続・NTRを考えてみる~なぜ敗北感を性的興奮に変換できるのか?~
前回の続き。
koorusuna.hatenablog.jp
前回の内容は「快楽による支配こそがエロである、と強固に学んでおり興奮するにもかかわらず、けして自分は快楽支配者にはなれないのだと感ずる男こそがNTRに惹かれてしまうんじゃないか」という仮説をもとに、なぜNTR愛好家は敗北感を欲するのかを考察し、自傷としてのNTRと不安への回答としてのNTRを掘り下げた。
その上で「男性にリードを取ってほしい」と考える女性と「女性の意思を尊重しなければ」と考える男性間でのダブルコンティンジェンシーがNTRの基盤にあるという社会背景も示した。
NTRの世界観に対して、「女性観に偏りがある」とか「恋愛は強い男>女>弱い男という単純な世界観に当てはまらない」とかそんなことを言っても意味がない。
問題はなぜ彼らは単純な世界観を持つに至ったのか、その世界観とはどのようなものであるかだと思ったからだ。
それでも前回はNTR愛好家を貶めないように語ろうとするあまりNTRの核心を突けなかった心残りがある。
だから「わかりませんが、こうかな?」とおそるおそる整理する文章になった。
だが今回は本丸に直撃するので奥に分け入るように語ったし、そのため前回より社会背景に突っ込んでいる。
前回もちらほらNTR愛好家による(熱い)反応をいただいたのでNTR好きの人は自己探求的なんじゃないかという実感が寄せているのですが、いやなんか違うなと思ったらまたコメントとか拍手欄とかでご指摘ください。
ちなみに前回同様ここでの「NTR愛好家」は寝取られ男にいたく感情移入する男性を指す。
宮田眞砂『夢の国から目覚めても』感想 ~これが私の百合スタンスです。~
『MIU404』は『リーガルハイ』の現実追随主義を乗り越えにいく -「正義」の時代変遷-
『リーガルハイ』と『MIU404』は前面にはそれと匂わせないけれども「正義」に関して同じテーマを扱っています。
直接的に意識したわけではないかもしれませんが、結果的に『MIU404』は『リーガルハイ』のアンチテーゼとなっています。
弁護士ドラマ『リーガルハイ』第一期の放送は2012年4月~、第二期は2013年10月~です。
警察ドラマ『MIU404』は2020年6月~。
どちらも正義に関わる職業です。
二作の「正義」観の違いには政治的な時代の移り変わりが現れています。
二作の時代で「現実」観が変わったからです。
2000年代から積み重なり、花開いた2010年代前半の「現実」観と、それを客観視できるようになってきた2020年代初頭の「現実」観は異なって当然です。
では具体的に異なる部分はどこか。
『リーガルハイ』は厳しい「現実」を前に、それがあることを肯定して「正義」を相対化し懐疑しているのに対し、『MIU404』は厳しい「現実」に流されまいと踏みとどまり、「正義」とは何かを深堀りしてひとつ回答を探っているところです。
- ●両作の比較
- 『リーガルハイ』と新自由主義
- 『MIU404』の現実追随主義批判
- ●現実と正義の距離について両作比較
- 「現実を受容する」とは真実の曖昧さを受け入れることか、知りうる真実に向き合うことか
- 「正義の暴走」
- 「現実(追随)主義VS.理想主義=正義」と「現実主義者(+正義+理想主義)VS.現実追随主義」
- ●時代背景
ネオリベラリズムと『進撃の巨人』 -新自由主義下の自由と絶望と希望-
『進撃の巨人』32巻時点の記事です。
32巻までのネタバレがあります。33巻収録分については大きなネタバレはありませんが踏まえてはいます。
koorusuna.hatenablog.jp
前回記事の続きです。
前回はももクロを分析しましたが、今回は主に『進撃の巨人』について語ります。
先の記事で『進撃の巨人』にあるのは強烈な現状肯定だと述べました。
大きな理不尽を前に個人は抵抗すべくもないからです。
受け入れるしかないのなら、せめて傍にある幸福を慰みにするしかありません。
この現状肯定はNTRにも垣間見えます。
どうせ現状を変えることなどできない、上に楯突くことも学んでいない己は使い捨てられて終わる。
そんな諦念がいっそが興奮に変わってしまうのがNTRです。興奮は残酷さを麻痺させてくれます。(NTRを考えてみる - 青い月のためいき)
NTR世界は強者男性/弱者男性という二元的な男性観しか持っていません。
ネオリベラリズムは、弱肉強食という単純すぎて理解しやすい世界の理屈を作り出すことに成功しました。
勝ち組/負け組の二元論の世界で、弱者の足場はますます不安定になっていきます。