青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとかを考えるオタク

『シムーン』全26話 読解・解釈まとめ

頭の整理のために書く、暫定解釈です。

目次

  • 聖なるもの⇔穢れ
  • 25話の奈落の底
  • アムリアとネヴィリルの失敗
  • アーエルとネヴィリルの物語とは
  • モリナスの物語
  • ドミヌーラとリモネの物語
  • シムーン』になぜ性が要請されたのか
  • それぞれの物語
    • パライエッタとネヴィリル
    • カイムとアルティ
    • ロードレアモンとマミーナ
    • ユン
    • フロエ
  • シムーン』におけるヘテロノーマティビティ・ジェンダー規範批評
続きを読む

『かぐや様は告らせたい』15巻 男女のあり方を探る恋愛

アニメ化前の1巻無料キャンペーンで読んでまんまとハマりました。『かぐや様は告らせたい』。

ブコメが好きなんです。
そもそも、恋愛まんがが、好き。


なぜ中でもラブコメが好きかといえば、キャラクターの個性が豊かだからです。
もっと言うと、恋愛まんがが好きなのに、たいていの異性恋愛まんがは「男であること」「女であること」が第一義的に重要視されてしまうためあまり楽しめない、けれどラブコメであれば「男/女であること」よりもキャラの個性が前面に出されるので邪念なく楽しむことができるから、です。(長い)

壁ドンとか鉄棒告白とかもういい!
キャラがわちゃわちゃとかわいければそれでいい!
わちゃわちゃいちゃいちゃ笑わせてくれ!


しかし、しかしです。ラブコメにもトラップがある。
私がラブコメでいちばん悲しいこと。

「あんなに個性的だったキャラクターが、恋愛に染まるにつれてジェンダーロールを踏襲し個性が薄まってしまう」こと──……。

続きを読む

『聖☆高校生』百合の第一原則を死守した男女セックス

※引用画像に男女の微エロがあります。(元作品は成人指定されてません)

koorusuna.hatenablog.jp

上記記事をupしてから書こう書こうとしていたんですが延びに延びてしまいました。
百合と男の究極関係の話です。

続きを読む

冲方丁 ぶらりずむ黙契録 2019年8月23日ブログについて

towubukata.blogspot.com


話の流れで出してしまった、従軍慰安婦像への語り。これはまずいですね。
なにがって、語り口がまずい。
なので、今記事ではなにがどう駄目なのか深掘りするアプローチとして、「この文のこの部分を読んだら、どういう感情を喚起させられるか」を読み解くことにしました。


mitsuyablog.blog.fc2.com


「この文のこの部分のどういう点がどういったふうに問題であるか」は上ブログに詳しいです。
私が付け足すことはなにもない。
ならば私にできるのは、私のブログらしく、冲方丁がなにを演出しているか、どういう手つきでこの問題に触れてしまっているかの話をすることです。
そのためこちらだけ読んでも重箱の隅をつついているようにしか見えないかもしれません。先に上ブログを読んでから戻ってきてもらいたい。(まさか初めて三津屋さんのブログを引用するのがファフナー関係ないこんな形でだとは思ってなかったな)

これは冲方丁のブログが問題だと感じる客がここにも一人いるのだ、という表明を目的とした記事です。
そのため他の方の言ってることの繰り返しにはなりますがこういう批判は少ないよりはあったほうがいい。(一部作者ファンと作品ファンがやってるだけで別にあんまり表沙汰になってないしね……)


なんであれ日中朝台は、バラバラにされたのだが、ここに来て中が巻き返しをはかった。
まず、アメリカにどっしり根を下ろされた、太平洋進出の障壁である「日」に焦点を当て、理性と感情の全てに訴えて、「この壁を破壊しろ」という政治的メッセージを、自分たちの政治的利益になるようにした。
反日を唱えれば選挙の票が稼げる仕組み」を作ったのも、その一つだ。

どこまで意図的であったかはさておき、結果的にそういうことになった。
太平洋側に出る際の巨大な「蓋」である日本列島に、民衆の破壊的な気分を一直線に向けるための、文脈作りをとことんやったのだ。

韓国における、「慰安婦」の「少女」の「像」などは、そのバリエーションである。
個人的には、なんだその被害者を無視したポルノ表現は、と別の憤りを感じるのだが、効果絶大であることは確かだ。こんな表現を目にしたら、たいていの人間は感情的になる。
「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」
とか、
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」
などとは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。「自分はそんな悲劇をとことん否定するまっとうな人間です」と言い放つ以外に、選択肢がなくなるのだ。並のコマーシャルよりよっぽどよくできている。
そして、気づけばよくわからない感情的な騒ぎに巻き込まれる。
「言葉による誘導装置」としては、古今東西まれに見る完成度だ。誰がこの「慰安婦」「少女」「像」を合体させるアイディアを思いついたかはともかく、人心刺激ワードとして歴史に残るだろう。
ぶらりずむ黙契録

問題の箇所。

まず最初に批判しなければならないのは、「アジア分断の危機への警鐘」という全体構造の中で「従軍慰安婦像」を分断ツールのひとつに過ぎない、と切り捨てたことです。
性暴力被害の訴えを大局に操られた単なる装置であると言ってしまったことです。
被害者たちの切実な訴えなど見えていない、もしくは無視してもよいと見なしている。

本来絶対に無視してもよいような事柄ではない。そういう視点や留保が一切ありません。
ここは強調してもしすぎることはないかな、と思ったので前段として一応。


個人的には、なんだその被害者を無視したポルノ表現は、と別の憤りを感じる

こんな表現を目にしたら、たいていの人間は感情的になる。
「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」
とか、
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」
などとは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。

