青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとかを考えるオタク

『シムーン』全26話 読解・解釈まとめ

頭の整理のために書く、暫定解釈です。

目次

聖なるもの⇔穢れ

聖と穢。この二極の対比が『シムーン』の基本構造です。
神の乗機シムーン/ただの機械
巫女シヴュラ/兵士
祈りリ・マージョン/殺戮
神秘/侮辱
子ども/大人
未分化/男か女
純粋/性

子どもから大人になっていく狭間でモラトリアムに陥っている少女たちは、まさにこの二極を行ったり来たりして、揺れます。
この「揺れ」が『シムーン』の少女譚を形作っています。
性別を選ぶイニシエーションは、子どもと大人をはっきりと分け隔てモラトリアムを強調するための装置です。

かつて神秘のベールに包まれていたものはそれを剥がされ、その地位は貶められる。
しかし、失墜したその先に、「希望」と呼ぶべき神秘(未だ、わからぬもの)が立ち現れる……。

シムーン』は執拗にこの基本構造を繰り返しており、それは「かつてただ飛び舞い祈るだけでこの世に君臨した神の乗機シムーンは、今や敵国の技術向上により血なまぐさい戦闘行為も行うようになり、敗北する日も近い。シムーンは結局ただの機械でしかない。そんな折翠玉のリ・マージョンが発生し、やはりシムーンは神秘なのではないか……」と語られる1話から直球に表れています。

少女を取り巻く大人である宮主と司兵院が配置されるのは、この二極を成すためです。
神秘と暴力の二元論。
少女シヴュラを聖なる神テンプスパティウムに仕える巫女と崇める宮主。
逆に、単なる戦争に利用する兵士として扱う司兵院。
このふたつの利害の間でも少女たちは揺れます。
宮主と司兵院はそれぞれシムーン・シヴュラの別々の側面を見ています。

ネヴィリル「私はこの戦いの日々を、誰かのせいにしたいのではありません。今がいかに苦しく辛くとも、そうなるべくしてなったのだと。それがテンプスパティウムの意思なのかさえ、今の私にとってはどちらでもよいのです。今の私には、神の意思さえ、どうでもよいのです。ただ、これだけは皆様にお訊きします。それでも私は、今でもシムーン・シヴュラなのでしょうか?」
オナシア「シヴュラ・ネヴィリル。あなたがそう望む限り、それでもあなたはシムーン・シヴュラなのです」
ネヴィリル「……はい」
(『シムーン』9話)

ネヴィリルの神を蔑ろにした発言に宮主は絶句します。
しかし最も神に近い場所にいるオナシアはネヴィリルの揺らぎを認め、神聖だろうと暴力だろうとどちらもシムーン・シヴュラであることを肯定しました。
二項対立でなくてもいい。シムーン・シヴュラは両面的な存在である。
ここで、シヴュラたちは両面性を受け入れることも、どちらか一方を選び取ることも可能になったのです。
シムーン』を読み解くにはこの可能性がカギとなります。

25話の奈落の底

パライエッタ「私たちは誰もお互いのことをなにも知らない。だがそれを知るために、私たちは堕ちてゆく……堕ちていかなきゃならない。大声で叫びながら、恐怖で口から飛び出しそうになる内臓を押さえこんで……どこまでも……」
アルティ「そしてどっかで堕ちるのが怖くなって、途中のなにかを掴んでぶら下がろうとするんだ……でも、その手を離さなきゃいけないんだね……」
カイム「その奈落の底に、きっとボクがいる」
(『シムーン』25話)

シヴュラが聖なる存在ではなく穢れた側面も持ち合わせていることは、処女性への批判でもあります。
清らかなものだけを見つめていては、少女の本質に辿り着くことなど到底できないのです。
例えば宮主および宮国中央がそうしたことでシヴュラのやっている「戦争」を直視できなかったように。*1

本質に辿り着くには、一旦「堕ち」なければならない。
神秘とは「遠いもの」であり、聖なるものを暴くことは神秘性を堕とすことであり、対象に近づくことです。
「お互いのことをなにも知らない」ままなのは、近づくことが適わなかったからです。
近づくことには傷ついたり傷つけられたりするリスクが伴います。

しかしそれでもきれいなものを見るだけではなく、都合の悪い穢れを見てこそ、相手を知ることができるし、その先にあるほんとうのなにかを掴めるのです。
これを、ドミヌーラは希望と称しました。

ドミヌーラ「私が見たもの……それは恐ろしいものだった。抱いていた誇りを破壊し、信じるものを打ち砕かれた。でも、怖いのは違う。その恐怖の先に僅かに見えたもの……それが怖いのよ」
リモネ「それって……?」
ドミヌーラ「言葉にはできない……でも、あえて名づけるなら──"希望"……」
(『シムーン』16話)

アムリアとネヴィリルの失敗

であるならば、1話で翠玉のリ・マージョンに失敗した理由は、ネヴィリルが堕ちることができなかったからではないでしょうか。
のちにネヴィリルは「いい子でいたかった」「アムリアもアーエルも翠玉のリ・マージョンを完成させるためにしか私を見ていないと思っていた」と告白します。
汚い部分から逃げようとした。
傷つくことを恐れて本心を聞こうとしなかった。遠ざけてしまえば堕ちることはできません。

翠玉のリ・マージョンの成功条件は明らかではありませんが、どうやら相棒パル同士が互いを必要しあうことが要件になりそうです。
相手を信じて身を委ねる。誰にも邪魔されないふたりの結びつきを深めあう。そのためには互いを知らなければならなかった。
それができなかったから、他者の侵入にいともたやすく屈したのではないでしょうか。

