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【新居昭乃歌詞分析2016】母性への強い関心について-『そらの庭』に見る母性性と現在への跳躍-

 昭乃さんは母性の体現者です。この命題におそらく異論はないでしょう。昭乃さんの歌う言葉にはそれが如実に表れています。
 例えば空はしばしば見守り包み込んでくれる母性となって出現しますし、『昼の月』『月の家』の流れにも、恋する少女が相手を守りたいと思うようになるという、典型的な少女から母性への成長を窺うことができます。

 あなたが引き換えに貰うものはなあに? 痛みと── 気づいて助けて空へと導かれる夢を見るの
(『サリーのビー玉』より)

 外への開放を願っているために閉塞と孤独を痛々しく描くのも元々昭乃さんの特徴でしたが、『サリーのビー玉』では空を救済の象徴として描いていることに注目します。包み込んでくれるばかりではなく、大いなる母体たる空が弱く傷ついたサリーを導き同化することによってサリーは安心し救われるのです。

 昭乃さんの基軸が母性であると見ると面白い構図が浮かんできます。
『Flower Clown(花かんむり)』はその代表です。父権の象徴と言える王様、しかしその実態は孤独な少年です。

 すべてを手にしたあなたが空には届かないと笑うの
(『Flower Clown』より)

 立派な石のお城の塔の上に住んでいても空より上に行けることはない。すべて空のもとには平等であり、だからこそその母性原理の中に生きる王様は絶対的権力を振るうことができなくなる。母の腕の中では、すべてを手にしたところで価値はないのです。
 父権的強さはマイナスとして描かれ、そうして王様は孤独を憂うことになります。昭乃さんにかかれば強くて怖い王様も淋しく弱い子供なのです。
 父性原理のもとでは良いものと悪いものを分け良いものしか遇さない厳格さが必要になりますが、母性原理のもとでは母の内では良いも悪いも裁かれずすべてが一緒くたになります。
 よって悪い王様でさえ母性の力でもって救われるのです。

 こうしてみると、昭乃さんの経歴として昭乃さん自身が様々な因果によってクリスチャンになることができなかったという事実は実に象徴的なように思えます。昭乃さんは圧倒的父性を教条とするキリスト教と噛み合わなかったのではないでしょうか。
『神様の午後』ですら神様よりも母性である空のほうが上位の概念として描かれ、決定的なのは『ばらの茂み』です。

 いけない子供だった私の髪にも金の雨が降るの
(『ばらの茂み』より)

 カトリック修道院を歌っていてこの歌詞が出てくるのです。
 雨もまた母性の象徴として昭乃さんはよく使用しますが、「いい子」でなければ救われない厳しさよりも、「いけない子供」にも愛が降り注がれる慈悲を昭乃さんは尊重したいということでしょう。


『そらの庭』に見る母性性と根底

 以上を踏まえてアルバム『そらの庭』を見てみます。
 まず『Reincarnation』はのっけから「転生」、つまり終わりと新しい始まりがセットで歌われていますが、これは「循環」に特性を見る母性原理がテーマであると言えます。物事は一直線ではなく、終わりがあってそこからはじまりが芽吹く。昭乃さんの基本思想です。
 そして『小鳥の巣』へ行きます。これはこじつけですが、サビを見ると産道を通って生まれた赤ん坊だと解釈することができます。
 転生して新しく生まれた子供。曲が進むにつれこの子供は成長して恋を知り『空から吹く風』小さき者への慈愛の精神を現していきます『仔猫の心臓』。ここの慈愛が母性であるとは言うまでもありません。
『アトムの光』で核によって破壊される世界を前に描かれるのが体に子を宿した女性であることも一貫しています。強くないけれど、それより弱い命を守らなくてはいけない母。ここでも空は優しく包み込んでくれる母性の象徴です。

 問題になるのは『妖精の死』です。これは少女の純潔が失われ大人になる瞬間を隠喩した歌ですが、歌詞を見てみるとどうも後戻りのできなさを強調した悲劇的な印象を受けます。

 二度と帰れない 深い森 妖精のすみ家に
(『妖精の死』より)

 さて、ここで言う「深い森 妖精のすみ家」とは何か。これは昭乃さんの他の曲の歌詞にヒントを見ることができます。

 救うのよ 私たちの希望を 残酷でやさしい森の中で
(『Orange Noël』より)

 ふたりで閉じこもりましょう 愛すべきあの森
(『サンクチュアリ・アリス』より)

 昭乃さんは「森」の一側面を閉塞空間として捉えていることがわかります。
 しかもこの森は閉じこもってさえいれば庇護と救済を約束するゆりかごです。まさに我が子を外界から守るマザーではないでしょうか。

 ここでアルバム一曲目の『Reincarnation』に立ち戻ってみます。

 最後の森から最初の荒野へ運ばれていく
(『Reincarnation』より)