ポルノ表現。
「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」。
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」。
冲方氏のブログの中でいちばん過激な言葉選びはこの三点です。
ですがここは誰がどう見てもまずいところだと思うし他でも指摘されているので、一旦置いておきます。
ここをさておくことによって、問題の本質を見えやすくするためです。

問題にすべきは、冲方丁は自身の「言葉による誘導装置」によってなにを誘導しているのか、です。
冲方氏の言葉こそ巧みな誘導装置である、という視点が持てれば、なにがまずいのか明瞭になるかもしれない期待から読み解きます。



1.被害者を無視したポルノ表現。

慰安婦」の「少女」の「像」は被害者を無視している。


典型的な口封じですね。
「当事者は大事にされることを望んでいない、なのに外野が被害者の被害者性だけを主張のために利用している」という論法。
大事にさせたがる輩は被害者のことを本当には思いやっていない、はずだ。

これだけで、「大事にさせたがる人」をすべて「被害者を本当には思いやっていない人」としてイコールでひとまとめにすることができます。

「性暴力被害者は政治的に利用されることを望んでなどいないはずだ」、という筆者の願望が滲んでいる、ただそれだけの文章です。これは。被害者の声を聞いて出てきた言葉だとは言えません。


最初にこの文を置くことで、像における被害者の訴えを表す役割をきれいに削除できます。
慰安婦像を推進する人にレッテルを貼ることもできます。
慰安婦像を否定する側こそ「被害者を無視し」ている可能性に目隠ししてくれます。
一石三鳥。


2.こんな表現を目にしたら、たいていの人間は感情的になる。
「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。
気づけばよくわからない感情的な騒ぎに巻き込まれる。


ここに見られるのは、「感情」の主体性の骨抜きと、被害の矮小化です。

さすがは作家、上手いものです。
「気分を/自動的に/刺激され」と言葉を並べればたちまち慰安婦像を作った側の怒りや願いを無化できる。
「そんなことは許せない」という声を、主体を持った個人の理性としては捉えず、受動的な衆愚と断定する。
慰安婦像は反射的な気分を引き出す装置に過ぎないと、そう言って片づけてしまえるのです。



仮に、ほんとうに慰安婦像が単に「許せない」という「感情」を掻き立てる、日韓を分断するためのコマーシャルだとしましょう。

たとえそうだとしても、現実の被害者の声をあたかも大局に比して些末なことであるかのような手つきで扱ってしまうのは、暴力的だと言うほかありません。

恐らくここが冲方氏と批判側の決定的な認識の相違だと思います。


慰安婦像は「被害者の声」ではない、「被害者の声にかこつけた、日本への憎悪を煽る装置」である。
冲方氏はそう言いたいのでしょう。

しかし慰安婦像が、今いる・かつていた被害者の声(被害への怒りや、過去を忘れないでほしいといった願いや、これ以上悲惨なことが起こらないでほしいという祈り)の象徴であることもまた事実なのです。

この事実をあたかも無いものであるかのように語ってはいけない。
この点が批判されているのです。



3.「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」
とか、
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」
などとは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。

最後にやっぱり避けては通れないこの部分。
接続助詞を太字にすることで注目すべき部分を明確にしました。



「性暴力被害なんて大したことない」とは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。

これならまだ文章として収まりがいいです。
性暴力に鈍感な誰かを想定したのだと納得はします。(冷静ぶって怒りを封殺する態度への批判は絶対にするが)

しかし冲方氏の設定した「まっとうじゃない人間」は、単に加害者でしかない。
わざと露悪表現を用意したことくらい誰でもわかります。
ただ、なぜ露悪する必要があったのか。

「ほしい!」「見たい!」とは言えない→から→「許せない」と公言する

「ほしい!」「見たい!」と言えないこと。これは「許せない」と表明する根拠としてあまりにも薄弱です。論理的にかなり飛躍してしまいます。*1

強引な論理的飛躍に目をつぶってでもこの言い回しを採用したことで生まれた"演出"はなんなのか。

それは性暴力に反対する「まっとうな人間」像に揺らぎを付与することです。
「まっとうな人間」の欺瞞を誇張すること。
「まっとうな人間」がどれだけ欺瞞的で、どれだけ感情的な騒ぎに巻き込まれているだけの刺激反応出力機であるかを、暗に示すことです。

「許せない」と公言する、ひとりひとり考えを持っているはずの人間を、「今は加害者への憤りを言い放つ人だって、時場所場合が変わればあるいは加害者目線を持っていただろう(あえて極論言ってみたよ>_<)、それほどに脆く踊らされた存在なのだ」と見なす効果を、露悪は発揮しています。

個人の感情を、「単なる反応的気分」に落としこむ。
この侮辱を無視して批判はできません。
あたかも感情が劣位、冷静さが優位であるかのように印象操作し、自分は冷静な判断を下したつもりで他人を自分の作った型に当てはめている。


今回のブログの文章は、政治的利用側面のみを強調することによって、慰安婦像の被害申告や平和記念像的シンボル性を覆い隠し、現実に起きていた、今なおつづく問題を些事だと切り捨てることに貢献しています。
作家という社会的立場から「切り捨ててもいいのだ」と「喧伝」することで、性暴力被害を矮小化する空気を再生産しているのです。
矮小化なんてしてはいけないよね、とエクスキューズすら入れなかった、この手つきを私は批判しています。



