青い月のためいき

百合とかBLとか非異性愛とかジェンダーとか社会を考えるオタク

山戸結希『あの娘が海辺で踊ってる』蜜月の終焉、私のための映画



中学生のとき恋愛感情で好きだった女の子がいた。
猛烈に好きだったけど、その子には別の仲のよい女の子がいた。
とても仲のよかった。端から見ていてのぼせるほどに。互いのメールアドレスにさも意味ありげに同じ日付の数字列が並んでいて、私が「ふたり付き合ってるでしょ?」と探りをいれると「えー、付き合ってなーいよお♡」と返された。
ある日ふたりが抱き合って幸せそうに笑っているところを見かけて私は敗北を認め、三ヶ月程度の恋が砕けた。


私が女を好きだとカミングアウトすると、ときたま、「私も中高生のころすっごい好きですっごい好きあってることを互いに確信しあって急速に親密に近づいた女の子がいたよ」と打ち明けられることがある。
まがりなりにもセクシャリティのことを考えてきた身としては、一瞬、「私の抱えて"恋愛"と名づけてきたプライドはそんなちゃちな過去にして片づけてしまえるものじゃない」と腹立たしくなる。
でもそのあと冷静になる。
私と彼女の感情に本当にそんな違いがあるのだろうか?

中学生のとき好きだった女の子と数年後に再会したとき「私もバイだよ」とカムされた。
あのころあの娘と付き合ってたの?と聞くと「あの娘とはそういうのではなかった、けど、そうだね、あのときは限りなくそうだった。共依存だった。いろいろあってわかれちゃったけど」と返された。

私が敗北を認めたときのふたりの目は、私の知る限り、カップルの持つ甘やかな幸福とまったく同じものだったことを強烈に覚えている。




これはわたしの映画だ。世界でいちばんわたしのためにつくられた映画だ。
『あの娘は海辺で踊ってる』には日本中の女の子にそう思わせる力を秘めている。


女同士の依存関係が男の介入によって破壊される。
あらすじはこれだけ。
これだけの物語に、絶対忘れたくない、私たちがそれぞれ孤独に抱えてきたはずの、失われてしまった大切な思い出が投影される。

そう。最後に私たちの関係は失われてしまう。私に「実は……」と打ち明けてきた女の子たちの物語もすべて過去形だ。その最後はそれぞれに悲しい。


なぜ過去になってしまうのか。
思春期特有の一時の感情だから?
ちがう。一時の感情だとそのとき思っていなかった。そんなものを考えるよりあの娘のほうが大事だった。ふたりの蜜月が大事だったのだ。

女同士の蜜月が「思春期特有の一時の感情」に「させられてしまっている」社会構造は、以前のエントリで解体した。

koorusuna.hatenablog.jp

それを山戸結希が表現するとこうなる。

予感だけが蠢く。生活のすべてに前兆がある。きっと必ず男を愛す。それだけの日が待っている。それだけの日を待っている。

(あの娘新聞 号外 平成24年11月号 編集長山戸結希より)

女性として「孕んで」しまった菅原は処女舞子との別れを余儀なくされる。
どうして私たち一緒になれない? 一緒にいられない?
それは舞子が処女だからだ。菅原が男と契ってしまった時点で処女は女と分離されて殺される。女は男に消費される。それこそが唯一絶対の幸せで、女同士の蜜月はとるにたらない、男と契るまでの「練習」として無化されるからだ。
こうして女は処女でいられなくなり、処女と別れて、失われた思い出を反芻するしかできなくなる。


どれだけ一緒にいたかったか男にはわかるまい。
どれだけあの娘を愛したかわかるまい。
どれだけかなしかったと思う。
私たちの切望した愛しさとただそればかりある悲しみが映画に投影される。



舞子「さようなら、わたしのものだったあのひと」

2017年の再上映で二度めの『あの娘』を見た。
そういえばわたしのための映画だったんだ、と思った。
わたしのための映画だ。
わたしは女が好きだった。女を愛していたかった。
でも社会は女が女を愛することを全力で阻んできて、2016年、私は改めて、もう一生女を好きになれないのだと絶望した。


忘れたくない。
私は女を好きな私を殺された。
けど忘れたくない。
流産むなしく墓場にさようならと告げた舞子。餞別を贈り、けして同じになれない水を掬い、熱海駅の改札で舞子の姿を探す菅原。
涙があふれて仕方なかった。
一緒にいたかった。いつまでも蜜月を分けあっていられると信じていたかった。
そんな切望と呼応するようにパピコは床に捨ておかれどろどろに溶け男と分けあうように供えられ、パンケーキは粗雑に取り残され、パフェは男と契られほかの女への貨幣になる。


>少女期のあの地獄って、思春期が終わったら女性から切り離される問題というわけではなくて、身体がある限り永遠に追いかけてくる地獄なんですよね。

>容易に言葉にするには困難な普遍の生き地獄が、きっとすべての女性に共通してあって。それは、きっと男の人と添い遂げても、子どもを産んでお母さんになっても、消滅せずに並行世界としてずっとある地獄なんじゃないのかなって予感として響きながら。

日本の女の子にとって転換期になるような作品を『溺れるナイフ』山戸結希監督インタビュー AM

私たちの体は男に消費されるためにある。
そんなこと信じたくない。そんなわけない。あの娘に見ていてほしかった。
あの娘のためだけにこの胸は高鳴ってほしかった。
あの娘にすべてを捧げたかった。捧げられていたかった。そういう依存がいちばんほしかった。

舞子「依存でなにが悪いの。愛しあうって共依存でしょ」


悲しみは一生つづく。
古野がいちばん怖い。
自分に権力が付与されていることを自覚しない男。女の蜜月を壊す力をなんとも思っていない男。そんなの知らない勝手に壊れたんだと言うんでしょう。「女は顔じゃない」と言いながら女をジャッジする力を手放さない男。「芸能界は大変だよ」と高みから消費の厳しさを説く男。
友人とすこしばかり離れてもホモソーシャルは永遠と信じていられる男が怖い。


女に都合のよくないことはぜんぶ男が悪いと言うのは間違ってる。
男にすべて責任を押しつけて責めるのは間違ってる。奪うつもりもない男に対して男は奪う存在だと断罪するのは間違ってる。
男だって男に生まれたかったわけじゃない。
でも、奪うつもりがないなんて言いながら奪っていくじゃない。へらへら笑って女を閉塞の手のなかに押し込める権利を当然だと力を振るっていくじゃない。そんな男を責めないのも間違ってる。

舞子は消費される。すり減らされにいく。どうせ消費されるための体なら美の力を携えて自分の意思で消費されにいく。

私たちは地獄にいる。どうせ男と契るなら自分の手足を手放さないで体を自分のものにして自分から飛び込んでいくほうがずっといい。
この地獄のなかであの娘と別れた痛みを抱えて生きていく。
男に消費されまいと抗う地獄、あの娘と別れて男に消費される地獄、ふたつにひとつだ。
消費されてしまえば女の幸せとやらが待っている。抗う地獄は先がなく救われない。
だから抗うことをやめていく。やめていった私たちは、あの娘が海辺で踊ってる、かの美しい餞別だけを胸にしまって愛しかったとひと撫でする。