青い月のためいき

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ドキュメンタリーにおける演出編集と信頼の効果をひたすら考え続けた森達也『FAKE』

がしがし本編のネタバレしてるし本編を見た前提で話を進めます。


森達也の映画は『A』『A2』、著書は『A』『A2』『A3』『それでも、ドキュメンタリーは嘘をつく』既読です。
それを踏まえてこの『FAKE』がどういう思想によって描かれたのか読解。
キーになるのは「演出」と「信頼」です。
ドキュメンタリーは完全なる事実ではなく人の手が加わった創作だから、「いかにも作為的な編集」と「被写体との信頼関係づくり」が重要になることをいかに作品に盛り込むか。

以下ほぼtwitter(鍵垢)で垂れ流していたことのコピペなので散漫な文になってますがメモとして。





森達也が描きたいのは「白黒つけられない曖昧なものが四捨五入されて二元論の対立になってしまう危うさ」と「ドキュメンタリーは真実ではない、日常のなかにカメラという異物が入ることで意識は別物になる、編集をすることでいくらでも言い様は変わる」というところ。
それをちゃんと映画に溶け込ませたのはまず成功だった。
特に今回は「ドキュメンタリーは真実ではない」テーマを全面に押し出していてよかった、それは『A』シリーズでは描けなかったことだったから。

著書、たしか『A3』だったと思う、そこで彼は「オウムが生活している居住地を撮らせてもらう。風呂場に「尊氏専用」とラベルが貼られたシャンプーを見つける。面白いと思って上から下まで撮る。これが作為だ、これを面白いと思う撮影者の意図が映画に撮しだされてしまう」と言った。

ドキュメンタリーは事実を撮していると捉えられがちだが、そういう「撮る側の意識」「撮られながら"演じる"出演者の意識」「編集する側の意識」の問題をどう折り合いづけるべきかということを延々考えていた。
考えていたんだな、ということが画面からありあり感じ取れた。
確かにあるんだよね、ドキュメンタリーを見ていて、「ああこの人作品として映像に残るからって気取ってるんじゃないかなあ」とふと思ってしまうことは。
そういう問題とどう向き合うか。

だから佐村河内家にテレビの取材が来てそのスタッフが「いつも撮る側だからこう撮られるって緊張しますね」って口走ったとき「いい台詞録ったな!!! 口走ってくれって願ってただろ! 森達也がほくそ笑んでる姿が手に取るようにわかる!!!」と思った。

「今からカメラ入ります」から冒頭導入する、豆乳をじっくり撮す、「バラエティに出演してもけして佐村河内さんをいじったりしませんから信じてください」と出演依頼をするフジテレビの人の声を背景に猫を撮す、かおりさんの手に光る指輪の視線、ケーキの視線、そして「いいシーン撮れました」のラスト。

そういうもの全部「ドキュメンタリーは創作なんだよ!!!」って叫んでいて非常に思想的。



「僕映画完成するまで煙草やめます」
これ絶対"台詞"として吐いただろ……と思った。映画の演出で使うために。

きっと完全に「台詞」のためだけに「演出」のためだけに言った「嘘」ではないだろう。
でも完全に意識の外だったのか?と言ったら違うと思う。
既に「二人で煙草を吸う」という交流が確立されていて、それを映画に使うという構想はきっとあの時点であったはずだから。

そして本当に禁煙していたかは観客にわかるわけもないし、意識的に発した「台詞」であるならばそれはヤラセではないのか?という疑問が当然出る。
でもここの、「演出のためだけとはいえない」部分にこそ、『FAKE』の本質がある。この割りきれない、嘘であり、嘘ではない部分に。

佐村河内さんは撮影開始時、世間に怒っていた。
「本当は聞こえるのに聞こえないふりをしてブランド力を上げていた」と完全な「嘘」を振り撒かれることに。
それで400人いた友人が全員離れていって親も親友から愛想つかされ……ってなるとそりゃ怒るよね……。

そして「ゴーストライター」という名目にも怒っていた。あれは共作だったと。
佐村河内さんがびっしり紙に書いた曲の構想、構成案をもとに、新垣さんが曲を起こしていった。だから共作だと。

しかし中盤米雑誌の記者が指摘する。
――出来上がった曲はあなたの思い描いたとおりの音だとどうやって確認する? あなたは新垣がなぜ「本当は聞こえている」「自分が作曲すべてやった」と嘘をつくのかわからないと言うが、新垣が半分以上作ったと主張しても仕方のない部分は少なからずあるのでは?
……この割り切れなさこの単純化しない曖昧さこそドキュメンタリー作家森達也の追求していることだ。




さて。この映画のもうひとつのテーマは「信頼」である。
佐村河内さんはもうこの撮影開始時周囲に対する不信感でいっぱいだったはずで、信頼がテーマになるのは必然と言える。

森さんがオウムを取材して基地内を撮影したりしていた時期、メディア関係者に「お前よく取材許可降りたな、こっちは拒否されたぞどうやったんだ」と不思議がられていたらしい。
森さんいわく、「普通に取材依頼しただけ」。丁寧なメールを出して電話をして約束を取り付け……普通のことをしただけと。