翠玉のリ・マージョン失敗の決定的な原因は「見られたこと」です。
少女たちの安寧に暴力が侵入し、自由を奪われ、破壊される。そこから逃れても泉の選択が待っており、いつまでも少女のままではいられない。
いつだって少女たちの絆は危機にさらされています。逃げようとしても。
この1話の失敗はその無情さを示したわけです。

破壊された先に、穢された先に、希望は見いだせるのだろうか。誰にも侵されなどしない少女たちの結びつきを強化できるのだろうか。
そういう挑戦です。

アーエルとネヴィリルの物語とは

だとするなら、アーエルとネヴィリルは互いを必要としあい、堕ちたその先を見いだせたから侵されない結びつきを得られたということになります。
少しずつ近づいていったふたりはしかし、一周めの視聴者(私)からすると少々わかりづらいところもありました。なので順を追ってまとめてみます。
ふたりがどこで「堕ちた」かといえば、20話、マミーナの死を消化するときです。
それまでは、ネヴィリルがアーエルを拒絶し、アーエルはネヴィリルを傷つけ、信じるどころではありませんでした。

8話。
敵国の巫女アングラスが、神への最上の愛を表す言葉「アーエル!」と叫び、シムーンに対し自爆攻撃を仕掛けます。

マミーナ「私とパルを組んで下さい!」
ネヴィリル「あなたには迷いがないのね。アーエル、あなたはどうするの?」
アーエル「わからないよ……よくわからなくなった……」
ネヴィリル「アーエル、あなたはシムーンに乗りに来たんでしょ?」
アーエル「泉なんかに行きたくない。それがいいことなの? あたしには神への愛も、なにもないのに……」
ネヴィリル「答えを出す必要はないわ」

ネヴィリル「私も迷ってる……巫女であること、戦いに出るということ。それが本当に正しいことか……?
あなたと私は、なにからなにまでまるで違う。でも、ひとつだけ同じ。……立ちなさい、アーエル。 私があなたのパルよ!」
(『シムーン』8話)

迷っていること。選択をしないこと。それを唯一の共通点と言い、ネヴィリルはアーエルを相棒パルにしました。
アーエルは自爆したアングラスの純粋な神への愛と、それによる凄惨な暴力の両立に混乱します。
堕ちた経験がないから聖と穢両方を見つめることがわかりませんでした。
ふたりは選択しないことを選択し、ネヴィリルは審問会でその聖と穢どちらかのみを選ばないことをオナシアに肯定され、ひとまず安定しました。

しかしそれもアーエルがネヴィリルのタブー「アムリア」を貶めたことで壊れました。
近づきすぎて、ネヴィリルを傷つけます。
ただ、それをきっかけに、ネヴィリルはアムリアが死んだことを自覚し、自分自身に向き合うことになります。
傷つくこと、傷つけることを恐れず近づいてきたアーエルに、ネヴィリルは否応なく心をこじ開けられてしまいます。
このときアーエルを怖いと思ったのは、これ以上アーエルに近づくこと、これ以上傷つくことが怖かったのでしょう。

しかし、一度近づかなければ、傷つかなければ、──堕ちなければ、その先にあるものは見えません。
アーエルを求めた、とまではいかないかもしれませんが、アーエルを受け入れはじめたネヴィリルは、堕ちることの必要性をどこかで感じていたのかもしれません。こじ開けてくれるアーエルに、希望を見たのかも。

ネヴィリル「似ているの」
パライエッタ「え?」
ネヴィリル「アムリアも。あの子と同じ。私を見ていてはくれなかった。そう。アーエルを通して気づかされてしまった。あのふたりにとって私は……より高みを目指すための、道具でしかない」
(『シムーン』15話)

しかしまだ近づくことを、真実を知ることを恐れています。知ってしまえば、自分がただの道具でしかないことを突きつけられてしまうから。
そうしてアムリアの死から逃げようとしたネヴィリルでしたが、つづいてドミヌーラとリモネが翠玉のリ・マージョンを行ったことで、自分の責任を自覚します。

ネヴィリル「すべては私の引き起こしたこと。私のわがままのせい。アムリアと、翠玉のリ・マージョンを忘れようなんて。なんて浅はかなの、ネヴィリル」
~~~~
アムリアとのキスや最期、エリーの慟哭
~~~~
ネヴィリル「あなたには忘れてはいけない多くのことがあるはずよ、ネヴィリル」
(『シムーン』17話)

忘れていいはずがない。怖がらずに、逃げずに、見つめるしかない。翠玉のリ・マージョンを……。

アヌビトゥフ「これは、お願いではありません。シヴュラの方々には、この作戦に必ず参加していただきます」
アルティ「もう私たちには泉へ行く自由はないってこと……」
ネヴィリル「そうね。きっともう、私たちに逃げて帰る場所はないわね。前に進むしかないのよ」
~~~~
マージュ・プールでアーエルにキスするネヴィリル
~~~~
ネヴィリル「アーエルはやく!」
アーエル「ああ」
(『シムーン』17話)