なんていうか、どういう思想を持っていようとも最大に批判したいことは、この表現を表に出してはいけなかったという感覚を持てなかったことだよね。
さすがに好きなものつくってる制作者のひとりがそれ出しちゃったらファンとしては批判するしかないからさあ。自分が作者と作品切り離せるタイプでよかったなとは思うがそれは作品を人質にされて作者をなあなあに免罪する人間じゃなくてよかったなって意味だよ。
まさか二記事連続で冲方丁ブログに言及することになるとは思わなかったな。

*1:"「性暴力なんて大したことない」とは言えない→から→「許せない」と公言する"の論理構成と比較してみたら、本文の根拠と結論が結びつかなさがわかりやすいかと思います。

誰かが生きるために誰かが犠牲になる話──2010年代アニメの雑感から『蒼穹のファフナー』に寄せて

最終兵器彼女』『Steins;Gate』『シュタインズ・ゲートゼロ』『魔法少女まどか☆マギカ』『魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語』『雲のむこう、約束の場所』『天気の子』『神無月の巫女』『喰霊-零-』『結城友奈は勇者である』『結城友奈は勇者である-勇者の章-』『selector infected WIXOSS』『ユーリ!!! on ICE』『終末のイゼッタ』『蒼穹のファフナーEXODUS』のネタバレがあります。
前回に引き続き扱う量が多い。色つけますので困ったらそれ目印に避けてください。
現在公開中『天気の子』も容赦なくネタバレします。
また、今記事は蒼穹のファフナーTHE BEYOND』第3話公開時点の記事です。

前回同様のお断りかつ予防線ですが、どうしても扱う範囲の広いテーマになるので、取りこぼしが多いと思います。なるべくヒット作有名作を挙げて考えていきますが基本は私個人が触れてきた作品に沿うため偏ります。


前回記事。
koorusuna.hatenablog.jp


前回のあらすじ。
2019年、今まで世界に対する個人の犠牲を描いてきた作家たちが犠牲の否定を打ち出してきている理由をみっつ整理しました。
国内アニメで犠牲の否定がトレンドになっているのはなぜか。

1.世界情勢が不穏になっているため、絶望で不安を煽られるよりも希望が必要とされている。

2.個の尊重意識が高まり人権が顧みられてきている。全体主義に疑問が呈されはじめている。

3.犠牲アニメの流行と終焉。犠牲肯定の次は必然的にそのアンチテーゼが芽生える。

これをまとめたあと幾原邦彦監督作品の変遷を辿りました。


さて今回の記事は、上記を踏まえて、00年代から10年代のアニメの「誰かが生きるために誰かが犠牲になる話」を、新海誠監督作品を参照しながら整理しつつ、ファフナーを概観したいと思います。



「誰かが生きるために誰かが犠牲になる話」は至るところで散見されます。
選ぶのは、セカイか、キミか。
いちばんの王道はうまいこと両方を救う物語です。

00年代セカイ系とふんわり呼ばれるジャンルゾーンに明るくないのでそのへんの18禁恋愛アドベンチャーゲームライトノベルのあらすじを20作ほど調べたのですが、実際に触れていないので深く言及するのはやめて、ここで取り上げるのは自分が通ったことのある作品だけにとどめておきます。*1

ここらの印象としてはやはり少女の犠牲・主人公の少年の犠牲が強いです。
あるいは最終兵器彼女(アニメ2002)がそうであるように、少年少女の愛が守られるもののそれ以外の人や世界はすべてめちゃくちゃになり、世界を選ぶにせよ少女を選ぶにせよラストは「これ、どーすんの……」という頽廃的な喪失感に包まれ、終わる。

時が経ち、Steins;Gate(原作2009)もまた究極の選択を迫ってきました。ひとりの少女か、もうひとりの別の少女か。
幼なじみまゆりを見殺しにすると徹底した管理社会ディストピアが待ち受けていますし、想い人紅莉栖の死を受け入れると第三次世界大戦が勃発します。
世界の命運という問題で重みづけしつつも、主人公は少女たちの運命にしか目を向けません。大戦で57億の命が失われるかどうかよりもまゆりと紅莉栖どちらを救えばいいのかのほうが大事。それが現実感です。
Steins;Gateの選択は、世界の板挟みになってどちらかを取ることではありませんでした。かといって世界へのへの抵抗でもありません。
世界を騙して、紅莉栖の死を偽装することで両方の少女を助けたのです。
「世界も個人もどちらも救う」王道でありながらなかなかトリッキーに解決しました。
ともあれ、Steins;Gateは頽廃感にノーを突きつけたのです。*2


さてSteins;Gateがアニメ化された2011年、魔法少女まどか☆マギカがありました。
まどマギは少年少女ものではありません。役割はすべて少女で賄われます。だから、数多の少女の犠牲が、ひとりの少女が人柱になったことによって救われました。
Steins;Gateが少女も世界も救う前向きな答えを提示したにもかかわらず、また少女の犠牲に舞い戻る。
けれどまどマギはヒットしました。前回記事で推測したようにそれがトレンドだったのでしょうか。

劇場版魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語』(2013)でほむらはそんなひとりの少女まどかの挺身を救い出し、世界から目を背けました。
まどかすらそんな救済を望んでいないほむらのエゴ。
それは00年代セカイ系ジャンルゾーンの地続きにありながら、その少女救済エンドよりも孤独です(たぶん)。もはやシステムそのものとなった愛しい人にすら叛逆するので。
この作品は全の犠牲になる個の救済をメリーバッドエンドとして描きました。頽廃ではないけれど破滅的で内向き。混沌となった世界を見捨てるのはどうしてもメリバにしかなりえない。それが2013年です。