 最後から最初へ──つまり転生のことですが、ここでの比喩表現に森と荒野が使われていることに注目します。
 昔の昭乃さんの「はじまり」観が非常にシビアだったことは前稿で述べましたが、『Reincarnation』でそれは荒野によって示されます。荒野と呼べるほど「はじまり」は空疎で厳しいものなのです。
 するとこの歌はこういうことになります。
 安寧の母に守られていた最後から急に過酷な最初へと投げ出された──それが『そらの庭』の一曲目を飾るのです。
 だからこそこのアルバムは、全体を通して「至福の母体から産み落とされた(あるいはその産み落とされる直前の)者の悲痛」「そのために孤独になって人とつながれない寂しさ」を歌うことになります。
 こうすると、これは拡大解釈に過ぎませんが、『OMATSURI』の「あちらの世界」も読み解けます。この曲はまだ生まれたばかりでこの世に定着していない淋しい子供を元の母体に戻そうと誘う力を表現しているのだと。「あちらの世界」とは全く未知の場所ではなく、むしろよく見知ったユートピアなのです。

 ところで母性とは子を守る偉大な器ですが、同時に子をけして離そうとせず取り込む力でもあります。
 つまり「森」とは母と一体となった子の安寧の閉塞空間かつ、いずれ訪れる親離れの際には疎んずべき癒着になる危険性を秘めているのです。
 したがって、『妖精の死』で描かれる妖精のすみ家からの巣離れは母と離れて自我を得て閉塞から抜け出した証です。少女が通過儀礼を経て成長したということなのですから。
 昭乃さんはしかし、この自立を母との別れとして悲劇的に歌い上げました。これは実に奇妙です。
 さらに奇妙なのは、この曲の次に『人間の子供』ときて『Little Edie』でアルバムが閉じてしまうところです。なんと一人の人間が自立した先の物語がふつりと途切れ、再度母性による庇護に回帰してしまうのです。か弱く小さき子供を助ける母性、そして、母の腕の中で生まれておめでとう。

『そらの庭』は一貫した昭乃さんの循環、慈愛、庇護等、母性への関心と、自我確立と切断を迫る父性への無関心さを浮き彫りにしたアルバムだと捉えることができるのです。


 母性への関心と父性への無関心の話として興味深いのは『降るプラチナ』が作られた経緯です。

 子供の頃の私の憧れは父でした。8歳の時、父が家に帰らなくなり、その頃から私は曲を書き始めました。父が出ていったのは自分のせいだと、子供はどこかで思ってしまうものですが、去年の初夏、すべてを浄化し、許し、癒してくれるような美しい光景に出会いました。そして浮かんだのがこの曲です。
『降るプラチナ』曲解説より)

 単純に父親の喪失を父性の欠如と見てみます。率いてくれる憧れのパパを失った昭乃さんはその悲しみを埋めるように創作活動を始めました。
 父性の欠如と罪の意識を抱えた幼い子供の想いは曲作りにぶつけることで昇華を試みますが、結果的に救いとなったのは何か。
 世界のすべてに等しく愛を降り注ぎ許してくれるプラチナ──まさに強烈な母性なのです。罪に対して罰を要請することなく、包み込んでそれだけで存在を祝福してくれる母性だからこそ降るプラチナは昭乃さんを浄化しえました。
 父性の欠如が父性で補われるのではなく、グレートマザーによって救われてしまったわけです。
 したがって昭乃さんの拠り所が母性にあって父性にないのは当然のことであり、癒し許してくれる母と別れ自立することが悲劇になるのです。


そして現在へ

 昭乃さんの書く歌詞が時代とともに変化を見せたことは既に記しました。同様に母性性も昔と今とでは違った様子を見せています。最後にこのことを解体しようと思います。

『そらの庭』で目立つのはその執拗な小さき者への視線です。『仔猫の心臓』『人間の子供』『Little Edie』は言うまでもなく小さき者への温かく切実な想いがつづられており、『OMATSURI』『妖精の死』も少女を見つめ、『アトムの光』も真っ先に子供の心配をする妊婦のストーリーです。
 昭乃さんはそうした慈愛の視線を小さき者へと向けてきました。小さき者のか弱い声を聞き逃さずに掬い出し、弱くても息づいている者たちの痛みにいつも寄り添ってきました。
 例えば今わの際の仔猫、例えばひとりきりで耐えてしまう子供に対して。つまり昭乃さんの母性はこのとき彼ら小さき者を守る機能として働いていたということです。