泉に行くことを「逃げる」と称し、シヴュラでいつづけることを「前に進む」とネヴィリルははっきり言いました。
これはオナシアが自分が性別を選択しなかったことを「逃げた」と言ったのと対照的です。
ここで、今まで少女たちが逃避のために切望した翠玉のリ・マージョンと、ネヴィリルたちの臨んだ翠玉のリ・マージョンが別物になることが示唆されてゆきます。
マージュ・プールでアーエルにキスをしたのは、もう逃げない、アーエル、アムリア、翠玉のリ・マージョンに向き合うのだ、という密かな宣言でしょう。
まだ、アーエル自身に惹かれたわけではないのが、17話……。
ですが。

アーエル「それが何を意味するのかはわからない。でも、じいちゃんはずっと憧れていたんだ」
ネヴィリル「アーエル。あなたが性別を選びたくなかったのは……。……ヘリカル・モートリス。時間と空間を操ると言われている。シムーンの神秘性を強めるためのただの物語だと思っていたけれど」
ネヴィリル「どこにもいて、どこにもいない。オナシアがそうなら、アングラスがそうなら、シムーンがそうなら……」
アーエル「もしかして……リモネとドミヌーラも?」
ネヴィリル「……このことは私たちだけの秘密に」
アーエル「秘密をつくるんだ。ふたりだけの」
ネヴィリル「……そうね」

~~~~
司兵院がマージュ・プールへ。ネヴィリルは拒むが、
司兵院「祈りではない、戦闘訓練だ」
ネヴィリルとアーエルは強く頷きあう、蒲公英のリ・マージョンを披露

(『シムーン』18話)

翠玉のリ・マージョンの真実。消えた少女たちは死ぬのではないとしたら。希望を求めて生きられるのだとしたら。
「ここではないどこか」へ、行けるのだとしたら。
ふたりは秘密をつくります。神秘を囲って、閉塞する関係に。シムーンにおいてはこれから堕ちる前座でもある。

神秘がただの物語ではないと思えてきたネヴィリルは変化します。
「神の意思さえどうでもよい」と切り捨て、なにを選ぶべきか迷っていたネヴィリルが、アーエルと共に蒲公英のリ・マージョンを描いてみせました。
戦闘訓練(穢)をそこのけ、神に捧げる祈り(聖)を信じてもいいと思い始めた。
これが、最終的に翠玉のリ・マージョンで飛び立つ際の下地にあります。
シムーンはただの機械ではなく神秘があるかもしれないこと。
翠玉のリ・マージョンの先は終わりではなく希望があるかもしれないこと。
現実から逃げず、傷つけてきたアーエルと向き合い、ふたりの仲を囲い深めたこと。
祈りの尊さを理解したから、聖なるものを追い求める営為が希望を作り出すと信じられたのでしょう。

さて。
外堀を埋めて、いよいよふたりは堕ちます。マミーナの死によって。

ネヴィリル(アムリアが死んだとき、あのとき私の心も死んでしまったのかもしれない)
ネヴィリル「やっぱりマミーナの代わりに私が死ねば……」

アーエル「あたしがもう少し強ければ、マミーナは死んだりしなかった。あたしが……」
ネヴィリル「いいえ。責められるべきはパルである私。あなたに関係、ない」
アーエル「関係ないなんて言うな!」

ネヴィリル「アーエル……」
ネヴィリル(どうしてあなたは泣くの……? あなたはなにも恐れていなかったんじゃないの?)
~~~~
ネヴィリル「アムリア!」
アムリア「だから強くなりたいの。わかるでしょ、ネヴィリル。私たちならできる」
~~~~

アーエル「生きなくちゃ」
アーエル「あたしは、生きなくちゃ! ……生きなくちゃ」
~~~~
マミーナ「私の後ろにいらっしゃるのは、我がシムラークルム宮国最高のシヴュラ、シヴュラ・アウレア・ネヴィリル! 絶対ここから助け出し、あなたたちには指一本触れさせない!」
~~~~

ネヴィリル「そうね……生きなくちゃ」
(『シムーン』20話)

アムリアの「私たちならできる」確信。
マミーナの決意の宣明。
ふたりの高潔さがアーエルに重なります。

ネヴィリルがアーエルの涙に驚いたのは、おそらく簡単に言ってしまえばアーエルが単に自分のことしか考えていない能天気じゃなかったから。
傷つくことなど知らずに奔放でいられたわけではなくて、全力で傷つきにいくことができるのがアーエルだと気づいた。
いい子(聖)でいたくて傷つくことを恐れたネヴィリルからしてみれば、傷ついて(近づいて、穢れて)なお「生きなくちゃ」と純粋でいられるアーエルが衝撃だったのでしょう。
同時に、アムリアもアーエルと同じなのだと悟りました。
ふたりは翠玉のリ・マージョンを完成させるための道具として見てるからネヴィリルを平気で傷つけられるのではなく、傷つくことをも厭わずに、そのうえでほんとうに「私たちならできる」と思える純粋さがあると。

それこそが「アーエル」──神への最上の愛なのです。
アーエルの名前に神への愛が重ねられたのは、その純粋さ、気高さを表しています。
リモネが、空からやってきたアーエルとネヴィリルを見て「アーエル……最上の愛」とつぶやいたことで、ふたりの神聖性、しかも後世にまで語り継がれるほどの聖なる力を決定づけました。
穢されても、貶められても、傷ついても、その先に純粋な希望を求めること。それがアーエル。*2
迷っていることで相棒パルとして結びついたふたりでしたが、選びました。永遠の少女を。堕ちた果てに、その先の純粋に聖なる存在になることを。

アーエル「あたしは、こんな……」
