青い月のためいき

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誰かが生きるために誰かが犠牲になる話──2010年代アニメの雑感から幾原邦彦に寄せて

天元突破グレンラガン』『プロメア』『天気の子』『コードギアス反逆のルルーシュ』『コードギアス反逆のルルーシュR2』『艦隊これくしょん-艦これ-』『機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ』『魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語』『selector destructed WIXOSS』『セーラームーンR』『少女革命ウテナ』『少女革命ウテナアドゥレセンス黙示録』『輪るピングドラム』『ユリ熊嵐』『さらざんまい』のネタバレがあります。
この量注意できるか? タイトルに色つけますので困ったらそれ目印に避けてください。
特に『天気の子』は劇場公開中ですが容赦なくネタバレします。




2019年のエンターテイメント作品は、同時多発的に「犠牲はよくない」「自己犠牲の否定」を打ち出しています。
どうもこの動きは国内外問わずトレンドになっているらしく、範囲が広すぎて私程度ではとてもとても扱いきれません。

のですが、一応自分が観測した範囲の話をします。
主に国内アニメについて。それでも扱いきれないことに変わりはないのですが、雑感は整理できそうだと。

まずここで扱う「犠牲」ですが、「なにかと天秤にかけられて、なにかの目的*1のためにすり減らされる個人のいのち」を指します。
誰かが生きるために犠牲になる個人の話に絞ります。

マリス「誰かが生きるために誰かが犠牲になる。そんな世界を捨てて生きよう、総士
(『蒼穹のファフナーTHE BEYOND』1話)2019

燕太「自己犠牲なんてダセエ真似すんな、馬鹿野郎」
(『さらざんまい』10話)2019

私の関心としてはファフナーとイクニ作品が中心なのでここから。
ファフナーはシリーズを2004年から15年続け、ずっと戦争の犠牲になっていく子どもたちを描いてきました。
幾原邦彦は初オリジナル監督作品少女革命ウテナが1997年。以降長らく自己犠牲エンディングを飾ってきた。

それがここにきて重なったのはなぜでしょうか。
個人的印象ではありますが、理由を以下にまとめます。

1.世界情勢が不穏になっているため、絶望で不安を煽られるよりも希望が必要とされている。

2.個の尊重意識が高まり人権が顧みられてきている。全体主義に疑問が呈されはじめている。

3.犠牲アニメの流行と終焉。犠牲肯定の次は必然的にそのアンチテーゼが芽生える。

1と2は世界的潮流の話(扱いきれなさすぎる)、3はアニメのトレンド的問題に分けられます。相互に関わりあいますが。


1.世界情勢が不穏になっているため、絶望で不安を煽られるよりも希望が必要とされている。

さて、ひとつめ。
これは簡単に裏づけが取れます。(……と言っといて、文字媒体に残ってないイベントレポを複数見つけるのに苦労した……イベントレポは沢山いいねブクマしとこうね……)

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟 - Yahoo!ニュース

――『天気の子』の主人公たちも10代です。先の見えない時代を生きる10代に対してエールを送る気持ちがあるのでしょうか。

うーん、スッと簡単に説明できないことではあるんですが……。まずひとつ現状として、世の中がだんだん不自由になってきている感覚がありますよね。それは僕個人が感じている部分でもあるし、周囲でもメディアでも、日本の将来についてあまり楽観できないという話は多い。何かが、今あまりよくない方向に向かっているという感覚は、結構な数の人が共通して感じていることだと思います。でも、子どもにはその気持ちを共有してほしくないんです。
例えば、僕らは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」と感じて、ある意味、右往左往しています。でも、今の子どもたちにとっては、それが当たり前なわけですよね。ですから「異常気象だ」なんて彼らは言わないし。『天気の子』は雨が降り続いている東京が舞台ですが、帆高も陽菜も、雨が降り続いてることについて何もネガティブなことを言わないんですよ。周りの大人たちやニュース番組はそういう話をしているんですけれど。そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました。