で、2019年。
『天気の子』がきました。
少年は世界を狂わせてでも少女の救済を選びました。
大人から、「自分が世界を変えたなんて思い上がるな」「元通りになっただけ(だから個人が世界を変えたわけではない)」と示唆されながら、そうなのかもしれないと迷う少年。
しかし少女と邂逅した少年は言います。

「ちがう。僕たちが世界の形を変えてしまったんだ! でも、僕たちは大丈夫」

世界に対する責任を一手に担う姿勢、それでも破滅ではなく生の実感を得ながら地に足つけるまっすぐさ。
世界を壊してでもたったひとりを救う、セカイ系の系譜です。けれど強大な責任の放棄による破滅を描いたこれまでの作品群とは大きく異なります。

例えばヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)でシンジは「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい。だけど綾波は……せめて綾波だけは、絶対助ける!」と叫んでたったひとりを救い出しますが、本編ラストの台詞としてシンジがとった行動のせいで「サードインパクトが始まる。世界が終わるのよ」と示唆されてエンディングへ向かいます。
結局エピローグでサードインパクトは食い止められますが、つづくヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qで変わり果てた世界を見せつけられたシンジは自分がしでかしたことを直視できず現実から目を背けていました。

『天気の子』の主人公は反対に、「世界を変えてしまう」ことを自覚しながら少女を救い上げます。かつ、壊滅した東京を見せられて破滅の余韻を残し終わるのではなく、現実を刮目しながらなお「大丈夫」と言ってのけたのです。
ここがいちばん2019年的といえる部分です。


時代性を考えるには新海誠監督作品を追うとわかりやすいです。
例えば雲のむこう、約束の場所(2004)でも少年は世界か少女かの究極の選択を突きつけられ、少女を選びました。
結果的に両方を救うものの、少女は記憶と想いを失い、少年もその喪失を抱え欠けたまま寄る辺なく生きていきます。
「寄る辺」「生の実感」。これを獲得したのが君の名は。(2016)以降の新海誠です。

【3.11】『君の名は。』新海誠監督が語る 「2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきた」 | ハフポスト

【3.11】『君の名は。新海誠監督が語る 「2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきた」
――新海監督の作品では『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』など、離ればなれになった男女はそのままであるパターンが多かったと思います。『君の名は。』では、なぜハッピーエンドにしたんですか?

もちろん僕自身が年を取って変わった部分もあるとは思います。でも、やはり大震災が起きた2011年が、大きなきっかけだった気がします。2011年以前、僕たちは何となく「日本社会は、このまま続いていく」と思っていました。もちろん、人口が減って経済規模も縮小していくなど、少しずつ社会が衰退していく予感はあったとは思います。でも、さほど起伏のない「変わらない日常」がこの先ずっと続くんだという感覚がありました。

そういう世界で生きるためには、変わらない日常から意味を引き出すことが必要でした。コンビニでもいいし、遅れてしまう電車でもいい。些細なところから、生きていくために必要な慈しみや、豊かな意味を引き出していくことが重要だったように思います。

そういった空気感の中では「初恋の相手を再び獲得して幸せになった」という起伏のある物語よりは「初恋の相手を失っても生きていく」という、喪失から意味を引き出す生き様を、映画で描くことが必要だと僕は感じていました。でも2011年以降、その前提が崩れてしまったように思います。

町は、いつまでも町のままではない。いつかは無くなってしまう。劇中で瀧が入社面接で言った「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」という台詞の通りです。そういう感覚の中で僕たちは生きるようになった。そこで描く物語は、今回のように決して諦めずに走っていき、最後に生を獲得する物語にしなければいけない気がしたんです。やっぱり2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきたような気がします。

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟 - Yahoo!ニュース

――『天気の子』の主人公たちも10代です。先の見えない時代を生きる10代に対してエールを送る気持ちがあるのでしょうか。

うーん、スッと簡単に説明できないことではあるんですが……。まずひとつ現状として、世の中がだんだん不自由になってきている感覚がありますよね。それは僕個人が感じている部分でもあるし、周囲でもメディアでも、日本の将来についてあまり楽観できないという話は多い。何かが、今あまりよくない方向に向かっているという感覚は、結構な数の人が共通して感じていることだと思います。でも、子どもにはその気持ちを共有してほしくないんです。
例えば、僕らは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」と感じて、ある意味、右往左往しています。でも、今の子どもたちにとっては、それが当たり前なわけですよね。ですから「異常気象だ」なんて彼らは言わないし。『天気の子』は雨が降り続いている東京が舞台ですが、帆高も陽菜も、雨が降り続いてることについて何もネガティブなことを言わないんですよ。周りの大人たちやニュース番組はそういう話をしているんですけれど。そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました。

君の名は。で震災後の情景を、『天気の子』でその後の世界の空気感を捉えた新海誠
「生の実感」を獲得したなら、大切な少女の犠牲を力強く否定するのは順当であり重要なのです。



代償について

軌を一にしてはいますが、少し脇道に逸れます。
代償の話です。
世界と個人を対比し、天秤にかけるのは、つまるところ「どちらを代償とするか?」という話です。
世界を救うために個人を代償として支払うか、個人を救うために世界を代償にするか。

代償というのは、「それだけ大きなことを成し遂げようとするのなら当然対価を払わねばならない」もしくは「それほどの対価を払うほどに、救うべき対象の価値は高くつく」ことを表します。

鋼の錬金術師的等価交換の法則です。

だから神無月の巫女は世界を救うため少女たちは消滅して生まれ変わるし、喰霊-零-は世界のために少女を斬らねばならないし、結城友奈は勇者であるは戦いに散るたびに身体を失いますし、selector infected WIXOSSでは願いを叶えたら自分の体で生きていけないのです。(突然の百合オタク)