ネヴィリル「いいえ、アーエル。あなたがどう思おうと、あなたはシムーン・シヴュラ」
アーエル「あたしは、戦いしかしらない。祈りなんて知らない」
ネヴィリル「アムリアも戦いの人だった。でも彼女の祈りは多くの人々を祝福した。人々はアムリアのもとに集まった」
(『シムーン』22話)

ロードレアモン「シヴュラとして祈ることに、やっと意味を見いだせたのに……」
ネヴィリル「コールテンペストがなくなっても、私たちがシムーン・シヴュラであることに代わりはないわ。私たちの祈りは、誰にも穢されることはない。誰にも」
(『シムーン』23話)

アムリアは戦いに染まりながらも想いは純粋だったとネヴィリルは気づきます。
不老でいたいとか、大人になることが怖いからという不純な理由で翠玉のリ・マージョンに憧れたのではない。
「私たちならできる」から。
それを実践したネヴィリルとアーエルは、戦いの残酷さを、翠玉のリ・マージョンの無情さを、目を逸らさずに見つめて、それでも穢されない純粋な祈りを選びました。

ネヴィリル「私がアーエルを選ばなかったのは、あなたを二度も裏切るのがつらかったからじゃない。それは自分が傷つかないための方便……私はいい子でいたかったのよ。ばかね」
ネヴィリル「いい子でいたいなんて……なんて子どもなの。翠玉のリ・マージョンを完成させるためのパルとして、道具として、アムリアと、そしてアーエルに選ばれたと思い込んでいた……でもちがう。一途な想いのふたりに魅かれたのは私のほう……彼らのほうがはるかに純粋だったことに気づいたの」
パライエッタ「彼らは、自分が傷つくことを恐れない……」
ネヴィリル「ええ。その通りよパライエッタ。私は今、目の前の想いに生きようと思う」
(『シムーン』25話)

後述しますが、傷つくことを恐れれば近づくこともできない。近づくことができなければ、相手を知ることも、聖と穢の両方を見据えることもできません。
アーエルとネヴィリルは、その壁を乗り越えて結ばれ、翠玉のリ・マージョンを完成させたのでした。

モリナスの物語

アーエル、ネヴィリルの物語と対をなすのがモリナスの物語だと私は思っています。
聖と穢で揺れた少女たち。
アーエルとネヴィリルが自ら聖(≒神秘性≒遠さ≒祈り≒永遠の少女≒社会からの逃走)を選択したのだとすれば、モリナスは穢(人知的≒近さ≒操縦≒大人になる≒社会への迎合)を選択したからです。

ワポーリフ「シムーンは神聖なる存在。神の乗機。しかし、いくら近づこうとしても……いいえ、気づいてしまったのです。シムーンなどどうでもいい。あなたが無事でいてくれさえすれば、それでいいのだと。……軽蔑して構いません」
モリナス「小さく、なってきたね」ワポーリフの胸を指す
モリナス「男になって、あなたと一緒にシムーンをいじりたかったなあ」
(『シムーン』24話)

象徴的なのはこのシーン。ワポーリフとモリナスの愛の告白の現場です。
ワポーリフが「神聖な遠さに魅了されるより、人間同士の近さを慈しみあいたい」と告白し、それに対しモリナスがワポーリフの体の男性化に言及し、「男になりたかった」つまり「あなたと結ばれるために、やりたい職業を諦め女になろうとしている」ことを告白する。ふたりとも、今までの自分が惹かれていたものよりもあなたが大事だと打ち明けあっています。
結果的に女になっても働けていますが、この時点でモリナスは自分のやりたいことを捨ててまでも恋愛は異性同士でなければいけない社会を受け入れているのです。
大人の世界への迎合です。

モリナスの物語は、モリナスがシムーンを機械として関心を持つところから始まります。
つまり初めから神聖さを信奉してはいなかった。しかしいざシムーンに乗ると、これが神の乗機だと体が実感すると告白します。
この矛盾をモリナスは、オナシアが提示したように「巫女であれ兵士であれ、空にリ・マージョンを描くシヴュラはシヴュラであることに変わりはない」とすることで受容しました。

アーエル「行くよリモネ。リ・マージョンをといて、あれを落とす!」
フロエ「あたしたちって」
ロードレ「やっぱりこうなるのね」
モリナス「リ・マージョンをやることに変わりはない」
(『シムーン』9話)

しかしいくら自分の中で聖と穢を両立させようと、ワポーリフからはシムーンとシヴュラを冒すべからざるものとして扱われます。
当然、目の前にいるモリナスを見ていないということでモリナスは怒ります。
そしてマミーナの死。
自分たちのしているのは紛れもない戦争であり、殺し殺される当事者であるのだ、という実感。

マミーナの死は、ネヴィリルに祈りの純粋さを気づかせ、モリナスには祈りと殺戮は異なると気づかせるという、同じ事象で正反対の分岐を発生させました。

モリナス「リ・マージョンが追悼のためにあろうと、敵を追い払うためにあろうと、リ・マージョンをやることに変わりはない。以前はそう思ってた」
モリナス「でも今は違うと思ってる。同じリ・マージョンでも、今はまったく違う」
(『シムーン』22話)

シムーンに乗れば負傷もする。ここにあるのは人知の解するところで、形而上の神ではない。
ワポーリフの態度と戦争を通じてモリナスは現実を思い知っていきます。

ロードレアモン「モリナス」
モリナス「ん?」
ロードレアモン「私たちにはまだ、やらなきゃならないことがあるのよね」
モリナス「うん」
ロードレアモン「でも、私はテンプスパティウムに捧げるリ・マージョンが好き」