TRIGGER NIGHT Vol.X 〜世界大炎上、新宿不完全燃焼〜2019.06.07 にて
(以下『プロメア』『天元突破グレンラガンネタバレ)




『天気の子』(2019)は世界と少女を天秤にかけて少女を選び、それでも地に足つけて生きていくことを肯定する話です。君の名は。(2016)以前のような、頽廃的喪失感を描かなくなった。
『プロメア』(2019)は差別による犠牲の否定の話。被差別者たちを燃料にすることで他の人類を救済しようとしたクレイ・フォーサイトを否定し、誰も死なずに世界を救う。天元突破グレンラガン(2007)の犠牲を越えて。
世界の閉塞感。不穏な空気。こんな時代に描くべきは無常な非情ではなく確かな「生の実感」の手ごたえなのでしょう。


2.個の尊重意識が高まり人権が顧みられてきている。全体主義に疑問が呈されはじめている。

全を維持するために個に皺寄せがいくことは許されるのか。あるいはトロッコ問題。
こういったテーマを扱った作品は枚挙に暇がありません。
たいてい1シリーズ完結ものでは「全も個も両方たすける」になりやすい。世界のために個人が殺されてはならないし、だからといって世界を放置していいわけでもない、を丸く収める。

世間的な空気としては労働搾取なんかは大きく問題化されてきていますし、ハラスメント問題や人権も昔よりは顧みられるようになっています。
とはいえ、まだまだ全面的に同意を得られているわけではありません。
このまえTVCMで「周りを気にしてばかりじゃなく好きに生きようとよく言います。……でも、本当にそれでいいのでしょうか」みたいなニュアンスのことを言っているのを見てびっくりしました。なんのCMか忘れましたが。
個人の人権が大切、と言っても、古来個より和を重要視してきた日本文化の中にあっては社会より個人を取るのは感覚的に受け入れがたい面がぬぐえません。
揺り戻しもまたあるのです。

アニメに言及しているこの記事を読んでくれる方にはぴんとこないかもしれませんが、個人的に2018年有安杏果ももいろクローバーZ卒業のときの空気がちょうどそんな感じでしたね。
ももクロはみな好きで「ももクロ」に奉仕しているという幻想を壊してしまった杏果に対し。
「杏果の人生なんだから好きに生きてほしい」「無理させてまで引き留める真似はできない」良識的な意見。
一方で「今までももクロに世話になってきて、勝手に辞めて好きなことしたいだなんてわがままだ」と糾弾する声。
基本的には良識的な意見が多かったものの、糾弾もそれなりにありました。
個人の尊重と全体への同調圧力のはざまです。*2
あまり詳しくないですが、嵐の解散宣言のときも「個人の意見が尊重される」ことに時代を感じた方も多いでしょう。


翻って、アニメでは。
けものフレンズ(2017)が象徴的です。

けものはいてものけものはいない
(『けものフレンズ』OP)2017

サーバル「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから!」
(『けものフレンズ』1話)2017

個を蔑ろにすると、のけもの(=犠牲)が発生する。皆同じであることを強要すると、「不得意なこともやれ」になる。
けものフレンズは真逆です。個を尊重し、それぞれの特性が違うことを認めて共生できると描きました。
だから、二期はのけものを出して批判を浴びたのです。*3

『プロメア』が差別問題を扱い個人の人権と全体主義の対立を描いたのも必然的な流れです。
差別を描く上ではまだまだ未熟といえますが、とりあえず日本アニメで全に殺される個を差別と絡めたのは第一歩です。(聲の形は差別問題といっても社会と全体主義を扱う範囲は狭かったので)
全体主義への疑念が萌芽してこその『プロメア』です。


ちょっと前よくあった便利設定に「人類補完計画」があります。つまりみ~んな一緒に単一体になって他者がいなくなれば争いもなく平和だよ、というラスボス。
これは全体主義の隠喩でもあります。
というか、個が全に殺されることを正当化しがちな文化圏においてはそれくらい突き抜けなきゃグロテスクさが伝わらない側面もあるから便利に使われたのだと個人的に思っています。