ヘテロオタク新海誠監督作品で見通すなら、君の名は。以前まで少女や初恋を代償に人生を得てきたのが彼です。
しかし君の名は。は、なんの代償もなしに歴史を改変しました。少女や初恋を捨てない「生の実感」を描かねばならなかったので。

君の名は。と同じ年2016年、ユーリ!!! on ICEがありました。
愛する人のフィギュア選手生命を使いべらして一緒にいられていると思った主人公は反対に自分が競技を引退しようとしますが、最終的に両者ともフィギュアスケートを続けることになりました。誰もなにも犠牲にすることなく。

歴史改変にも競技続行にも特に代償はいらない。完全無欠のハッピーエンド。
『さらざんまい』的「どうせアニメでい~じゃん!」です。
未来に与えたいのはペシミズムでもニヒリズムでもシニシズムでもない。希望です。
こんな世界だからこそ、こんな時代だからこそ、不安定な気分を晴らせる楽観的かつ前向きな物語をなんの代償もなく打ち出さねばならない、と。*3


当然このときにも「代償」は描かれつづけていて(というかストーリーテリングの際ほとんどは「代償」を蓋然的に要するので)、同じく2016年終末のイゼッタではラスボス戦で身体機能と引き換えに強大な魔法を使い果たします。*42017年結城友奈は勇者である-勇者の章-二期では主人公たちは人のかたちを保つために緩慢な人類滅亡を選びます。(ヒット作より百合の話がしたい)
2018年シュタインズ・ゲートゼロも、せっかく無印が救いを見いだしたのに結局はAIアマデウスを消滅させてしまいます。

『さらざんまい』でさえハッピーエンドも完全無欠ではありません。
依然として「誰もいなくなることなくなにかを成すのはいかがなものか」と私たちはどうしても思ってしまいます。

先ほどの記事。

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟 - Yahoo!ニュース
――次の作品を、「主人公と社会の価値観が対立する」映画にしようと思ったのはなぜだったのでしょう。

それは……僕自身の気分だったとしか言いようがないですね。直接的な理由を挙げるなら、『君の名は。』がすごく批判を受けたということはあります。『君の名は。』の公開期間中だと、テレビをつけても、雑誌を見てもそういう感じで。「ガキっぽい映画だ」みたいな言われ方もずいぶんしましたし、「代償なく人を生き返らせて、歴史を変えて幸せになる話だ」とも言われました。「ああ、全く僕が思っていたことと違う届き方をしてしまうんだな」と思いました。

瀧も三葉も、代えがたいものを失う経験をし、それによって決定的に変えられてしまった人ではあるんです。そうした反響への反発のようなものが、『天気の子』をスタートさせるときに、最初にあったんだと思います。

でもそこで「じゃあ、怒られないようにしよう」というふうには思わなかったです。むしろ「もっと叱られる映画にしたい」と。そのとき自然に浮かんできたのがそちらの感情だったんですよね。『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい。たぶんそれこそが、そのときの僕の表現欲求の核にありました。

君の名は。でノーリスクハッピーエンドを得た新海誠も、『天気の子』で代償をテーマに戻し据えています。
代償のあるなしが軸ならこの両作は対極に位置するはずで、今後出てくる物語はどっちに寄っていくかわかりませんが、この中間をいくというよりはこの極端さのいいとこ取りをした形になるんじゃないかな、と勝手ながら予想します。(中間をいく物語はこれまでもごまんと存在するので)



まとめ

00年代前半は「世界(システム。全)の犠牲になる個」でした。対をなすように、「世界を犠牲にした個の救済」が頽廃・破滅と共に描かれます。
それらへのアンチテーゼが「殺伐としなくても日常をただ生きてるだけで物語になる」でした。
Steins;Gateでは、世界をハックすることで救出劇を提示しました。
しかしまた10年代前半、「世界の犠牲になる個」が流行り出します。
魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語』で世界に叛逆してもやっぱりそれは閉塞したメリーバッドエンドとして描かれるのです。

10年代後半の犠牲へのアンチテーゼは、だから、今まで見てきたように「個が世界の犠牲になるなんておかしい」と正面切って言えるようになってきた証です。00年代には破滅または日常系という二極でしか対抗できなかったけれど。

とはいえ『天気の子』のラストも監督が覚悟したとおり賛否両論でしょう。
「世界を犠牲にして、開き直って、それでいいのか」。
ごもっとも、ごもっとも。
やっぱり全も個もどちらも救う、というのがいい塩梅に王道で気持ちよく視聴体験を終えられます。まだまだ全よりも個が大事だ、なんて大っぴらに言うにはためらってしまう社会です。
でも、だからこそクリエイターが打ち出す価値があるのではないでしょうか。
世界に殺されるなんてごめんだと叫ぶ価値が。

予想ですが、2020年代に向けて『天気の子』的な世界を破滅させてでも個人を選ぶ物語が首尾よく何作も出てくるかっていったら恐らく違うと思います。
個人が生きるために革命した世界にもまた、別の個人の犠牲があります。
結局「誰かが生きるために誰かが犠牲になる話」の連鎖に陥ってしまうのは不毛な袋小路に入ります。
でも、ただ個人が世界にすりつぶされて後味苦いだけの作品もたぶん流行らない。けものフレンズ二期がそうであったように。
肝心なのは、世界の中にいるひとりひとりの個人が誰もすり減らされない、「世界」でも「個」でもない「中間的社会」を目指すことです。全としてシステムとしての社会ではなく、そこに個人が息づいていることを互いに実感できる社会を。Steins;Gateが57億の命を想像できなかったことを悲哀に思える社会を。
けものフレンズ一期的な、集団が全として機能するのではなく個人は個人のまま共生できるのけもののいない社会がいま必要とされているのではないかな、と、自分の願望まじりにそう思います。



