青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとか社会を考えるオタク

ももいろクローバーZ佐々木彩夏『AYAKA-NATION2016』客体と主体、他者と自己の境

あーりんあーりん!!!
ももクロは在宅ですので初めて2016年9月19日開催あーりんのソロコン見た。あと私はずっと杏果推しです。
最初感想ブログのほうにあげようと思っていたのであんまりなにが言いたいかわからない(立てた問いにうまく答えてない)全体的にだらだら語ってるだけ。
オープニングばかりか特典映像のナレーションまで喜安浩平さんで嬉しいテンション上げたうきうき声笑っちゃう。






主体と客体、自己と他者というのは私の関心事のひとつですが、それらの境目を揺るがしたという意味でこのコンサートはめちゃくちゃ「アイドル」とはなんなのかに切り込んできたな、と思った。

あーりんがプロアイドルとして確立しているのはいまさら言うまでもないことなので、このライブのすごさはあーりんがアイドルとしてのザ・アイドルを凝縮させてやってのけたことそれ自体ではなくて、一体"あーりん"はどこに存在するのか? アイドルは客体なのか? 佐々木彩夏とは誰なのか? を全身で問うたことにある。


アイドルはコンテンツである。ゆえに「見る」主体ではなく「見られる」客体である。
アイドルは基本的に若い女であるから成立する。かれらは若さと女性性を消費される。性を遠ざけたももクロに至っても完全に振りきれているとはいえない。

"あーりん"は佐々木彩夏の演じる概念である。かわいくてピンクでハッピーでキラキラした女の子。あーりんはアイドルなのでどこまでいっても客体である。

しかしあーりんは単なる客体ではない。"演じている"ことも含めてあーりんが完成するからである。
だから、「あーりんはあーりんを自分の意思で演じているのだ」と、我々ファンはそこにあーりんの主体性を見る。



『イマジネーション』は壮大な恋愛ソングである。
ももクロは恋愛ソングがオタクへの営業疑似恋愛へとはならなくなるようなグループであるが、このあーりんソロは早着替えのサプライズを繰り返しファンシーと楽しさを全面に押し出し多幸感に溢れている。
あーりんが"あーりん"としてやりたいことの特盛大放出といった様相だ。
とにかく楽しい。とにかく暑苦しくて愛くるしい。
そんな"あーりん"をやっているあーりんに自然と涙が出てきた。楽しくてありがとう。アイドルでありがとう。
そしたらラストの「待ってるね」で不意を突かれた。

アイドルの恋愛ソングで最高にいい箇所に入ってる「大好き」とか「抱きしめて」とかいう台詞調の歌詞は飛び道具である。
絶対はずさない、破壊力が高すぎる、一瞬でその子に惚れてしまうキラーリリック。
『イマジネーション』の「私とあなたにしたい」「待ってるね」も同じで、夏菜子ちゃんがそう語りかけるだけで恋の落とし穴にはまってしまう。
このあーりんソロは恋愛ソングではない。ももクロ的な、という修辞をつけてさえ。
「私とあなたにしたい」も「待ってるね」も夏菜子ちゃんほどの殺傷力を持たない世界を構成している。
あーりんの「待ってるね」、これは、偶像としてのアイドルあーりんの結晶だ。

まなざされる客体アイドル。
崇拝されるアイドル。有象無象ファンの愛の大洪水を受けとめその倍以上の愛を惜しみなく振りまけるアイドル。好きになってくれるみんなが好き。向けられた愛の形がなんであれ怖がることなく吸収できるアイドル。客体だから。アイドルだから。
そういうアイドルになることを主体的に選択したのだ、あーりんは。
誰かにやらされているのではなく、自分で考えて自分で演出して自分の声で歌っている。"あーりん"になりきるために。
その意思の強さに涙がとまらなかった。



『スイート・エイティーン・ブギ』の「かわいいだけじゃないからね」は、『ピンキージョーンズ』の「かわいいだけじゃものたんなぃなぃ」にも共通する「私は黙って客体としてのみ存在する人形じゃない!」という主張をコミカルに歌い上げた静かな闘志だ。

