青い月のためいき

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ファフナーが描いた少女漫画性――前世もの類型から見る生まれ変わった総士の姿

引用部分色つき太字。
妖狐×僕SS』『ぼくの地球を守って』のネタバレあり。

これはあくまで前世もの類型という外的文脈に依拠する“分類”であって、総士がどのような存在であるか、あるいはファフナーという物語があの総士を希求した理由の考察ではないです。

koorusuna.hatenablog.jp

前回の記事では「前世もの」作品の構成要素を分解・分析しました。
「前世もの」の定義は「生を越えてつづく自己に懐疑を抱く転生作品」として、運命と自我の兼ね合いに反発・葛藤・考察しない転生作品と区別しました。



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さて。
ファフナーを輪廻の物語として見たとき、これもまた「前世もの」として捉えられることがわかります。
ファフナーは生を越えてつづく自己に懐疑を抱いた転生作品(の亜種)です。



元々『蒼穹のファフナー』は大いなる運命、輪廻のことわりを獲得する物語でした。

「最初は、みんなひとつだった。大きくて深い場所」
(『蒼穹のファフナー』15話)

『蒼穹のファフナー』15話
「同化現象って言うんだって
僕たちの体のなかに記された、遠い場所への帰り道なんだって」
(『蒼穹のファフナー』15話) 

フェストゥムの祝福は「無」でした。
いなくなったら何も残らない停滞が待ち受けていました。
それが人類と関わるうちに変わっていってついに生命の循環を理解したのが無印のラストです。

『蒼穹のファフナーRIGHT OF LEFT』
代謝って体を生まれ変わらせることだよな。お前たちもそれを手に入れた
それって命になるってことだろ」

(『蒼穹のファフナーRIGHT OF LEFT』)

『蒼穹のファフナー』25話
「ミールに教えてあげないと。生命にとって、終わることが新しい始まりであることを。
生と死がひとつのものとして続いていくことを」

(『蒼穹のファフナー』25話)


ファフナーは古来SFが描いてきた「自我の融解」が一定の静止状態である物語を克服したのです。
それは奇しくも運命を受容する少女漫画性の獲得でした。

参考:

エヴァンゲリオン』の中では「自我の融解」が、逃避かもしれないが選び取りさえすればそこにある一つの理想郷、一つの帰結、至福の静止状態として認識されているのに対して、少女マンガにおけるそれは、あくまでも一つの始まり――そこから存在が個別に変化し、枝分かれしていく?始源?の状態――として認識されているということだ。
(『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』藤本由香里/p321)

また、ファフナーは「受容」がひとつのキーワードでもありました。

『蒼穹のファフナーEXODUS』26話
「俺は、お前だ。お前は、俺だ」
「敵のミールの鼓動……。一騎が、敵の意志を同化した」

「そう。受け入れることもひとつの力だよ」

(『蒼穹のファフナー』26話)


『蒼穹のファフナー』24話
「無論真壁紅音自身にとってもそれは不測の事態だった
だが我々と接触した瞬間、我々を迎え入れ、祝福した」

(『蒼穹のファフナー』24話)

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「受容」は少女漫画の特徴のひとつです。
大いなる超自然の運命に反発するのではなく受容する。それは今につながる清濁併せた過去も受容するということ。
だから過去は変えられないものなのです。
HEAVEN AND EARTHまでファフナーはとても少女漫画的な作品でした。



ところがEXODUSは少女漫画的要素を薄め、受容するばかりでない抵抗と希望を積極的に勝ち取る姿勢をあらわにしはじめました。
それが「運命に抗うことで見出される希望」というキーワードに表れています。

運命をただ受容していたら無慈悲で残酷な絶望しか残らず一番希望に満ちた未来にはたどり着けませんでした。
抗わなければならない。しかし過去は変えられない。だからカノンは未来を変えたのです。
(運命を受容するタイプの少女漫画では、「今」を変えて未来に繋ぐことはあっても「未来」に干渉することもできません)

また、「力」という言葉を多用するようになります。
乙姫は「受け入れること」を理解すべき力だと言いましたが、織姫は与えられた力を能動的に利用することを正しく理解せよと乙姫以上に突きつけました。
支配力へのまなざしも強め、ニヒトとレゾンの支配性の対比も描きました。
「力」をコントロールできるかどうか。今までのファフナーでは命題にならなかったことです。

そして過去が現在に寄り添う物語から目標を未来に設定してそこへ到達しようと邁進する物語へと変化しました。
少女漫画の構造ではあまり主流だと言えないものです。

『蒼穹のファフナーEXODUS』13話
君は知るだろう
本当の悲劇は絶望によって生まれるのではないことを運命に抗うことで見出される希望それが僕らを犠牲へと駆り立てた(『蒼穹のファフナーEXODUS』13話)