蒼穹のファフナー』に寄せて

で、やっとファフナーの話に入れます(ここはファフナーがそれなりにメインジャンルのブログです)。

ファフナーは犠牲を描いてきました。時代の流れに沿いながら。
2004年の無印第一期は、2000年代前半~半ばの鬱アニメ興隆期に放送されました。
2005年、前日譚RIGHT OF LEFTもばっちりその流れに内包されます。
2010年、鬱アニメが落ち着いてきたころ、人が新たに死ぬことなく喪失を取り戻す劇場版HEAVEN AND EARTH。
2015年、TVシリーズ第二期EXODUSはまた犠牲アニメの流行期。ただし流行終焉間近のころなので、1クールめでさっさと殺すような安易な真似はしません。
その代わりかつてなく丁寧に説得的に犠牲を描写しました。

17話。
少女カノンの前に現れた選択肢はふたつ。
世界が滅びたとしても僅かの間だけ好きな男とふたりで生きるか。
世界を救うため、好きな男に差し出される手を取らずに自分の命をなげうつか。
カノンは自らの命と引き換えに世界を選びました。

世界を放り投げて少女を救った『天気の子』とは正反対です。
『さらざんまい』のような「どうせアニメでしょご都合主義」もない、誰も少女を救えない。世界のために消えるしかありません。その代わり救った世界には希望があると信じます、なによりも希望のために殉死するのです。*5*6

カノン「希望はある。辿り着けるよ、一騎」
(『蒼穹のファフナーEXODUS』18話)2015


そして2019年、THE BEYOND。
あんなにも丁寧に美しく自己犠牲を肯定してしまったら、次はそれをひっくり返すしかありません。

マリス「誰かが生きるために誰かが犠牲になる。そんな世界を捨てて生きよう、総士
(『蒼穹のファフナーTHE BEYOND』1話)2019

しかしファフナーは「ご都合主義」の作品ではありません。
犠牲なんてもういいよ、多少強引でも理想を提示しなきゃだめでしょ。……そう言って片づけてしまえるほど、15年積み上げてきたものは軽くありません。子どもも大人も命を懸けて平和をこいねがってきた。
戦った者たちが全滅するのを描いたのがRIGHT OF LEFTでした。これで簡単に犠牲を否定してすべてが丸く収まってしまったら嘘です。そんな軽い命だったのか。
「どうせアニメ」ができない、やらない、現実を見据えた上で理想の実現を模索する。そういう堅実さがあったから15年続けてこれました。


舞台竜宮島はひとつの「理想」を実現させたゆりかごでした。
血で血を洗う戦いに身を投じればいずれすべてが滅ぶだけ。なんとか平和を囲わねばならない、を掲げた楽園。
そんな偽りの楽園は数多の差別と犠牲によって成り立っていました。
日本が滅ぶが、竜宮島へ移住できる人口は約7000人。それ以外の人は選別の上切り捨てられた。
子どもたちをファフナーに乗せて戦わせなければ誰も生き残れない。ファフナーに乗れば戦場にいなくても命が削れる。
ファフナーに乗れて敵と対抗できる因子が適合できる世代を生み出すために、それまでの世代はほとんど死を前提にした実験的な遺伝子操作を受けた。
島そのものの生存の維持すら、数ヶ月しか外で生きられない少女を生け贄にすることによって成り立っている。


しかしあらゆる犠牲を強いてきたからこそ得られたものがありました。

広登「なぜ憎しみが生まれるかわかった。無力だと思わされるから憎むんだ」
広登「俺もお前も島が平和を与えてくれた。だから世界を憎まずにいられたんだ。俺は、俺が知ってる平和を世界に広めたい。だから、ここにいる」
(『蒼穹のファフナーEXODUS』13話)2015

平和を知る者。平和を知るからこそ、憎しみの連鎖を止められる者の誕生。それが犠牲を生んでも世界から閉じこもってきた「意味」となりました。

総士「あなたは戦いもせず……それでも指揮官ですか!」
史彦「君はパイロットたちに、人を殺せと命令できるのか」
(『蒼穹のファフナー』14話)2004

史彦「人間と戦ってはならない。どんなことがあってもだ。一度でも血を流せば、一騎が戻ってきたときつらいのは君だ」
総士「あなたは血を流したことがあるのですか」
史彦「……嫌というほどな」
(『蒼穹のファフナー』15話)2004

人を殺してはならない。あたりまえの倫理がこの島だからこそ根づいています。
竜宮島の司令官史彦は、島に入植する前は未知の生命体フェストゥムだけではなく人をも殺してきました。そうしなければ生き残れなかった。自分も仲間も守れなかったから。理想とか言っている場合ではない。
だって、世界は残酷だから。

現代の価値観で2000年代のロボットアニメとして見てみると、ともすれば史彦の理想は欺瞞にも聞こえます。
今まさに島が危機にさらされているときにキレイゴト言ってる場合じゃないだろと。
けれど史彦は人を殺さないと固く決意します。
人を殺すことの悲劇を知っているからです。嫌というほど。