モリナス「ええ、私も。そしてたぶん、みんなも同じ気持ちだと……」
ロードレアモン「うん!」
(『シムーン』22話)

もちろん祈りも忘れてはいないんですけどね。

モリナス「最後に、古代シムーンで空に祈りを……ううん、操縦してみたかったな」
(『シムーン』25話)

それでもモリナスが選んだのは、「祈り」ではなく「操縦」──神聖さよりもおよそ謎のない現実だということです。
このモリナスが異性愛を選び、泉の選択によって社会に迎合していくのは道理です。

ドミヌーラとリモネの物語

アーエルとネヴィリルを純真なる聖を求めた物語だとするなら、ドミヌーラとリモネは「堕ちた先の希望すら潰えて、しかしそれでも」を求める物語です。
こちらのカップルのほうが、神秘→失墜→その先の構図がわかりやすい。

冒さざるものだったシムーンが、ワポーリフの手によって解体された。ついで、ドミヌーラの発狂。
ドミヌーラは見てしまいました。自分が時代を越え、忘れ去られたシムーンの祈りを伝導する姿を。

シムーンが伝わらなかった世界は、戦争によって滅亡します。ドミヌーラも、コール・テンペストも生まれません。
ドミヌーラがシムーンを伝えた世界は戦争はシムーンによって一時救われ、人類は存続します。
そして再び戦争が起こります。
ドミヌーラはこの戦中、自分が必要とされない苦しみを抱えていました。
でも国が翠玉のリ・マージョンを完成させるためにコール・デクストラとしてドミヌーラを採用してくれました。

その国が、いままで自分が拠って立つところだった、自分を必要としてくれた国や神が、自分から生まれたものだと知ってしまった。
解体されたヘリカル・モートリスによって神秘は暴かれてしまったわけです。堕ちる。

しかし発狂した先にあるのはリモネとの絆でした。
リモネが必要としてくれたからドミヌーラは心を取り戻せたのです。
そうして聖廟のテンプスパティウム像を破壊します。かつての拠り所を捨てました。

選び、選ばれた者同士として、ドミヌーラとリモネは飛び立ちました。未知の空間へ。

神秘→失墜→その先の希望→また、神秘へ

ふたりが飛ぶまで翠玉のリ・マージョンの先は神秘でしたが、それさえもネタが割れました。
古代の世界。自分たちが「はじまり」になる覚悟と選択。

そして、アーエルとネヴィリルがやってきたとき、ふたりはふたたび翠玉のリ・マージョンすることを決めました。
いちどめのリ・マージョンでは、お互いを必要としあい、信じあったことは確かですが、まだそこまで深いつながりはありませんでした。(なのにわかりあえたのは、ふたりとも幼く純真だったからでしょう)
二度めのときは、もう何年も一緒にいたという時間があった。

ドミヌーラの体は硬化してゆき、永遠ではない無常を感じさせます。
ドミヌーラは「希望とでも呼ぶべきものが怖い」と言いました。希望は新たな絶望を生み、信じたものは堕ちてゆくから。もしも一度めのリ・マージョンがなければドミヌーラはこの緩慢な死に至ることはなかったでしょう。
けれど、もう彼女は選択しました。自分の苦しみが生まれようともシムーンを伝えることを。であれば、たとえ永遠でいられなくても、あるいはもっと深い絶望が待ち受けていようとも、ドミヌーラにはリモネと見る希望を追いかけてゆく以外の選択肢はありません。

翠玉のリ・マージョンは「希望」です。
きれいなものだけではない、残酷さを含んだ希望。実際永遠にもなれなかったふたりの行く先は行き止まり。
オナシアがユンに抱き締められて消えたように、もしかしたらドミヌーラもいつか誰かに触れられたら消えてしまうかもしれません。*3
でも、リモネは、抱き締めるのです。今も。そのときも。ふたりとも消えたとしても。

神秘→失墜→その先の希望→神秘→失墜→それでも……

ふたりの道筋をやがてアーエルとネヴィリルも通るでしょう。
その示唆のためのドミヌーラ×リモネです。
こうしてかれらは希望と絶望を、聖と堕を繰り返していくことでしょう。

シムーン』になぜ性が要請されたのか

西田:でも、「シムーン」は微妙なものを扱う題材なんで、ある程度、性的な部分にも踏み込まないと……。踏み込んでこその「シムーン」なんで。

西村&松田:その通り!

http://www.simoun.tv/special/kuradashi02_3.html (蔵出シムーン

監督、キャラクターデザイン、プロデューサーがみな持っている認識として、『シムーン』には性的な要素が必要であること。
ではなぜそれが必要になったのでしょうか。
オナシアによって、「シムーン=少女=揺れる存在」だと定義されました。
少女は聖と穢の間で揺れます。遠さと近さの間で。
性は近さです。性と穢れはしばしば重なります。カイムがアルティを嫌悪するのも、ワポーリフがモリナスに触れることを躊躇するのも、「近づきすぎる」「性」を、「穢れ」としているからです。
近づきすぎるということは、離れているときよりも傷つけあう可能性が高くなるということです。
性は身体を使うからこそ「近づきすぎてしまう」ことができます。究極に近づきすぎてしまえば、そこから離れるのも近づいたままでいるのも痛みが伴います。癒着というように。
結局近づいても離れても傷つけあうことになる。だから、離れたり、離れられなかったりして、少女は揺れます。
