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【新居昭乃歌詞分析2016】補論『リトルピアノ・プラス』に寄せて

koorusuna.hatenablog.jp

「歌詞分析 2016」の稿は『リトルピアノ・プラス』リリース前にほぼ書き終えていました。そしてアルバム入手後、間違いなくこれは昭乃さんの30年の歴史の流れの中にぴたりと位置づけられるアルバムだと確信しました。
 なので論の最後に『リトルピアノ・プラス』を盛り込んでも自然に繋げられるだろうと思いましたが、考えた結果、あえて補論として最後に別の項目を立てることにしました。


 理由のひとつは本論で立てた最後の問いのアンサーがまさに『リトルピアノ・プラス』であると思ったからです。新居昭乃が今後どうなっていくか。2012年のアルバムまでに示唆されていたことの答えがこのアルバムにあります。このアルバム全体を検討することで答えをひもといていこうと判断したのです。
 もうひとつは、その答えに辿り着くにあたって別のアプローチができると思ったからです。では早速見ていきましょう。

 そのアプローチとは、アルバム一曲目の再考察です。
懐かしい未来』を除いてベスト盤を含む全11枚のアルバムの最初を飾る11曲はそれぞれどういうテーマを持つ曲でしょうか。大方二種類に分けられます。

空の森:『星の雨』
そらの庭:『Reincarnation』
降るプラチナ:スプートニク
鉱石ラジオ:『Zincite Trance』
RGB:『昼の月』
エデン:『New World』
sora no uta『サリーのビー玉』
ソラノスフィア:『Haleakalã』
Red Planet:『ハロー、ハロー』
Blue Planet:『花かんむり』
リトルピアノ・プラス:『リトルピアノ』

 前稿までにもちらと述べましたが、昭乃さんはなんらかの「はじまり」、世界に対して開けていく自己、をテーマにした曲をアルバム一曲目に冠することが多いです。『星の雨』『Reincarnation』『Zincite Trance』『昼の月』『New World』『Haleakalã』『ハロー、ハロー』がそうです。
『Zincite Trance』は昭乃さんがラジオ放送していた頃のオープニング曲で、これもラジオの「はじまり」の曲です。
「恋をすると細胞が全部生まれ変わるよう」と表現した昭乃さんにおいて、少女の恋の「はじまり」を表している『昼の月』がアルバム一曲目に置かれるのも自然かと思われます。
 残るスプートニク』『サリーのビー玉』『花かんむり』『リトルピアノ』に共通するのは「孤独」です。
 世界に背を向け閉じこもり、自己の内部で閉塞していく孤独。
 その孤独にそっと語りかけ寄り添う存在がいるらしいのも実に昭乃さんらしい曲たちと言えるでしょう。

 つまりアルバム一曲目はそれぞれでまさに昭乃さんの永遠のテーマ「内向きかつ前向き」を雄弁に物語っているのです。

 では改めて発表順にアルバム一曲目を検討してみます。
 生まれたばかりの孤独と痛みに満ちたはじまりを歌う『星の雨』、転生のはじまりを「荒野」と表現した『Reincarnation』スプートニク2号に搭乗した小さき者の孤独を悲痛に叫ぶスプートニク、恋のはじまりの日に「いつか痛みを知るだろう」と呟く『昼の月』
 本論のほうで転換点が『New World』だと言いました。「痛みから光へ」。革新的現象です。
 そこから昭乃さんは痛みの伴わない「光」を歌詞に取り入れる曲、『Haleakalã』『ハロー、 ハロー』を発表しつづけていきます。
 ところが『New World』の直後にも悲痛な閉塞と孤独を描く『サリーのビー玉』を収録していますし、『ハロー、ハロー』の陰で王様の孤独『花かんむり』を大人しいピアノアレンジで同時リリースしました。
『ソラノスフィア』の陰陽高低差激しい曲目の数々を経て、『Red Planet』『Blue Planet』同時発売はそんな昭乃さんのアンビバレントな心情を表しているように思われます。
『ハロー、ハロー』のように世界への信頼感を得て穏やかに生きる喜びを歌える『Red Planet』と、『花かんむり』のように結局は昔から変わらぬ孤独感を手放せない『Blue Planet』。
 この繊細な揺れ動きは一体なんなのでしょうか。痛みから光へ飛び出して、あんなに渇望した人とのつながりを回復して、どうしてまだ孤独を歌い続けるのか。