しかし残念ながら竜宮島はゆりかごでした。
EXODUSで島の外に出た子どもたちは世界の惨状を目の当たりにし、ヒロイン真矢は人を殺します。
平和を育て、人が人の敵にならないという竜宮島の理想は崩壊してしまいました。
人を殺さないと今目の前にある大切なものを守れない。キレイゴトを言ってる暇はない。倫理なんか腹の足しにもなりやしない。やはりそんなものは平和な島にいられたから口にできるだけ。

それでも最後、史彦は最終決戦の直前に言い放ちます。

史彦「お前たちが学んだのは、人の怖さだけか」
史彦「人は時に恐ろしい存在になる。だがそれでもなお、信じるべきなのだ」
史彦「お前たちに人を撃てと命じることはない、ファフナーパイロットとして使命を果たせ!」
(『蒼穹のファフナーEXODUS』25話)2015

史彦は外の世界でたくさん人を殺してきました。時系列で眺めるとこうです。

竜宮島入植前(人を殺す/理想論無視)

竜宮島入植後(人を殺さない/理想の実現)

竜宮島の外の世界に出る(人を殺す/理想の崩壊)

現実を見て、のち(それでも人を信じる/理想の掲示

「それでも」。
子どもが犠牲になる。人ともフェストゥムとも殺しあう。自分も相手もいなくなる。他者とわかりあえない。
それでも、希望を信じて追いかける。

ファフナーは「それでも」を求める物語です。
人を殺すこと、については、「それでも」の結論が一応のところ出ました。



では誰かが生きるための誰かの犠牲についてはどうでしょうか。「それでも」を言えるでしょうか。
THE BEYONDにおける「誰かが生きるために誰かが犠牲になる。そんな世界を捨てて生きよう」はこれまでのシリーズに対する自己批判です。

TVシリーズ第二期EXODUSで主人公たちは犠牲を受け入れました。
簡単に人の命が奪われ人と人が殺しあう現実を目の当たりにし、もはや理想ばかりの世界では生きられないと悟った主人公たちは、CDドラマ『THE FOLLOWER2』にて新たな選択をしたのです。
犠牲を受け入れる。他者の命でも、自分の命でも、仲間の命であっても、等しく。
そこに倫理はありません。キレイゴトは通用しない。その代わりSteins;Gate鉄血のオルフェンズ『天気の子』などなどセカイ系などなど他多くの作品が行ってきた、大切な人の命と知らない他者の命を分け隔てることもない。富野由悠季がメインキャラもモブも等しく無情に殺したように、ファフナーは仲間の死を受け入れることになりました。

ただし、その選択は、ただ未来にある本当の平和を実現するために行われました。目の前にある大切な存在の命を守るためではなく、平和をつくれる能力のある者の命を守るために沢山の命が失われることを受け入れる。ブレない目的を見定めた必要悪です。


けれどBEYONDでその必要悪は悪だと否定されました。
いや、まだこれからです。この否定がどこに着地するのかまだわかりません。必要悪を否定した存在が善だとも限らないのです。なぜなら誰かが生きるために誰かが犠牲になる世界を捨てたとしても、その行為はまた別の誰かを犠牲にしているので。

一騎「大勢から大切なものを奪って作った、お前たちだけの平和だ」
(『蒼穹のファフナーTHE BEYOND』2話)2019

世界を捨てて自分たちだけ生きようと隠れた偽竜宮島は、そのまま本来の竜宮島の相似を描きます。つまり本来の竜宮島も内外の犠牲を切り捨てて自分たちだけの平和を追求した空間だったということです。
であるならば、偽竜宮島は真竜宮島と同じ運命を辿るほかありません。
THE BEYOND2話にして早くも偽竜宮島が破壊されたのはそのためです。竜宮島が沈んだように、偽竜宮島も。

偽竜宮島入植前(誰かが生きるために誰かが犠牲になる/理想論無視)

偽竜宮島入植後(誰も殉死しない/理想の実現)

偽竜宮島の外の世界から真実が突きつけられる(犠牲(フロロ)の発生/理想の崩壊)

???

現在3話時点で提示されたことは、真竜宮島勢がEXODUSで辿った道と同じです。
EXODUSがそこから「それでも、人を殺さない」理想を掲げたように、BEYONDも「それでも、犠牲を許さない」まで到達できるのか。

EXODUSでもべつに、理想を掲げてからヒロイン世代が人殺しをしなくなっただけで、大人は最終回でヒロインを守るため殺します。BEYONDも犠牲を生まないとするならば代替わりした新主人公たちがそれを成し遂げるだけで、上の世代は「犠牲の受容」にとどまるのがせいぜいかもしれません。まあBEYONDのヒロインは世代も人間も敵も関係なく「誰も痛いことのない本当の平和」を願ってしまっているのですが。
最終的に誰の命も守られることを目指しつつ、ご都合主義は使えない世界観で理想を貫行しようとするなら、一筋縄にはいかないことは明々白々。
落としどころを見守りたいです。


とまとめたところで。
気になったのはつい先日脚本家冲方丁が自身のブログにupした『天気の子』についての「落書き」です。
本人が再三繰り返しているように、冲方丁による二次創作のようなものであって批判ではないです。一部だけ抜き取った文で判断しないでくださいね。

物語の変転として、東京全域および日本全国が雨にまみれるわけだが、その必要はないだろう。
主人公が、忌視した島にのみ、雨が降ればいい。
ぶらりずむ黙契録

で、ラストでは、ヒロインはとっくに晴れ女の力を失っているべきである。ここは本作と変わらない。
だが代わりに、主人公が雨男になっているべきではないか。
最後に「会う」と決断すべきは、ヒロインの方でいいのではないか。