 しかしながら現在の昭乃さんは特別小さき者を象徴的に扱わない傾向にあります。
 制作年が2005年以前である『花かんむり』『ポーリーヌ、ポーリーヌ』『ガリレオの夜』を除けば、『ソラノスフィア』『Red/Blue Planet』で昭乃さんの作った歌詞の中に「子」という意味語句が出現するのは『Fly me above』『ノルブリンカ』のみです。しかもその二曲でも特別子供に焦点が当てられているわけではありません。
『そらの庭』のときはあんなに関心を抱いていたにもかかわらず、近年昭乃さんは殊更小さき者を取り上げた曲を作っていないのです。*1

 ではその慈愛の母性は失われてしまったかというとそうではありません。
 変化したのは小さき者を慈しむ心そのものではなく、その母性を振りまく対象範囲が実際的に小柄なものからすべてのものへと拡大したところにあります。
 すべてのものは小さいけれどもただ生きているそして包み込まれるべきだ、と歌うようになったのです。
 例えば太陽の塔太陽の塔は実際、人間から見たらずいぶん大きいです。人から見上げた基準ではなく、太陽の塔よりも概念的にさらに大きな存在として太陽の塔を「小さい」と形容するのがこの曲であるということです。

 やがてすべての人に訪れる光
(『Fly me above』より)

 すべての人。特定せずに誰もが等しく持つ孤独。
 昭乃さんはもとよりその愛を差しのべる対象を小さき者に限定していません。すべてを浄化し救済する概念を持っていました。
 ですが以前は弱くてすぐに消えてしまうようなものの声に早急に耳を傾ける必要があると感じていたのでしょう。そうして段々対象範囲を広げていって、孤独で繊細な者たちすべてに穏やかな愛を捧げるようになったのが近年の昭乃さんの特徴であると言えます。

 また、単純に技術力の向上と捉えることもできるかもしれません。
 妊婦や初恋の少女といったステレオタイプに母性を仮託しなくても全生命を包み込むことは可能です。時代性や社会性を越えた日常神秘的な昭乃さんの音楽は、そういった俗世的なステレオタイプにそぐわなくなったようにも見えます。
 なにしろ今の昭乃さんは、「すべて」に愛を届け「すべて」に向かっていき「すべて」のもとには何物も同じであるという、壮大な母性愛に包まれる世界を『一切へ』の一言でまとめきる圧倒的技術を誇っているのですから。


 もうひとつ、母性性の変化として特筆すべきことがあります。「破壊と再生」です。
 直進ではなく循環に表れるのが母性であると前述しましたが、終わりから始まりに繋がる輪廻転生観は時代を通し一貫して昭乃さんの思想を成しています。

 それは消えては生まれる命の歌声
(『風と鳥と空~reincarnation~』より)

 しかし昔は「滅びと再生」に留まっていて、真っ向から「破壊」を描くことはありませんでした。
 なぜなら単なる「滅び」であれば新しい始まりを思い描けても、「破壊」になるとそれ自体がつらくて耐えきれないことになるからです。「破壊」されないように、恐る恐る、 繊細に扱う必要があったのです。
『美しい星』『鉱石ラジオ』でも描写されるのは壊れたら二度と再生しない無情でした。

 今は淋しいの? ラジオ 壊れても直してもらえない
(『鉱石ラジオ』より)

 しかし壊れてもまた新たなものを構築していけるとわかった今、昭乃さんはやっと「破壊」そのものに目を向けられるようになりました。これも特別に小さき者を取り上げない理由のひとつでもあるのでしょう。

 New World 壊される扉
(『New World』より)

『New World』は昭乃さんが悲痛な閉塞からの開放を果たす象徴的な曲であるとは前に触れました。昭乃さんの歌詞に「扉」「窓」が頻出するのは昭乃さんの「内向きかつ前向き」の性質からくるのではないかとも推測しました。
 よって外へ出るのは痛みを伴うからと閉じこもっていた魂が外へ開放することを「扉を壊す」という歌詞で表現するのは実に興味深いことです。
 それまでずっと、壊れないように扉のなかで息をひそめていたのです。いつか開放する日を夢見て。

 壊れた心浸されてく
(『ターミナル』より)

 これが開放後の昭乃さんの世界です。壊してはいけないとは言わない。
 壊れたあとにどう再生していくかが重要なのです。母性は常に古きものが死に新しく生まれ変わり循環していくシステムなのだから。

 昭乃さんは母性の体現者です。しかも強烈なまでにまっすぐな。それによって昭乃さん自身が救済され、それを歌を通して伝えることで、聴き手を包み込んでいます。
 けして変わらぬ根底のその思想が新居昭乃という存在に宿っていて、そして日々変化しています。
 それは曲を作り始めたときから──父親がいなくなったときから始まり、昭乃さんが歌いつづける限りとめどなく溢れ出ていくものなのかもしれません。

*1:注・『リトルピアノ・プラス』リリース後、そういえば『サンクチュアリ・アリス』は「いいコ」を描いていたなあと思い出しました。この曲のコンセプトは昭乃さん考案ではないことを言い訳にしておきます