性を媒介することで、少女たちが剥き出しの心で近づいていることが表現できるのです。

シムーン』の「性」といえば、アムリアからネヴィリルへのディープキス、カイムとアルティの一夜の関係、パライエッタがネヴィリルを襲ったこと、パライエッタを誘ったカイムなど、様々な描写があります。

シムーンを起動するためのキスは、ふたりの心を半強制的に近づける儀式なのではないでしょうか。
翠玉のリ・マージョンを完成させるには互いに信じあうことが必要なのだとしたら、通常のリ・マージョンを成功させるためには前段としてふたりの心が近づきあうことが重要だと。
そしてキスは、心を近づけさせるために手っ取り早い物理的接近なのではと。
カイムとアルティは、キスをしたもののカイムがアルティの唇を噛んだため心を結ぶことにはならず、リ・マージョンは失敗したのでしょう。
逆に、最後に旅立つアーエルとネヴィリルの間に、唇の触れあいはありません。
地下牢で壁に阻まれた口づけ。そして、礁国の巫女が起動したため自分たちのキスは不要だったシムーン

地下牢のキスは、相手が「遠い」からこそ、より強く「近く」にある心が実感されるキスです。
遠くにあるものを渇望する。ふたりが社会を捨てて自由を求めたように。
一連のシーンは1話の翠玉のリ・マージョンの相似ではないか、と私は解釈しています。

・1話の翠玉のリ・マージョン
他国の一斉攻撃によって自由が失われそうになる
未知の自由(神秘)を求める
誰にも見られない、閉塞の場所(シムーンの中)
アムリアはネヴィリルにディープキスをする人。その「性」が他者に侵されそうになる
→そのため、閉塞空間(翠玉のリ・マージョン)へ追いやられる
→しかし水際で「見られ」(最後の一線も侵され)、失敗

・25話のキス
敗戦で強制的に泉の選択を迫られ、自由が失われそうになる
相手が見えない。=神秘。神秘を求める
相手を求める「性」が他者に侵されそうになる
閉塞空間(地下牢)へ追いやられる
結局他国の軍に引きずり出され(見られ)、失敗

25話のキスは「聖」であり「性」です。
互いが見えない断絶、遠さ。遠さが想いの純粋さを引き立てる。この純粋さは聖です。
西田亜沙子によるえもいわれぬ絵の肉感。唇、表情、紅潮、これらすべては「性」の文脈です。
そして絵は劇画タッチに転じて締めくくられる。この劇画タッチの神聖さと直前のエロさは混ざりあい、両立していると見るべきです。
セイというシニフィアンが共通している「性」と「聖」は、日本語文化圏においては、なんらかのシニフィエ的結びつきを想起させてしまうのかもしれません。

「性」は侵され、「聖」は貶められる。アムリアの翠玉のリ・マージョンと同じ道を25話で辿りました。
しかし『シムーン』が侵され、貶められたその先を見る物語なのは見てきたとおりです。

礁国の巫女と、かつての少女時代を思い出したアヌビトゥフとグラギエフによって希望は再び立ち上がります。
ここではもう、アーエルとネヴィリルにキスはいりません。
だってすでに心が深くつながっているから。

それぞれの物語

堕ちる。近づきすぎる性。その先にこそ生まれる"希望"。聖と穢の狭間で揺れる少女。選択。
見てきたワードを並べると、『シムーン』の群像劇をだいぶ整理できます。

パライエッタとネヴィリル

このふたりは幼い頃から一緒にいた者同士。アムリアがネヴィリルに「近づいた」ことで、パライエッタは傷つきます。
しかし、カイムに性的なことを誘われあわや「近づきすぎ」ようとしたとき、カイムが傷の上塗りをしたがっているように見えたパライエッタは、一緒に「堕ちる」ことを拒否しました。

パライエッタ「私たちはみな子どもさ。だから、傷を癒そうとしてその上に新たな傷をつくろうとする」
パライエッタ(ネヴィリルが選択を拒みつづけているのはアムリアのためだけでなく、私をいたわる気持ちでもあった)
パライエッタ「ネヴィリル、すまない。私はなにもわかっていなかった。私は、あなたに裏切られたとは思っていない!」
(『シムーン』6話)

新たに傷をつくることはせず、ネヴィリルが自分を思いやってくれていると思ったパライエッタ。
しかしそれは結果的に欺瞞に過ぎず、その後アーエルへの嫉妬に狂っていきます。
6話のこの台詞に対応するのが、25話のダンスでの会話。

ネヴィリル「私がアーエルを選ばなかったのは、あなたを二度も裏切るのがつらかったからじゃない。それは自分が傷つかないための方便……。私はいい子でいたかったのよ。ばかね。いい子でいたいなんて……なんて子どもなの。翠玉のリ・マージョンを完成させるためのパルとして、道具として、アムリアと、そしてアーエルに選ばれたと思い込んでいた。……でもちがう。一途な思いのふたりに魅かれたのは私のほう……彼らの方がはるかに純粋だったことに気づいたの」
パライエッタ「彼らは、自分が傷つくことを恐れない……」
ネヴィリル「ええ。その通りよパライエッタ。私は今、目の前の想いに生きようと思う」
(『シムーン』25話)

6話では自ら傷つこうとすることを子どもだと言い、25話では傷つくことを恐れることを子どもだと言う。
きっとどちらも本当で、大人のようには適切な距離が保てないから、近づきすぎたり離れすぎたりして過剰に傷つき、傷つけ、極度に傷を避けてしまう。それが子どもなのでしょう、それが「性」を要請した理由なのでしょう。