雨男となってのち、晴れて(ちっとも晴れないが)島を出ることがかなうが、気分はどんよりしたままの主人公のもとを、ヒロインが訪れ、最後にこう問うてはどうだろう。

「晴れてほしい?」
と。

ここで主人公がうなずくことで、物語の変転が描かれる。
ヒロインの力に頼っていっときの避難所を得るのではなく、主人公自身が、その鬱屈した心を解き放ち、おのれ自身のハレにしてアカシを望むことが示唆されるからである。

そして重要なのは、かつてヒロインに、「晴れなくていい」と告げた主人公と、ちょうど逆の現象が起こるということだ。
主人公は、「もう雨は降らなくていい」ということを受け入れる。
そして晴れが訪れる。
個人の願望によるものではない、天然の恵みとしての、真の晴れだ。

晴れ女につづき、雨男となった主人公の力も、こうして完全に失われる。
後に残るのは、自分たちはまぎれもなく天の力にふれた二人だという実感、ただそれだけ。
ハレ(晴)、アカシ(明)、そしてサイワイ(幸)という、神道における三つの理想的なあり方をみせる。

こういうラストはどうだろう。
ぶらりずむ黙契録

私が気になったのは、冲方丁の「自分ならばこう書く」では、「僕たちは世界の形を変えてしまった」責任が減じてしまうこと。
『天気の子』の雨は日本のいちばん多くの人が見知っているだろう街東京に降らなければ、少女と世界を天秤にかける重さがなくなってしまうわけです。(元の作品も責任がどれだけ重いかといった描写が薄いということは置いといて)
首都東京を沈めるくらい大変なことをしてしまった、それと天秤にかけてなお少女の命のほうが重い。
少年が雨男になり最終的に双方の力が失われる展開では、「誰かが生きるために少女を犠牲にする、そんな世界を捨てて生きよう」というテーマが描けなくなります。
不安というわけではないですが、冲方丁はこれを真に重視すべきテーマだと捉えているのでしょうか?
換言すれば、ファフナーは誰かが生きるために誰かが犠牲になる世界なんてクソくらえだと力強く打ち立ててはくれないのでしょうか。
人が死ぬことを受け入れ、それでも対話することは諦めないよ、と、先代主人公に言わせて新主人公に受け継ぎ、テーマとしては停滞、とくるのはなんだか収まりが悪いです。
……いや言いながら「ぜってーそれはない」感がつよい……杞憂なんですよねこれ。BEYONDで先代主人公もまた否定される存在になったので。だから不安ではないんですが。


「代償」についても同様の杞憂を抱いているので、備忘録程度にメモ書きしておきます。

総士「それがひとつめの、対話の代償だった。
君は知るだろう。
対話も戦いも、代償は付きまとう。果たしてその代償は得たものと等価なのか。
それが世界の変わらぬ問いかけであり、答えは僕らの命、そのものなのだということを」
(『蒼穹のファフナーEXODUS』3話)2015

先ほどの新海誠のインタビューを読んで思ったのは、私たちはなにかを得るには代償がつきものだとあまりに当然視しすぎていたのではないか……ということです。
代償のある話を「現実的」と言い、ない話を「ご都合主義」と言う。
しかし現実、リスクが高い話のリターンに必ずリバウンドがつくかといったらそれはまた別の話です。この世がすべて等価交換で回っているわけではない。わらしべ長者だっていくらでもある。
君の名は。的な、なにも喪失することなく「生の実感」を得る話を描いたら、論理的帰結としてハイリスクハイリターンノーリバウンドが出来上がった、というような作品が今後増えていってもおかしくはありません。
なにが言いたいかって、時代に合わせてすこしずつ刷新してきたファフナーが時代に取り残されてほしくないなあ、のファン心です。
00年代無印の「話し合えばわかりあえる」素朴な信仰を通ってのち、10年代に「話してもわかりあえない」諦観と「それでも諦めない」を提示してきたファフナーなので。
「犠牲」も「代償」もまだ賞味期限は切れていません。
どう転ぶかはファフナー次第、時代次第といえます。
がんばってほしいな。(急転直下締まりのない締め)

*1:この記事書き終わったあとに見つけた他ブログさん→アニメ・物語における「00年代とエロゲを履修していない」という大きすぎる穴と分断について【6000文字】 - ”Notice" homla's blog。同じ不安がある、わかる……から調べはしたけど実際に浴びないと語り得ないのだろうな。この記事の取りこぼしをすこし補填してくれている

*2:シュタゲとセカイ系については他ブログさんの指摘も→考察:セカイ系としての『STEINS;GATE』(シュタインズ・ゲート) - ゴンポリズムセカイ系キャラクターとしての、暁美ほむらと岡部倫太郎 - シロクマの屑籠

*3:作品の制作意図がすべてそう、だとは言いません。そういうふうに受け取られる時代だからヒットしたということも含めた評価です

*4:そういえば『終末のイゼッタ』は最終回でイゼッタが王女フィーネ様を想いながら「王様は沢山の人の命を預かるからたった一人にこだわってはいけない」と言ってて、昨今の流れのアンチテーゼをやっていて印象的でした。まあだからヒットしなかったんだとか言ってしまえることもできますが

*5:ファフナーで描かれる犠牲は大体それです。RIGHT OF LEFTのとある紹介文「未来のための犠牲 希望のための絶望」が端的に表していて好き

*6:EXODUSではピークを17話に持ってきてしまったがために、その後最終回直前までの仲間の死が相対的に軽く扱われてしまうというもやもやが残りました。ここは時代や展開にうまく乗れなかった遺恨だと思います。