 その答えがこのアルバム『リトルピアノ・プラス』である、と、私は声高に言いたいのです。


『リトルピアノ』もまた、昭乃さんの孤独にずっと寄り添ってきたピアノの曲であり、内向きのアルバム一曲目でしょう。
 そして続く『Stay』を聴いてようやくわかりました。

 どんなに今が幸せだと感じても、その瞬間がどんなに素晴らしくても、それは過ぎ去って行くもの。それでも、今この世界を永遠に留めてほしい、と思いたくなることが人生にはありますね。
ライナーノートより)

 光を切望してきた過去、痛みから光へ開放される『New World』、そして光舞う朝を素直に清々しく享受できた『Haleakalã』『ハロー、ハロー』
 それを「どうか留めてくれ」と『Stay』でこいねがうのです。

 どうして孤独を歌い続けるか。簡単でした。春宵一刻。人とつながれても、世界を信頼できても、それは移ろっていってしまう儚い夢物語。
 むしろ一旦はつながれたからこそ、終わりをいっそう恐れてしまうのです。根本のところではまったく拭いきれていなかったその事実は愕然とするほどです。
 三曲目『Neverland』も同様に先にある終焉を絶望する恋のはじまり。どことなく『Adésso e Fortuna~炎と永遠~』を彷彿とさせる歌ですが、歌詞を並べるとまた面白いです。

 今夜貴方は私を優しく包んでくれた けれど朝の陽に照らしても黒い瞳は私にそのままきらめくの
(『Adésso e Fortuna~炎と永遠~』より)

 もう少しここにいましょう この夢が覚めるまではふたり
(『Neverland』より)

 どちらも夜の世界では一緒にいられるのに朝の世界では離れてしまうという筋です。
 しかし些細なニュアンスながら、『Adésso e Fortuna~炎と永遠~』は二者の間に埋めがたい断絶があり、『Neverland』は夜の世界で未だつながっていられる二者の糸を感じます。その世界では涙を拭ってもらうこともできるし、灰色の空のもとで星を見つけることもできます。
 これはつながれないからこその絶望を描いた曲と、つながれたからこその絶望を描く曲の差ではないでしょうか。
 そして今現在の昭乃さんは、絶望をただ嘆くばかりではなく、絶望の中で星を掲げるような、一筋の希望の見つけ方を知っています。これこそが30年の軌跡を端的に表しているのではないでしょうか。

 人とつながりたい。世界に開放したい。昭乃さんはその想いをずっと歌詞につづってきました。そうしてやがてつながれるようになり、開放できるようになりました。しかし同時につながれない閉塞も歌い続けた。
『リトルピアノ・プラス』の神髄は「人とつながったあと、世界に開けたそのあとどうするか」です。

 いつものような「孤独にそっと寄り添うもの」がテーマの『リトルピアノ』で始まり、「つながってもいずれ離れる絶望」を歌う『Stay』『Neverland』と続きます。
「どうせそうなるなら溶け合おう」とひとつの解決策を出すのがサンクチュアリ・アリス』
 この場合の自他曖昧化は、昭乃さんが今まで描いてきたような、救済としての母性性を意味しえません。小さき者が大いなる母に取り込まれることで救済を図るのが昭乃さんでしたが、サンクチュアリ・アリス』では弱き者同士の同化がある種の悲劇、メリーバッドエンドとして描かれます。
 母性による同化をこんなにも否定的に描写した曲は提供曲含め他にありません。これは図らずも「つながりたい。つながれば救われるはずである」という従来の昭乃さんの思想へのカウンターとなっています。
 どうしてカウンターが現れたかというと、当然、実際につながれるようになったからです。

 しかし絶望や悲劇では終わりません。何度も繰り返しますが、これが昭乃さんの底力なのです。
『Fairy Song』では「つながりが消えてもまた生まれる」ことを語り、『羽よ背中に』『New World』以降の開けた世界の地続き、「つながれることの待望と喜び」を描きます。一旦つながりそしてまた離れたあともその手で触れ合えるとこの二曲が示します。