ネヴィリルもパライエッタも傷つくことを恐れた。だから離れすぎてしまった。だから、不安に思ったパライエッタは、ネヴィリルを押し倒し無理やりキスをして、近づきすぎてしまったのです。

でも、そこから始まるものを見いだすのが『シムーン』です。
近づく、すなわち堕ちることで、ようやくパライエッタはネヴィリルから解放される準備ができました。

パライエッタ「ネヴィリル……。私にも祝福をくれないだろうか」
ネヴィリル「え?」
パライエッタ「……」
ネヴィリル「……。……ええ」
パライエッタ「ネヴィリル」
(『シムーン』23話)

聖廟で祈りを与えられ、過ちを赦されたパライエッタは涙します。
ようやく、子ども時代を断ち切ることができたのです。

それは墜落からの浮上ではありますが、単純に大人への跳躍と見なすことではありません。
大人になって、近づきすぎず離れすぎず適切な距離を保てるような人になろうとも、過って(穢)、それを赦す(聖)という一体的なありさまをシヴュラと呼べるのだと言ったのです。
聖へと向かおうとする行為を選びとるのであれば、それはシヴュラなのだ、という定義しなおしをしました。
アーエルとネヴィリルが、戦いに真っ向から身を投じながらも未知の可能性に賭けて「永遠の少女」を追い求めることを選んだように。
また、モリナスが聖を追求する祈りから決別し、現実の性別二元論社会に迎合することを選んだのとは反対に。

それでもふたりとも、自分たちが確かにここにいたんだと刻みつけるためにアーエルとネヴィリルを見送る、という点で結びつくのですが。この世界ではかつてみな少女だったから、結びつかないはずがないのです。

カイムとアルティ

子どもの頃からずっと一緒にいた姉妹。それが、一晩の過ちで、性的な関係へと「堕ちる」。
性=近づきすぎる、という構図がいちばんわかりやすいふたり。
「子ども時代」という聖性が破られ、アルティは男になりたがろうとします。カイムを守れるようになろうと。無理に大人へと急ぎますが、空回り。
しかしネヴィリルに「抱きしめられて強くなるわけじゃない」と言われ考え直し、カイムから離れようとします。カイムのためにはそれがいいと。近づきすぎてから一転、今度は別離。
その極端さは子ども(近)と大人(遠)の間で揺れているからです。

最終話で、ヴューラとフロエは国の都合によって戦争で敵対関係になることが示唆されます。
大人の世界では、時に遠ざけあってしまうこともある。それを受け入れなければならないこともある。離れないためにはモリナスとワポーリフのように性別を分け契るしかない……。
揺れて千々になったアルティはカイムに煽られついに、本音をあらわにしてしまいました。

アルティ「私だって大人になるのは怖い。誰かに助けてほしい、守ってほしい!」
アルティ「姉さんのバカ、バカ!」
(『シムーン』24話)

アルティが本音をぶちまけることで、カイムは「アルティはバカだったんだ」と思い出します。
性行為によって急に大人になってしまったように思えたアルティは、しかし、罵倒する語彙もないただの子どもだった。
子どもと大人の間で揺れていた姉妹は、堕ちたその先に、ありのままの子どもの姿を見いだし、互いを知ってゆきます。
性関係を通したあとでアルティが「私がほしいのは、知らなかった感覚をくれた手じゃなくて、つないで歩いた優しい手……」と気づいたように。

カイムは、パライエッタが定義しなおした「過ちを許すこと、許されること……それができれば、私たちは性別を選んでもきっとシヴュラでいられる」を聞きました。
「あの夜じゃなくて、ぽかぽかした昼下がり」を求めた姉妹に必要なものは、異性同士になって守り守られ愛しあうことでもなければ、同性同士になって離れることさえ受容することでもありません。
許し許され共にいることだったのでした。ふたりが共にいる限り、きっと、シヴュラの心は永遠であるはず。

ロードレアモンとマミーナ

このふたりについては既に過不足なくまとめてあるブログを見つけたのでリンクを貼ります。
foxnumber6.hatenablog.com
このふたりには性の香りはありません。性だけでなく、「少女時代の、近づきすぎる関係」がなかった。
シムーン』の文法にのっとれば、だからこそ本当の友達になれないまま関係が途絶えてしまいました。
ロードレアモンがマミーナの想いを知ることができたのはマミーナの死後。マミーナが「堕ち」たあとにしか希望はなかったのでしょう。

ユン

「仲間の死と最も近い場所に立ち続けようとすることで、仲間の死から最も遠い場所に逃れようとして」。
死んだ仲間を誰より悼んでいたユンですが、その実際をオナシアに言い当てられられました。
「遠さ」の極北である死。コール・テンペストの誰とも深くは関わりあわなかった代わりに、ユンは「遠さ」の近くにいました。仲間が死ぬという苦しみから解放されたくて。
生きている仲間を遠ざけ、死を遠ざける。
ユンは自分が堕ちることを避けていたのでした。

しかしオナシアにそれを指摘され、オナシア自身の真実を知り。
オナシアこそが堕ちること、大人になることから逃げていたと理解したユンはオナシアを抱き締めました。
泉の周囲の岩を乗り越え乗り越え、オナシアに身体的に近づくこと。抱擁がオナシアを赦したこと。
オナシアは神秘性をはがされ、ユンに近づき、堕ちたことで赦されました。