コードギアス反逆のルルーシュは2006年~2008年ですが、ここにある「世界(システム)への反逆」を描いています。
しかしながら基本的にルルーシュの前に立ちはだかるのは帝国主義であり全体主義ではありません。(この記事で扱う「救うべき世界」すべてが全体主義と接近しているわけではありませんが)
システムを否定しながら、守りたいのは「弱者」でありつつ「個人」ではない。
ルルーシュが指揮した黒の騎士団はルルーシュを頂点とするトップダウンで動いており、そこに団員ひとりひとりの意見を尊重する体質はありません。ルルーシュの情緒が不安定になれば体制が崩れ個人はあっさり死にます。
そこでは上記のようなSF的全体主義はラスボスではなく章のひとつで否定されるにとどまります。
最終的にはルルーシュもシステムに成り代わったように見えて単なる個人でしかなく、システムを引っさげつつ個人として死にます。
『プロメア』で描かれたような「個人として生きている人間を十把一絡げに属性/所属へと押しやる差別への抵抗」とその達成はこの時点では描けなかったのでしょう。

イクニ作品でもユリ熊嵐(2013)で「透明な嵐(=同調圧力)」をど真ん中のテーマに据えたのはこのへんの個の尊重という流れがきていたからだと思います。


3.犠牲アニメの流行と終焉。犠牲肯定の次は必然的にそのアンチテーゼが芽生える。

これも雑感なのですが……。取りこぼしが多いので間違ってたらご指摘求む。なるべくヒット作有名作に寄りますが、基本は自分が触れたことのある作品を挙げるので偏ってます。

キャラクターがコミュニティや世界のために死んでいく作品は昔からひとつの類型としてあったと思います。アニメでも戦争やバトルを描く限り付き物で。
私の記憶にはダイの大冒険ダークグリーンといった英雄による犠牲エンドがあります。

2000年代初期はか弱い少女が戦いによってすりへらされる作品が特に流行りました。『GUNSLINGER GIRL(アニメ2003)最終兵器彼女(アニメ2002)ほしのこえ(2002)など。
2000年代半ばは当初の類型に戻り少年少女かかわらず。『蒼穹のファフナー(2004)『ぼくらの』(アニメ2007)など。
「誰かが生きるために誰かが犠牲になる」物語です。

この時期鬱アニメ全盛期と呼ばれ、痴話バトロワなんでもありの殺伐とした作風が流行りました。
で、そのとき裏をなすように日常系アニメが流行しはじめます。『らき☆すた(アニメ2007)ARIA The ANIMATION(2005)など。ネットスラング的な意味での日常系というわけではないけど『涼宮ハルヒの憂鬱(アニメ2006)も入るか。これが2005年ごろから?
鬱アニメが鳴りをひそめてからも日常系のヒットは続き『けいおん!(アニメ2009)もそのひとつ。

それがしばらく続いたあと、2011年に魔法少女まどか☆マギカがきました。
ふたたび「誰かが生きるために誰かが犠牲になる話」流行の到来です。
まどマギによって、か弱い少女が大いなる世界・システムに翻弄されるドラマティックな悲劇がまた求められるようになりました。
結城友奈は勇者である(2014)selector infected WIXOSS(2014)はれっきとしたまどマギフォロワーです。

ここで輪るピングドラム(2011)進撃の巨人(アニメ2013)なんかがきます。誰かが生きるための誰かの犠牲。

そんなことをやってたら2015年、アニメ艦隊これくしょん-艦これ-での死。
当時の流行、美少女/戦闘/3話で悲劇。くふうなくノルマをこなすように少女を無慈悲にさらした脚本に視聴者が呆れたとき、流行の終わりが見えてきました。