 しかしここでまたアルバムは転換します。『一切へ』は個が全(一切)へ取り込まれてゆく曲です。つながりが消えても何度も触れ直せばいい、を結論にせず、再度個が溶け全に帰していくことを肯定します。ただここではそのことを、母体から分かたれた個の痛みからの救済としてではなく、一種の到達点、自ら向かっていくものとして描いているのが特徴です。
 そして『冬の庭園』のひっそりとした孤独。触れ合えるばかりでない孤独を誰もいない庭の美しさに寄せて淡々と語る姿は変わらぬ閉塞を見せてくれます。

『蒼玉節』もまた「人とつながったあと、世界に開けたそのあとどうするか」のひとつの答えとして暗示的です。

 灯りを落とそう あなたの星が見えるだろう
(『蒼玉節』より)

 昭乃さんは今までまばゆい光を希望として描いてきました。それは孤独の痛みを癒してくれる救済だからです。だからこそ「空」同様に「光」もかなりの頻出ワードであるわけです。『Stay』が光を留めたいと言っているのはそういう理由です。
 しかし『蒼玉節』はダイレクトに「灯りを落とそう」と推奨します。灯りを消してひっそりと孤独になるからこそ見えるようになる星を見つけたからです。
 その光は今までのようにちっぽけな自己含めたすべてを救ってくれる大きくて優しい存在ではありません。自己の内側にある、自分ひとりを少しだけ幸せにするほのかな光です。
 つまり『蒼玉節』は孤独を受け入れたがゆえに孤独の多様化を果たしえたのです。単に孤独を刻み込む、あるいは孤独を憂いつながりたいと願うのみではなくなりました。孤独になるから満ち足りることもあるのです。

『Lost Area』もいつもの宇宙の孤独とはちょっとだけ趣が違います。
『三日月の寝台』『エウロパの氷』『スプートニク』『HAYABUSA』などに見る届かぬ絶望は同じですが、この曲にあるのは「つながっていたのに今はもうない」という種類の絶望です。人とつながったあと、そして離れたあとの世界。

 Here Lost Area その先の光を胸に描いて
(『Lost Area』より)

 幸せはいつまでも続かない。手に入れた希望の光の朝を留めおくことがかなわない。
 何度も孤独に絶望しなければならないのなら。穏やかな癒しやきらめく喜びを胸に、自分で自分を救えるだけの新たな希望を持って、孤独に持ちこたえるしかないのです。それが弱き者の強さです。

 昭乃さんは今後も孤独の歌を歌い続けるでしょう。ただ光に焦がれていた頃よりもむしろ、温もりを知ってからのほうが深く多様な孤独と切望を見せてくれるでしょう。
 その一端がこのアルバムだと私は思うのです。
 それでも孤独に寄り添い傷を癒え、つながりを何度も巡らせ、痛みも恐怖も受け入れて、またその先の光を掲げることができる。
 そんな試行錯誤の30年を締めるのは『金色の目 premiere version』。歌いつげるのは「あなたとつながれてありがとう」です。
 つながりたいと願って歌ってきて気がついたら沢山の人とのつながりができていた。そんな30年の歩みが込められているのではないでしょうか。


 歌詞カードの最後のページにはこう書かれています。

 私をここまで導いてくださったすべての方々、これまでに出会ったすべてのミュージシャン、スタッフ、友達みんな、そして私の音楽を大事に聞いてくださるみなさんへ、心からの感謝をこめて。
(『リトルピアノ・プラス』歌詞カードより)

 安寧から引き裂かれて孤独と閉塞が痛ましい。
 人とつながりたい。世界に開放したい。
 優しい世界が孤独を包んでくれる。
 それによって世界へ開放されていく。
 人とつながれて嬉しい。
 つながりが途切れてしまうことが悲しい。根深い孤独は取り除けない。
 あんなに切望した人とつながれたあとの世界は、蓋を開けてみると、手放しの幸福だけを訪れさせはしませんでした。それがこのアルバムの物語った世界でした。
 それでも昭乃さんは人と人が触れあえることのよろこびを感謝します。何度悲しんでも、たとえつながれなくなっても。
 ただただ沈んでいかない昭乃さんだから、俗世間に留まっていられるのだろうし、我々も自らの孤独に寄り添ってくれる昭乃さんの音楽を大事にしているのだろうと思います。
 こうして『リトルピアノ・プラス』もまた私の大事なアルバムのひとつに数えられることとなりました。
 大好きな昭乃さんへ、愛を込めて。 一ファンより