【早期購入特典あり】AYAKA-NATION 2016 in 横浜アリーナ LIVE Blu-ray(メーカー特典:B3サイズポスター付)

そして実際あーりんはかわいいだけじゃない。
ライブ序盤のどぎついピンクと黒の衣装で飾られた過剰すぎるほどの「かわいさ」を詰め合わせたあーりんから、過去のアイドルの踏襲、『イマジネーション』のアイドル性爆発、しっとりとしたバラード、曲間のコメディアン的映像、ロック全開のかっこいいあーりん、巻き舌で観客を煽るあーりん、セクシーさが「圧」となるあーりん。
目まぐるしく次々に変貌しながらすべてを完璧に演じるあーりんは、たしかに全部いままで知っていたはずの姿なのだけど、こんなにも多面性があったのかと驚かされる。
そしてどれもが演じられたあーりんなのだと心のどこかで理解していながら、次第に「どれが本当のあーりんなのだ?」と不安がもたげてくる。
それでも混乱はしない。あーりんが主体的にそれを選びとったのだという根底は変わらないからだ。それがあーりんの核を成しているからこんなに沢山顔があっても受け入れられる。
「かわいいだけじゃない」が歌わされる歌詞でなくあーりんの言葉として捉えられる。

あーりんは全身で叫んでいる。
自分のやりたいことをやる! みんなの見たいあーりんでいる!
そこに潜むのは矛盾だ。

「自分のやりたいことをやる」のはあーりんの主体性。自己表現である。
「みんなの見たいあーりん」は客体性。偶像としての他者である。
それをまとめあげる力をあーりんは持っている。
2013年春の一大事コメント「ライブ中も盛り上がるけどどっかで冷静に考えられる自分がいたりする」、ラストのコメントでの「この"あーりん"っていう存在をみんなが好きでいてくれるのがすごく嬉しい」「みんながこうやって来てくれるから私は"あーりん"でいつづけられる」というどこか別人として扱う器量。
アイドルとして存在する"あーりん"を切り離して俯瞰することであーりんはあーりんを保っている。
いつもあまりに完璧にこなすものだからつい忘れてしまうけれど、あーりんは「アイドルを完璧にこなす」ことを目的にはしていない。
そのため偶像らしからぬ言動をよくするので、切り離すことで完全体として安定化してしまうのはどこかアンバランスであると我々は意識してしまう。
ずーっとあーりんだけのステージを見ているとあまりに振り幅があるのでこの矛盾とアンバランスさが際立つ。


f:id:koorusuna:20170809153150p:plain
あーりんソロコンで横アリが一面ピンクに!78回あーりん連呼の新曲も - 音楽ナタリー

白いウェディングドレスでステージに現れたときはすこし身構えた。
露骨な処女性。裾の長いドレスでうまく身動きも取れなさそうな、真っ白に去勢された綺麗な「女の子」。過剰なかわいさで女性性をカリカチュアライズする「あーりん」とは別物に思える。なにか汚れのない清廉な歌を歌うのだろうか。

歌い出したのは浜崎あゆみ『ever since』。
あとで聞けば浜崎あゆみリスペクトとしてのウエディングドレスだったらしい。
眉間に皺を寄せて魂をぶつけた声だった。
身動きが取れないのが逆に暴れだしたい心を規制し、体の衝動をすべて声にぶちこむことで感情が純粋化されているように思えた。
それはさながら「あーりん」に閉じこめられたあーりんがわざと女らしくない振る舞いをするときの相似形みたいだった。



f:id:koorusuna:20170810154238p:plain
あーりんソロコンで横アリが一面ピンクに!78回あーりん連呼の新曲も - 音楽ナタリー
私はここにいるよ、という叫び。かわいいでしょ。かわいいって言ってよ。でもかわいいだけじゃないからね。
つづけざまに黒いセクシーなワンピースでアップテンポなロックを開放するのは偶像の反動。
その振り幅こそがあーりん。その不安定さこそがあーりん。
「かわいくてザ・アイドルだけどがさつなところもあれば暴れだしたい衝動もある」あーりんパッケージ。
慣れない出ずっぱり歌いっぱなしのステージで中盤疲れが隠しきれはしなかったのにすぐに持ち直したとき、あーりんのプロ根性が見える。
そういうときでも、いやそういうときこそ、ダンスは指先まで美しくしなやかに。
立っている。自分の足で立っている。
緊張で顔が強ばってもそれを押さえつけ前に進むだけの胆力、これがあーりんの底力でなくてなんだというのか。



