青い月のためいき

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冲方丁 ぶらりずむ黙契録 2019年8月23日ブログについて

towubukata.blogspot.com


話の流れで出してしまった、従軍慰安婦像への語り。これはまずいですね。
なにがって、語り口がまずい。
なので、今記事ではなにがどう駄目なのか深掘りするアプローチとして、「この文のこの部分を読んだら、どういう感情を喚起させられるか」を読み解くことにしました。


mitsuyablog.blog.fc2.com


「この文のこの部分のどういう点がどういったふうに問題であるか」は上ブログに詳しいです。
私が付け足すことはなにもない。
ならば私にできるのは、私のブログらしく、冲方丁がなにを演出しているか、どういう手つきでこの問題に触れてしまっているかの話をすることです。
そのためこちらだけ読んでも重箱の隅をつついているようにしか見えないかもしれません。先に上ブログを読んでから戻ってきてもらいたい。(まさか初めて三津屋さんのブログを引用するのがファフナー関係ないこんな形でだとは思ってなかったな)

これは冲方丁のブログが問題だと感じる客がここにも一人いるのだ、という表明を目的とした記事です。
そのため他の方の言ってることの繰り返しにはなりますがこういう批判は少ないよりはあったほうがいい。(一部作者ファンと作品ファンがやってるだけで別にあんまり表沙汰になってないしね……)


なんであれ日中朝台は、バラバラにされたのだが、ここに来て中が巻き返しをはかった。
まず、アメリカにどっしり根を下ろされた、太平洋進出の障壁である「日」に焦点を当て、理性と感情の全てに訴えて、「この壁を破壊しろ」という政治的メッセージを、自分たちの政治的利益になるようにした。
反日を唱えれば選挙の票が稼げる仕組み」を作ったのも、その一つだ。

どこまで意図的であったかはさておき、結果的にそういうことになった。
太平洋側に出る際の巨大な「蓋」である日本列島に、民衆の破壊的な気分を一直線に向けるための、文脈作りをとことんやったのだ。

韓国における、「慰安婦」の「少女」の「像」などは、そのバリエーションである。
個人的には、なんだその被害者を無視したポルノ表現は、と別の憤りを感じるのだが、効果絶大であることは確かだ。こんな表現を目にしたら、たいていの人間は感情的になる。
「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」
とか、
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」
などとは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。「自分はそんな悲劇をとことん否定するまっとうな人間です」と言い放つ以外に、選択肢がなくなるのだ。並のコマーシャルよりよっぽどよくできている。
そして、気づけばよくわからない感情的な騒ぎに巻き込まれる。
「言葉による誘導装置」としては、古今東西まれに見る完成度だ。誰がこの「慰安婦」「少女」「像」を合体させるアイディアを思いついたかはともかく、人心刺激ワードとして歴史に残るだろう。
ぶらりずむ黙契録

問題の箇所。

まず最初に批判しなければならないのは、「アジア分断の危機への警鐘」という全体構造の中で「従軍慰安婦像」を分断ツールのひとつに過ぎない、と切り捨てたことです。
性暴力被害の訴えを大局に操られた単なる装置であると言ってしまったことです。
被害者たちの切実な訴えなど見えていない、もしくは無視してもよいと見なしている。

本来絶対に無視してもよいような事柄ではない。そういう視点や留保が一切ありません。
ここは強調してもしすぎることはないかな、と思ったので前段として一応。


個人的には、なんだその被害者を無視したポルノ表現は、と別の憤りを感じる

こんな表現を目にしたら、たいていの人間は感情的になる。
「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」
とか、
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」
などとは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。

ポルノ表現。
「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」。
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」。
冲方氏のブログの中でいちばん過激な言葉選びはこの三点です。
ですがここは誰がどう見てもまずいところだと思うし他でも指摘されているので、一旦置いておきます。
ここをさておくことによって、問題の本質を見えやすくするためです。

問題にすべきは、冲方丁は自身の「言葉による誘導装置」によってなにを誘導しているのか、です。
冲方氏の言葉こそ巧みな誘導装置である、という視点が持てれば、なにがまずいのか明瞭になるかもしれない期待から読み解きます。



1.被害者を無視したポルノ表現。

慰安婦」の「少女」の「像」は被害者を無視している。


典型的な口封じですね。
「当事者は大事にされることを望んでいない、なのに外野が被害者の被害者性だけを主張のために利用している」という論法。
大事にさせたがる輩は被害者のことを本当には思いやっていない、はずだ。

これだけで、「大事にさせたがる人」をすべて「被害者を本当には思いやっていない人」としてイコールでひとまとめにすることができます。

「性暴力被害者は政治的に利用されることを望んでなどいないはずだ」、という筆者の願望が滲んでいる、ただそれだけの文章です。これは。被害者の声を聞いて出てきた言葉だとは言えません。