そこから2015年春-2017年冬機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズがきます。

序盤の視聴者の空気感は感想漁ったからよく覚えてます。
3話。敵ギャラルホルンから来た、「子どもたちが搾取されて戦わされるなんてあってはならない」と言ってくれる人のいいおじさんを、主人公がにべもなく殺す。
しゃらくせえこと言ってんじゃねえ、現実はこうだ、だって敵じゃん。殺してはい解決。拍手喝采
キレイゴトを拒絶し殺伐さを「現実だから」と称揚する視聴者の空気を、主人公のキャラクターはうまく捉えました。
そして一期はテンプレート的にドラマティックな死をひとつひとつ描いていく。*4

しかし二期から雲行きが怪しくなっていきます。脚本がぐだぐだになり、話が回収できなくなっていく。
結局2016年末ごろから、「仲間の命が無駄にならない道」を示唆されながらも主人公たちは進んで戦いに殉じてしまいます。
まあなんとも、「キレイゴトを鼻で笑って現実はこうだからと闇を受け入れていったら虚無しか残らなかった」好例です。
後味が悪かった。

ここが犠牲流行のピークと結末だったかなと。明らかに犠牲疲れしてました。消費者は。*5
このあとに「犠牲の否定」が来るのはあまりにも必然といえます。

まどマギにしろ結城友奈は勇者であるにしろWIXOSSにしろ、続編で個人が生け贄になることを救済してみせたので。
そういえば『ゆゆゆ』も二期でSF的全体主義への抵抗を描きました。
WIXOSSなんか、TVシリーズでたったひとりのけものにされた悪役キャラクターを、劇場版で救いましたからね。


幾原邦彦監督作品に寄せて

さて。2019年、国内アニメ産業で犠牲の否定がトレンドになっている理由を雑駁に推測し整理したところで、幾原邦彦監督作品とファフナーの分析にそれぞれ入ります。(ファフナーは次の記事で)
まずイクニ作品。

私も幾原邦彦が関わったすべての作品を把握しているわけではないのですが、『さらざんまい』の自己犠牲否定はイクニファンの間でなかなか衝撃をもって受け止められました。
少女革命ウテナ輪るピングドラムユリ熊嵐はどれも身を呈してすこしだけ世界を変え、それと引き換えに自らを犠牲にする人の話だったからです。

しかしセーラームーンR』(1993)ではセーラームーンは「大丈夫、あたし、死なないから。みんなで一緒に、地球に帰ろ」と言って事実誰も欠けることなく生還しますし、劇場版少女革命ウテナアドゥレセンス黙示録』(1999)ウテナは個を潰しにかかる蜃気楼を打ち破り、命を費やすことなくアンシーと手と手取り合いました。
これをどう解釈するか。

なんだ、たまたま目立つ作品が命投げ出してただけで別にそうじゃないのもあるんじゃん、と言ってしまうこともできると思うのですが、個人的にはもうすこし掘り下げてみたい。

『アドゥレセンス黙示録』についてはパラレルではあるものの実質ウテナテレビシリーズの続編なので、まず(3.)で言ったアンチテーゼが当てはめられます。
テレビシリーズで犠牲を描いてしまったからこそ、次はそれの否定をせねばなりません。必然的に。
でもそれだけではありません。
ウテナといえば38話、つまり最終回直前の予告が示唆的です。

「ごうがーい! ごうがーい!」
「う! やられた! 後ろからいきなり!」
「まあ、ディオスおじさまじゃ本当のお姫様になれないわ~」
「おぉ……、そのとき、奇跡の力で僕は本当の王子様に!」
「どうせアニメでしょ、それって?」
少女革命ウテナ、最終回『いつか一緒に輝いて』。かしらかしら、本当かしら~!?」
「はいはい、絶対運命黙示録……」
(『少女革命ウテナ』38話)1997

「どうせアニメでしょ」「はいはい」。
どうせ奇跡が起きてご都合主義的にどうにでもなるんでしょうというメタ的な突っ込み。
アニメのそのレボリューショナリーマジックに冷めているのが最終回直前です。
どうせアニメでしょ、現実は革命なんか起きないってみんな知ってるのに。ウテナじゃ「アニメ」なんかやりませんよ、というニヒリズムです。