キューティーハニーに代表されるちょっぴりセクシーな曲群と体のラインを意識させる衣装振り付け。
偶像の概念をばらまきながらステージを作っていたところに、ふいにアイドルが肉体を消費される存在であることを思い出させる。
若い女の体。女性的な丸み、むちっとした曲線、ももクロではいちばんある胸。
あーりんの丸い顔は心ない言葉を浴びせられることも少なくない。そういうときの自分の体が奪われるような感覚を、アイドルじゃなくても、多くの女性は知っている。
あーりんが肉体を押し出すとき、この不安が同時にやってくるのだ。
アイドルとは消費の視線という凶器にさらされた不安定な存在なのだと思い出させる。

それでもあーりんは自分の体をけして手放さない。かわいさと同様セクシーさも戯画化する。ももクロのメンバー同士で体の特徴をいじりあうのは単なる自虐ではなく身体性を戯画化し自己像をデフォルメ化して体を取り戻す試みなのではないかと思えてくる。
ふと挑発的な表情をしたかと思えば子供みたいに照れ笑い、自分のなかから自然に女性性が涌き出てくるのではなく自分こそが女性性を表現するのだというシグナルをそこかしこで送るあーりん。
だから安心する。あーりんは主体的に自己表現しているのだと。

滅多にぶれた感情を見せないあーりんが感極まって涙ぐむ『Link Link』。ついにあーりんの仮面がはずれた瞬間を目撃できたのかもしれない。
「涙を卒業すると決めた」と歌った瞬間に涙を思い出したあーりんにアイドルの矛盾とアンバランスと不安定さが凝縮されているような気がする。




アイドルの主体性はどこにあるのだろう。
アイドルの本当の姿はどこに。
アイドル自身はなにを望んでいるのか。それは実は望まれた姿であって主体的な自己などどこにもないのではないか。
それらを想起させながら、力いっぱいの笑顔ではねのける強さ。

そうして安堵したのに。
『あーりんはあーりん』でひっくり返された。

あーりんはママ ママはあーりん
あなたは私 私はあなたなの
さあ 今ひとつになるのよ

(『あーりんはあーりん』)


そうなのだママがいた!!
特典映像を見ると「ママにとって私は? 自分なんだと思う」とからっと笑うあーりん。
あーりんママまじでそこまでなのか……いやうーん知っていたけど、自分の願望を娘で叶えようとするたぶん毒といっていい親なんだけど、あーりんがママなのだとしたら、じゃあ、あーりんの主体性は?
そこに立っている女の子は一体誰。
ぞっとした。

もっともあーりんはずっと自分のなかのママと格闘しつづけてきたから歌えるし、さっぱり笑える。
その昇華のひとつが『あーりんは反抗期』でもあったはずだ。
しかし今回この曲が『だってあーりんなんだもーん』を残して最後の最後に歌われたことで、演出からなにからゼロから作り上げてきたこのソロコンサートの根底を揺るがしてしまった。
あーりんの色んな姿を総ざらいしてきた。
アイドルのコンサートという構造上「見られる」ためだけのあーりん像を演じきってきた。
我々が安心してそういう作られたあーりんを見ることができるのは、それが紛れもなく佐々木彩夏自身の手で積み上げた人生の一部であると思っているからだ。

なのにそれがあーりんの人生でないとしたら。
ママの自己実現の道具として使わされているだけならば。

そんなことはない。わかってる。
あーりんは頑張ってママと折り合いをつけているし、たとえ芸能界に入ったのがママの思惑であっても、もうあーりんの人生はあーりんのものになってるはずだ。