ファフナーは運命をただ受容する物語を手放しました。
そしてそれは「輪廻の解脱」に帰結しました。
すなわち、一騎が人の生死のことわりを抜けました。(もしかすると「同じもののコピー」となって「生命の本質からはずれた」かもしれない総士もそうと言えるかもしれませんが先に言ったようにここでは問題にしません)

「運命」とは絶対に抗うことのできない超自然の支配的な力です。
その究極が死。それは単なる「因縁」の意味での「運命」ではない、「大いなる運命」に回収され得ます。
この救いようのない、変えようのない「死」をも少女漫画は受け入れます。
けれどもファフナーはそうではなくなりました。
「全ての虚無」から「輪廻の受容」を得たファフナーが「輪廻の解脱」に帰着したのです。



さて、「前世もの」を見ていきます。
二代目総士は「前世」(とあえて言います)の初代皆城総士とはどういう距離感であるか。


前世ものにおいて「前世」は基本的に「現世」を縛り脱却すべき枷となります。

『スピリットサークル』水上悟志/3巻p22
「おれはフルトゥナなんかに負けねえ!!
フォンにも ヴァンにも フロウにも!!」

(『スピリットサークル水上悟志/3巻p22)

しかし少女漫画寄りの作品は前世の自我をも含めて現世の自己に引き継ぎそれを受け入れることができます。
今までのように少女漫画的な物語であったなら、ひょっとすると二代目総士と初代総士の自我が統合される可能性もあったかもしれません。

『ボクラノキセキ』久米田夏緒/4巻p90-p91
「なかった事にも…忘れる事もしない
全部まとめて俺だから」

(『ボクラノキセキ久米田夏緒/4巻p90-p91)

ファフナーは少女漫画ではありません。
少女漫画ではなくなりました。

織姫は芹とともに皆城乙姫の灯籠を流して乙姫に別れを告げました。
皆城織姫は皆城乙姫とは別の存在であり、二者の人格は統合されませんでした。

総士は記憶を失いました。記憶が欠け左目の傷を失った総士はもはや我々の知る皆城総士ではなくなったのです。


しかし初代総士は二代目総士の「脱却」すべき枷になるでしょうか。
二代目総士は「前世」を切り離して今だけの自分の人生を生きるべきなのでしょうか。


制作スタッフ陣含め我々は皆城総士への愛着を脱却したくはありません。
加えて、言うまでもなくファフナーは過去を捨てるような冒涜を許さないのです。
未来を求める物語に変わってもずっと、過去は寄り添っています。

よってもしもEXODUSの続篇があるとすれば、ファフナーは「違う人間だけれども本質は同じ」という描写を採択するのではないかと個人的に思っています。
それは既にEXODUSにて皆城織姫の本質が皆城乙姫と同じであったという描写で示されました。

参考:

『妖狐×僕SS』藤原ここあ/8巻p33-p34
彼の中にもある生まれ変わっても変わらない業。
(中略)
それが「君」の正体なんだね

(『妖狐×僕SS藤原ここあ/8巻p33-p34)(中略は引用者による)

だからそのときは一騎が「お前って本当に不器用だな」と言ってくれるはずです。きっと。
(私自身はあまりEXODUSの続篇は望んでないですが)



さて、ファフナーは少女漫画でなくなったと言いました。
しかし少女漫画性を完全に破棄したわけではありません。基本的には運命を受容する物語です。
だからこそ輪廻を解脱した一騎が異質な存在なのです。
その一騎も「俺は、お前だ。お前は、俺だ」の受容の精神をEXODUSでも発揮しました。

参考:

少女漫画を読んでいると、戦後民主主義がことあるごとに唱えてきたアクティブさが機能不全に陥り、何かをそのままの形で受け容れるという瞬間が訪れた時に救いがやってくることが多い、受容性がむしろ何かを生むきっかけになるということです。
(『戦後民主主義と少女漫画』/飯沢耕太郎 章:終章 純粋少女と少女漫画のいま 節:少女原理とは何か? 7段落)

『蒼穹のファフナーEXODUS』8話
「運命を受け入れなさい

たとえどんなものでも人と彼らの架け橋になるために」

(『蒼穹のファフナーEXODUS』8話)

『蒼穹のファフナーEXODUS』26話
「すべてを受け入れて世界を祝福するとき、誰もが希望に満ちた未来を開く
いつだってそれは信じていい未来なんだよ。総士

(『蒼穹のファフナーEXODUS』26話)