アニメは生ぬるい。現実は残酷。
ウテナはその真実を突きつけた最終回でした。(突きつけるだけのバッドエンドで終わらないのが名作たるゆえん)


ところが2019年『さらざんまい』
毎回、どーすんのこれ? と大ピンチになっているときにマスコットキャラ・ケッピが都合よく助けてくれます。
ボールになって春河を救出するし、身を呈して命を賭した真武も、死んだと思われた玲央も、なんか都合よく帰ってくる。
まあケッピだし、カッパだし、いっか。
便利すぎて逆に扱いづらくなれば登場を制限するためだけに凍結して車に轢かれもするケッピ、なにもかも唐突すぎて都合よすぎて「ご都合主義じゃん!」とも突っ込めません。だって突っ込まれる前に「ご都合主義だよ!!」って向こうが手を振ってくるから。
イクニ作品でかつてなくマスコットキャラが本編の展開に関わってくる。ケッピは「どうせアニメ」の体現です。

現実は残酷で、アニメみたいにはいかない。──なんて、今描くべきは、今子どもに伝えるべきはそれじゃないんです。

セーラームーンR』『アドゥレセンス黙示録』との相違もそこです。
セーラームーンR』では一度セーラームーンが命を失いました。けれど、敵だったゲストキャラが心を取り戻した暁にセーラームーンを救ってくれ、そして消えます。
『アドゥレセンス黙示録』では、本編の尺半分くらいが個をすりつぶしてくる概念(世界)との戦いに費やされました。ただただ延々車でレースしてるだけ。そしてサブキャラクターも世界に使いつぶされ美しくいなくなりました。

そうでもしないとイクニワールドで誰もいなくならない世界が現実味を帯びなかったのです。だって説得力がない、「どうせアニメ」に堕す。

『さらざんまい』はその葛藤を越え「どうせアニメでい~じゃん!」と言ってくれたのです。犠牲なんかいまやる必要ないない。
それでも『さらざんまい』の上手いのは、最終回エンディングを丸々少年院の描写にあてたところでしょう。
人を殺した久慈悠。その内面の苦渋は乗り越えたので別に実務的に裁かれなくても誰も文句は言いません。だってどうせアニメだし……。
でもイクニはそれを「ここ! 現実だからね!」とピシャリと忠告したのです。このバランスよ。
大いなるもののための犠牲がないはずの世界の代償と贖罪、その第一歩。

そして悠の兄久慈誓もまた世界の犠牲者であり、悪いことをしてきました。その報いを受けて死にます。
さすがにカッパはご都合でこの世に帰ってこれても、人間は生き返れない。悪いことをしたら、不毛な悪の世界ですり減らされてしまう。
すべてをカッパで誤魔化さなかったから「世界はクソだがそれでも生きていく」リアリティを描けたのです。

以上がイクニ作品と「犠牲」描写です。


つづき→
koorusuna.hatenablog.jp
00年代からの10年代と新海誠ファフナーの話。

*1:戦争、世界を守ること、誰かを守ることなど

*2:現在の有安杏果への批判は別の点にあるのであくまで「あの当時」の話です。ファンとして言いたいことはあるが割愛

*3:詳しくは→「けものフレンズ」1期と2期の物語構造の違いを真面目に考察してみた(2万文字記事)【物語論】 - ”Notice" homla's blog。他ブログさんへのリンクです。

*4:"死"の描き方そのものの話は別の考察に譲ります。→鉄血のオルフェンズ22話までとりあえず感想「ドラマになる死とならない死」 - 銀河孤児亭これも他ブログさんリンク

*5:ついでなので他ネットメディアのリンクも貼ります。「犠牲疲れ」とは石原さとみが「女子力の権化」からフェミニストになった瞬間(西森 路代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)の「女子力疲れ」にあやかっています