最初にこの文を置くことで、像における被害者の訴えを表す役割をきれいに削除できます。
慰安婦像を推進する人にレッテルを貼ることもできます。
慰安婦像を否定する側こそ「被害者を無視し」ている可能性に目隠ししてくれます。
一石三鳥。


2.こんな表現を目にしたら、たいていの人間は感情的になる。
「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。
気づけばよくわからない感情的な騒ぎに巻き込まれる。


ここに見られるのは、「感情」の主体性の骨抜きと、被害の矮小化です。

さすがは作家、上手いものです。
「気分を/自動的に/刺激され」と言葉を並べればたちまち慰安婦像を作った側の怒りや願いを無化できる。
「そんなことは許せない」という声を、主体を持った個人の理性としては捉えず、受動的な衆愚と断定する。
慰安婦像は反射的な気分を引き出す装置に過ぎないと、そう言って片づけてしまえるのです。



仮に、ほんとうに慰安婦像が単に「許せない」という「感情」を掻き立てる、日韓を分断するためのコマーシャルだとしましょう。

たとえそうだとしても、現実の被害者の声をあたかも大局に比して些末なことであるかのような手つきで扱ってしまうのは、暴力的だと言うほかありません。

恐らくここが冲方氏と批判側の決定的な認識の相違だと思います。


慰安婦像は「被害者の声」ではない、「被害者の声にかこつけた、日本への憎悪を煽る装置」である。
冲方氏はそう言いたいのでしょう。

しかし慰安婦像が、今いる・かつていた被害者の声(被害への怒りや、過去を忘れないでほしいといった願いや、これ以上悲惨なことが起こらないでほしいという祈り)の象徴であることもまた事実なのです。

この事実をあたかも無いものであるかのように語ってはいけない。
この点が批判されているのです。



3.「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」
とか、
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」
などとは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。

最後にやっぱり避けては通れないこの部分。
接続助詞を太字にすることで注目すべき部分を明確にしました。



「性暴力被害なんて大したことない」とは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。

これならまだ文章として収まりがいいです。
性暴力に鈍感な誰かを想定したのだと納得はします。(冷静ぶって怒りを封殺する態度への批判は絶対にするが)

しかし冲方氏の設定した「まっとうじゃない人間」は、単に加害者でしかない。
わざと露悪表現を用意したことくらい誰でもわかります。
ただ、なぜ露悪する必要があったのか。

「ほしい!」「見たい!」とは言えない→から→「許せない」と公言する

「ほしい!」「見たい!」と言えないこと。これは「許せない」と表明する根拠としてあまりにも薄弱です。論理的にかなり飛躍してしまいます。*1

強引な論理的飛躍に目をつぶってでもこの言い回しを採用したことで生まれた"演出"はなんなのか。

それは性暴力に反対する「まっとうな人間」像に揺らぎを付与することです。
「まっとうな人間」の欺瞞を誇張すること。
「まっとうな人間」がどれだけ欺瞞的で、どれだけ感情的な騒ぎに巻き込まれているだけの刺激反応出力機であるかを、暗に示すことです。

「許せない」と公言する、ひとりひとり考えを持っているはずの人間を、「今は加害者への憤りを言い放つ人だって、時場所場合が変わればあるいは加害者目線を持っていただろう(あえて極論言ってみたよ>_<)、それほどに脆く踊らされた存在なのだ」と見なす効果を、露悪は発揮しています。

個人の感情を、「単なる反応的気分」に落としこむ。
この侮辱を無視して批判はできません。
あたかも感情が劣位、冷静さが優位であるかのように印象操作し、自分は冷静な判断を下したつもりで他人を自分の作った型に当てはめている。


今回のブログの文章は、政治的利用側面のみを強調することによって、慰安婦像の被害申告や平和記念像的シンボル性を覆い隠し、現実に起きていた、今なおつづく問題を些事だと切り捨てることに貢献しています。
作家という社会的立場から「切り捨ててもいいのだ」と「喧伝」することで、性暴力被害を矮小化する空気を再生産しているのです。
矮小化なんてしてはいけないよね、とエクスキューズすら入れなかった、この手つきを私は批判しています。



なんていうか、どういう思想を持っていようとも最大に批判したいことは、この表現を表に出してはいけなかったという感覚を持てなかったことだよね。
さすがに好きなものつくってる制作者のひとりがそれ出しちゃったらファンとしては批判するしかないからさあ。自分が作者と作品切り離せるタイプでよかったなとは思うがそれは作品を人質にされて作者をなあなあに免罪する人間じゃなくてよかったなって意味だよ。
まさか二記事連続で冲方丁ブログに言及することになるとは思わなかったな。

*1:"「性暴力なんて大したことない」とは言えない→から→「許せない」と公言する"の論理構成と比較してみたら、本文の根拠と結論が結びつかなさがわかりやすいかと思います。