ユンはといえば、それによって「堕ちた」といえばそうなのかもしれませんが、すこし弱い気もします。
「堕ちたその、先」として性別を選択したり、違う世界へ飛び立ったりしていたみなと比べれば、この世を永遠にさまよい選択しないままのユンの堕ち方は弱い。

しかしだからこそ、少女たちの節目にいちばん「近く」で寄り添い、受け止める泉の番人を選んだのかもしれません。
オナシアを初めとして、来る少女来る少女の「大声で叫びながら、恐怖で口から飛び出しそうになる内臓を押さえこんで、どこまでも」堕ちてゆく姿を救い見届ける役割を。
「仲間の死」から解放されるために近くにいることで遠ざけようとするのではなく、ほんとうに仲間の近くにいるために。
追悼のゆりかごは、ユンなりに近くにいることの証なのだと、私は解釈しています。

フロエ

この子はなんにもない笑
柔軟性が高いから悩み苦しむより先になんにでも適応できてしまうんでしょうね。
唯一、マスティフの町をその手で壊してしまったことで「堕ちた」経験が少女時代を翳らせます。
シムーン・シヴュラの穢れの部分を最も強く体感した者がフロエです。
その先に希望も可能性もなくても。男になって、またいつ戦争に巻き込まれるかわからなくなっても。
モリナスと同じように現実を見据えたように見えて、沈んだアルクス・プリーマ艦の隣で聖少女を想いながら生きていく、モリナスよりもう少しさびしさを色濃くした人生を選びました。

シムーン』におけるヘテロノーマティビティ・ジェンダー規範批評

末尾に。一応ジェンダーを取り扱う作品なのでそれなりのジェンダー批評は置いておこうと思います。

シムーンの大人の世界は、男女二元論かつジェンダー規範が強固な、ヘテロ恋愛しか存在しえない場所です。
少女同士の恋愛ははっきり恋愛と明言されこそすれ、大人になれば男女でなければ結ばれません。大人の世界で恋愛をやるなら相手と異なる性を選択しなければならない。
アーエルとネヴィリルは大人の世界、不自由な世界から逃亡しました。
しかしそれは既存の大人の世界を否定する選択ではありません。大人の世界の中で女同士で恋愛する者の居場所は未だないからです。ここが『シムーン』の手落ちであり、批判は免れない箇所です。

大切な人を守ろうとしたパライエッタとアルティは最初、強くなるため男になろうとしていました。
が、本当の強さはイコール男ではないと突きつけられ、ふたりとも最終的に女になることを選択しました。
ここは一面的にはジェンダー規範からの解放です。
しかしパライエッタは男になってネヴィリルと結ばれることを望んでいた以上、女になるということは恋の成就を諦めることと同義です。
「大人の女同士では恋愛できない」という意味づけを強化をすることになってしまいます。少なくとも、それをフォローする説明がなにもありません。
(実際最終回間際になってまで、フロエは「恋人がいるなら性別を選びやすいけど」というようなことを言っていて、大人の恋愛は男女間のみにあると示唆されています)
返す返すここは残念だと言わざるをえません。

しかし、『シムーン』で私が評価したいのは、性別を選択しない選択を肯定したことです。

オナシア「なにも選ばずに年を重ねた……その代償がこれです。私は永遠の少女になることができず、違う世界へも行けず、ここにいます。誰とも触れあえることなく、誰にも抱きしめられることなく。それでも私は、ここにいます」

オナシア「性別を選ばなかったからこそ、私は泉の番人に選ばれたのです。少女たちが私と同じ過ちを繰り返さぬようにここに立ちつづけることが、現実から逃げつづけた私への罰なのです」
(『シムーン』24話)

代償。誰とも触れあえない。過ち。現実から逃げる。罰──。
性別を選ばないことを、これでもかというくらいネガティブに意味づけするオナシア。

ですがユンはそんなオナシアのありさまを赦したのです。
オナシアは泉に佇み少女の通過儀礼を見守る役割を罰だと言いますが、ユンは自らそれを引き受ける。意味づけなおしました。
「性別を選ばない」ことを選ぶ。
現実においてXジェンダーやクエスチョニングは男/女どちらかである状態を選んでいません。それを大人になっていない、幼い、と糾弾されたりしますが、その状態をユンは肯定したのです。


以上。解釈に迷うところもありましたがそこは自分なりの見解でいいかな、と。

*1:グラギエフはその揺れを見つめ守ろうとしました。アヌビトゥフは最初、「私たちのやっているのは戦争だよ……」とどちらかといえば司兵院側の立場でしたが、グラギエフとシヴュラたちを見るうちに徐々にその揺れに気づいてゆきました

*2:ひとつ批評をすれば、『シムーン』はこの「アーエルとネヴィリルが堕ちて、その先を求める」という作品構成上最も重要な展開を描く力が弱かったかなと。マミーナの死がふたりの今後の希望に関わるならもっと突き詰めるべき描写があったはず。そのため全体的に主人公ふたりの行動原理がぼやけてよくわからない印象になってしまったと思います。(壊れかけの舟を補修しながらリアルタイムに海原を渡る作品でここまで整合性を持たせたこと自体は評価に値しますが)

*3:なんかネットの感想見てたらオナシア=ドミヌーラ説がちょいちょいあったけど私は支持しません……。オナシアが性別を選ばなかったのは現実逃避のためであり、ドミヌーラの覚悟の選択とは全く別物なので