祝福を受け入れ自身が世界を祝福し、清濁併せた運命を受容する。
それゆえに過去からつづいてきた今を肯定する。
たとえどんなにつらい思い出があっても過去は絶対に変えられない。いなくなってしまった人を取り戻すことはできない。

『蒼穹のファフナーEXODUS』9話
「平和な夢は見られたか、一騎」

「よく寝た。いい夢だった。たぶん」

(『蒼穹のファフナーEXODUS』9話)

この夢は「翔子も衛も誰もいなくならなかった夢。だけど過ぎてしまったことだからたぶんと付け足した」のだと明かされました。(2015/5/24『蒼穹のファフナーEXODUSスペシャルイベント-痛み-にて。うろ覚えですが)
これはまさに過去からつづいてきた今、運命の受容です。

過去があるから今がある。過去からつづいてきた今をもって未来へ繋いでいく。
少女漫画の前世ものはそれを静かに受容できるのです。

参考:

ここで語られているのは、けっして停止しない永遠の回帰の感覚である。そこには依然、葛藤もあり、苦しみもある。だが、世界は私である。たとえどんな存在の仕方にせよ、「私」は世界に影響を与えている。世界は私無しでは、いまとは違ったものになってしまうのだ。
(中略)
今まであなたの生にかかわってきた「生命」たちは、「あなた」の身体を通して、「未来」に還っていこうとしている……。

(『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』藤本由香里/p322-p323)(中略は引用者による)

『ぼくの地球を守って」日渡早紀/?巻p?
「私達はみんな未来へ…未来へ還るの
幾度も転生を繰り返して
銀河系も…地球も…回帰…しながらみんな未来へ還っていくんだわ
貴方が…こんなに懐かしいのも きっと…未来でまた出逢えるからなんだわ」
(『ぼくの地球を守って日渡早紀/20巻p26-p27)


『蒼穹のファフナーEXODUS』26話
「ねぇ、あの向こうには何があるの?」
「世界と、お前の故郷が」

「世界、故郷……」
「…………行こう、総士

(『蒼穹のファフナーEXODUS』26話)

『蒼穹のファフナーEXODUS』26話
君は知るだろう
苦しみに満ちた生でも存在を選ぶ心。それが僕らを出逢わせるのだと
世界の祝福と共に僕らは出逢いつづけ、まだ見ぬ故郷へ帰りつづける――何度でも

(『蒼穹のファフナーEXODUS』26話)

総士はすべてを受け入れて生まれ変わる道を選びました。
過去を受け入れ今を肯定し未来の今へ生を繋ぐ。
地平線の向こうの世界が「故郷」であれるのはたとえ姿を変えようと総士のその魂が懐かしい未来へと還っていくからなのです。



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ぼくの地球を守って』研究のために印刷してた『私の居場所はどこにあるの?』p321-p323を放送中何度も読み返していた。
私の人生の根幹はぼく地球なのでこそうしが「懐かしい未来」を手に入れたことにどれだけ興奮したことか。

私の嗜好これなんだなあと改めて。「懐かしい未来」、昭乃さんもまたそうである。だからEXODUS最終回当日の昭乃さんのライブ号泣して大変だったのだ……。

見たこともない風景 そこが帰る場所
たったひとつのいのちに たどりつく場所

VOICES/新居昭乃

少女漫画性というより母性云々といったほうがいいのかもしれないがそのへん浅学だしあんまり「母性」に固着した物言いは苦手(というより母性礼賛のイデオロギーが苦手)だし少女漫画のほうが馴染みがいいからなあ。
それと現代における「少女漫画」という語の「恋愛もの」に限定した扱われ方を相対化したい思いはいつでもあるから……。

でも「基本的に少女漫画である」というよりは今まで「陰」の物語であったファフナーがEXODUSで「陽」の要素を強化し全体性を獲得したと見るほうが本質に近いと思う。


そしてとりあえず提示された情報的に総士とこそうしの人格は統合されないと個人的には見ていますけどそこまで絶対にありえない話か?と言われればわからないし妄想は自由だと思うんですよね。

過去を受け入れ統合しないかなあ。過去を受け入れる前世ものだって別に常に人格統合してるわけではないけれど。

参考:

『イティハーサ』水樹和佳子/15巻p30
わたしたちはすでにわたしたちではなくわたしなのです

わたしはわたしであることを受け入れました…わたしであることの希望と絶望の両方を…

(『イティハーサ水樹和佳子/15巻p30)(傍点省略)