業として描かれる。正しく少女漫画的だ。
処女の次即ママではないと女の子は直感的に知っている、というか、妊娠してもいないのに初めてのヘテロセックスの翌瞬にわたしママになっていくんだわと思い馳せる女の子がいたほうがびっくりだ。セックスの前も後もあたりまえにわたしは地続きのわたしでしかない。現代に生きるわたしたちは。
なのに社会は、男社会は、処女かママの役割しか与えてくれない。選択させてもくれない。おまえは処女である、膣に陰茎を入れたらママである。
処女を失いママになったらすべてを忘れることになる。
欲望も衝動も愛した人も。人生の矢面に立ってきたから味わった痛みも感情の数々も。表舞台を退き周縁化されてしまったらすべてどうでもよいものへと変わる。他人のために生きねばならない。
山戸映画は処女を失ってもけしてそれらを忘れない。
忘れないために映画を撮っているように思う。
処女を失うことで強制的にお別れさせられるものたちを。男によって切断される手足を。
『5つ数えれば君の夢』のりこは社会から逃亡した。
忘れないでいるため、ママにならないよう処女のまま"死んだ"。
夏芽は忘れなかった。
ママになる引力よりも喪失の痛みのほうがずっと強かった。
だから処女を失ってもなお周縁化されずに自分の人生を生きることができたのだ。
映画『溺れるナイフ』で画面から消えて死ぬのは夏芽が田舎に置き去りにしたコウのほうである。
コウはママになりゆく存在ではないのに、なぜ"死ぬ"のか。
夏芽のなかで永遠になる必要があるからだ。
夏芽の心のふるさとになって新鮮な痛みのままでいる必要があるから。コウが人間として"生きて"しまえば、痛みは時間とともに磨耗してしまう。それを防ぐための死なのだ。
物語にとって都合のよい男の子。女の人生に振り回される男の子。しかし下降して死ぬ姿は、まさに今まで男のための物語が犠牲にしてきた女の子の姿そのものなのである。
女の子の下降により組み立てられた物語では男の子には主人公になれない、と『女の子を殺さないために』は分析する。下降する女の子が物語の起承転結を左右するので男の子は揺らがないという。
では下降する男の子の物語となる映画『溺れるナイフ』では女の子は揺らがないかといえばもちろんそんなことはない。
ふたりは同じように傷つき対等である。
しかしコウは落とされる引力に逆らわないで死に身を任せるが、落とした夏芽は海上へともがくのだった。
(コウの死でわかるのだが、どうも女の子しか下降できないことも、ママになりゆく=下降という論もしっくりこない。これを乗り越えた批評が待たれる)
3.処女/ママ二分の崩壊を願う
「少女期のあの地獄って、思春期が終わったら女性から切り離される問題というわけではなくて、身体がある限り永遠に追いかけてくる地獄なんですよね。」
「それは、きっと男の人と添い遂げても、子どもを産んでお母さんになっても、消滅せずに並行世界としてずっとある地獄なんじゃないのかなって予感として響きながら。」
日本の女の子にとって転換期になるような作品を『溺れるナイフ』山戸結希監督インタビュー-AM
山戸結希はまだ女の子を10代+α程度の年齢としてしか撮っていない。思春期の肥大した自我と理不尽に分断されるお別れへの執着が鮮烈だからだ。
しかし今後年齢も拡張していくにちがいない。そのときやっと処女とママが解体されるのではないだろうか。
処女期を終えても消えない衝動や鳴りやまない音楽。
母親にならなくても死なずに存在することのできる自我。
母親になっても表舞台を降りない女の子。
処女からママへの変貌は劇的ではない。どこまでも地味で地続きで同じわたしである。
冒頭でもリンクした山田氏の『女の子を殺さないために』の書評からひとつ引用して本記事をとじよう。
けど、実は、女の子はみんな、おばさんになるわけじゃありません。おばさんでも女の子でもない別のものになります。なんでしょうか。はい。普通の人間になります。それだけのことをなんでずっと恐れているのでしょうね。けど、普通の人間だとドラマが作りにくいという、製造上の秘密もある。
— 山田あかね (@aka720) 2012年5月12日
日本の小説のなかで女の子が殺されてきた歴史について。 - Togetter