なにかって言ったら、他のメディアは端から「取材をする」ための体裁を放棄して馬鹿にしてたんだよね。
「悪いことしたのはお前らなんだから説明責任があるしこっちがお前らのテリトリーを荒そうと当然だろう、やましいことがあるから隠したいんだろうそんなの筋通らないすべて開示しろ謝れ」という態度。
だから無実のことまでメディアに触れ回され、オウム入信者の不当逮捕までわんさか出始める。

そうしてオウムはメディアに対して「名誉毀損だ撤回してくれ」と言う。しかし世間は「そんな些細なことどうでもいいだろう責任はどう取る」と申し立てる。対立。FAKE見ていてもうこの構図そっくりだなって。


撮影開始時の佐村河内さんの「怒り」。それは絶望的にわかってもらえない悲しみそして不信感。だから「理解してくれ」と叫ぶ。
森さんが佐村河内さんに取材受け入れてもらえた理由はよくわかるよね。
「普通に丁寧に依頼した」。それは対象を撮す上で基本的な信頼関係。

だってすげえよ途中のフジテレビのバラエティの出演依頼。
企画説明書に「逆境を笑い飛ばし佐村河内が今後の前向きな展望を語る」、それまで映画見てきたらわかるけど佐村河内さんはまるでそんな性格じゃない。つまり番組側が面白くなるように佐村河内さんの気持ちを勝手に作ってる。
そうじゃなかったから森さんは許諾されたと。



そして小道具、煙草。煙草は信頼のメタファ。
ベランダで煙草の時間を共有することで二人が打ち解けていく様を表現している。

映画の流れ。
「ベランダで煙草を吸うんです」と佐村河内さんが家を案内→二人でベランダで煙草吸いながら会話。
これを提示してのち、フジテレビ取材陣が帰った直後、佐村河内さんが疲労の表情で縋るようにカメラに向かって言うのだ、「森さん煙草吸いに行きましょう……」
森達也のカメラだってメディアなのに!

どれほど佐村河内守森達也を信頼しているか見てとれる、ここほど奇跡的に「いかにも演出っぽい事実」であったシーンはない。
まああとで森さんの編集の手が加わってるから「演出」になったのだろうけど。

私が「僕映画作り終えるまで煙草やめます」発言を"台詞"と捉える理由がわかるでしょう?
この発言が演出するところは、だから、「嗜好品を切り捨てるほどの真剣さ」「二人が築いて共有してきた信頼関係があるからこそ煙草というメタファを断っても残る信頼に賭ける森達也」。




そうして「信頼」を描いてきて浮き彫りにされるのは、佐村河内さんと、かおりさんの間にある信頼関係なのだ……。
ここは本当に本編見るだけでいい。解説なんかいらない。
「佐村河内という姓から断って当然だと」じっくり信頼を描いてきたからこそ、不意にここの信頼に気づかされたとき、泣くのだ。
そういう、「不意に気づかされる」部分も全っ部編集の手による計算だからね……。
「ドキュメンタリーは創作である」という視点がなければこの映画は絶対できなかった。


だから他にも小道具や演出が様々に重なりあい機能しあっている、そうして奇跡的に「創作的」になった、例えば豆乳。
あの豆乳が場をなごませるフード演出として機能し、上映開始直後のまだ佐村河内に「不信感」を抱いている観客を笑わせ、親しみを湧かせる。
ケーキも猫も全部象徴的演出。


そうそう、だから、新垣さんにおかしみを付与して演出していたけれども、彼に取材依頼したときももちろん森さんは「信頼」を渡すべく誠意を持って依頼していたはずなのよ。
むしろそのおかしみの演出は、観客へのフェイクとして機能。
ひたすらにこの映画は演出、演出、演出である。

最初「新垣氏へ取材を依頼したが断られた」と画面説明があったとき、私咄嗟に「やましいことがあったから断ったのかな……」と思った。
情けないことに新垣さんの気持ちを勝手に作った。これがこの映画の魂胆である。
それが証拠に森さんが新垣さんのサイン会へ行って、初めて新垣さんの"生"の声を聞いて「今度正式に取材申し込みます」「僕も森さんと一度お話したいと思ってたんですよー!と交流したあとの画面説明が、「取材を依頼したが新垣氏の"事務所"から断られた」だったんだよ。
最初の説明は「新垣氏」のみしか書かれていなかった。


「悪い人に見えても話してみれば、どうということはない普通の人間である」とは、森達也が『A』シリーズから通底して描いてきたことである。
それをしないで勝手に仮想敵にして二元論にするのは楽だけど、そうじゃないんだもっと世界は混沌としている。
混沌とした世界を解き明かしたのがこの『FAKE』。
パンフで津田大介が「このあとに残るモヤモヤこそ我々がリテラシーと呼んでいるものだろう」と言ってて、それだと思った。リテラシー

ラスト12分は観客に映画の総括と消化をさせる時間。私はずっと「佐村河内さん、森さんという信頼相手がいてくれてよかったなあ」「森さん、佐村河内さんのことは(取り返しのつかない犯罪を起こしたオウムよりももうちょっと)肩入れできてよかったなあ」と思っていた。

「心中ですよ(笑)」「えっ? すみませんちょっと笑われると怖くなっちゃって」「心中、ですよ」
心中と言えたこと、心中と言ってくれたこと。
そういう関係があってよかったなあ、と思って泣いていた。

そしてエンドロール、真っ先に流れてくるスタッフが「撮影」と「編集」であることに一貫した意思を感じてニヤリとした。