わかってるのになんだかあーりんの後ろにママの影が重なってしまう。
今までほんの一瞬ごとに「見えた」と思っていたあーりんの主体性固有性が、紛い物である可能性が立ち上ってしまう。
あーりんがあーりんでなかったら、ももクロももクロでなかったら、あーりんはいつまでもママでしかいられなかったのではないか。
ありえたかもしれないママの手足としてのあーりんの人生が、ステージに作り上げられた"あーりん"に透けて見える。


客体としてのアイドル性を過剰に振り撒くことでアイドル性を逆手に取って主体性を確立しているあーりん。
受け身な甘えを許さず周りをよく観察して真剣に仕事に打ち込むあーりん。
完璧な客体アイドル像を演じきる一方オフにしたとたん照れまじりに破顔しがさつでさっぱりした一面も隠さず奔放に振る舞うあーりん。

そこにあーりんの主体を見ていた。
でも私ウェディングドレスで尊敬するあゆをしっとり叩きつけるように歌うあーりんは知らなかった。
ふと見せる真剣な表情のなかに知らない顔があった。
アンコールも終わりあとは終幕を告げるだけとなったとき、「あ~~~これあーりんがバイバイって言ったら終わっちゃうよ!」と名残惜しさを見せ、後ろ髪を引かれるがごとく数歩ごとに客席を振り返りファンに甘えるあーりんは知らなかった。これは私が在宅だからなのか。
あーりん、実は隠している本当のあーりんがまだいるんじゃないの。みんなの見たいあーりんに縛られて自分のやりたいことをまだ押さえているんじゃないの。もっと佐々木って呼ばれたいときがあるんじゃないの。

我々が観測しているあーりんは客体なのか。主体なのか。観測者が観測者であるかぎりそれは永遠にわからない。
こぼした涙だけが本物だなんて薄っぺらさにあーりんを押し込めたくない。

あーりんの立つ舞台は本当にあーりんの人生の舞台なのか。
ママは本当にあーりんじゃないのか。ママはどこまで他者なのか。あーりん自身を見てくれるファンは本当にいるのか。


アイドルは誰のものだろう。
アイドルとしての人生は誰のものだろう。誰かのものならばアイドル本人はどこに行ってしまうんだろう。
明確な境目なんて本当はない。
あーりんは客体も主体も全部ぎゅっとしてうねりあげる"あーりん"を作っているし作られているしきっとママが好きだしママの興味ややりたいことも自分のやりたいことに埋め込まれている。
そんな混沌としたあーりんこと佐々木彩夏のステージだから、アイドルが根源的に持ち合わせる「その意思は、その身体は、本当に自分なのか?」という不安定さを浮き彫りにしたのだろう。
アイドルは不安定な存在である。意思の強いあーりんでさえアイドルであるがゆえに不安定である。
しかしあーりんはアイドルの不安定さを暴けるだけの折れない芯がある。あるからこそその芯が少しでもぼやけたときに「一瞬前とちがって不安定になってしまった」ことがわかるのだ。


アイドルはどこまでいっても客体であり、主体であるファンの視線ひとつで存在を左右されてしまう。

10代 20代 30代 40代 年齢はただの数字でしょ
(『あーりんはあーりん』)

「若い女」というアイコンが存在価値として大きすぎるアイドル界において、ほかでもないあーりんがこう歌ってのける意義は計り知れない。
あーりんだから歌えるのだ。
あーりんのソロ曲に意図的に埋めこまれた「成長期よ14歳」「私も高一」「あーりん今18歳」その時々の年齢を現在の年齢にすり替えることなくそのまま歌うアンコール。
年齢をただの数字にしたのである。


"あーりん"というアイドルは、年齢も自己も他者も越えて、ファンの視線に存在を左右されない確立された概念となって我々を魅了しつづけるのだ。
アイドルをまなざす観測者でしかいられない私は傲慢にも語るための言葉しか搾り出せない。


あとは今月末のソロコン第二弾はレポ待ちします。。在宅なので。