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青い月のためいき

少女漫画とかアニメとかセクシャリティとかの考察・分析。

考察にあたって

ブログスタンス

娯楽作品を読み解いていくにあたって、自分の考察スタンスを記しておきます。
私がどういうつもりで考察行為をしているかの開示であり、自分のなかで整理して意識におくためであり自戒であり。


・考察の定義:考察とは「根拠を明確にした」「一解釈の発掘」

これが私の「作品考察」の定義です。あくまで私の。
たとえ根拠そのものが弱くても、明確な根拠を指摘していればそれは「考察」。
逆に根拠を指摘しない語り口は自分の中で「考察」と呼びません。
そういったものは、根拠がないわけじゃないけれど「読解」「語り」とひとまず言います。

そして一番重要なこと。「一解釈の発掘」。
作者の意図は関係ないし、自分の解釈が正しいと主張するつもりも毛頭ありません。
私はこういう読み方をしましたという自論展開です。
「考察」に対して「作者はそんなこと考えてない」という指摘はすべて無意味だと思ってます。作者の意図も参考にはするけれど。


・考察=理屈でも膏薬でもなんでもくっつける行為

繰り返しになるけど設定した視点や軸において筋が通っていることが重要であって、その理屈が正しいかどうかはさしたる問題ではない。
そして「正解」の存在しないものにおいて理屈がくっついてしまったのならそれは「ひとつの解」であることは確か。
なので作品そのもの(例えばジェンダー考察なんかの外的基軸を設定しないもの)を読解する際には、「テキストに沿っているかどうか」は重要視します。
テキストから立ち上ってくる「作品が表したもの」に関しては整合性が取れるように読みたい。
だから「作者はこう言っている」ではなく「作品はこう言っている」という言い方をすることはあります。
それができておらずテキストに対して不誠実である論は誤読として棄却または修正すべき。


・でも受け手には「誤読」をする特権がある

これは「考察」スタンスの話ではなく、楽しみ方の話。
作品が絶対じゃなくていい。気に入らない記述を歪曲して、なかったことにして、もしくは情報優先順位を下げて、気に入る記述を過剰に採用する特権が、ある。
ある種軽蔑される向きもあろうけれども、楽しめなくなるよりずっといい。
いつだって娯楽の主体は自分。
その上で「考察」として作品に向き合う場合のみ、できる限りテキストに忠実でありたい。
注意すべきは、作品の記述を絶対視することだけが作品に対して真摯であるわけではないということ。
娯楽であれる以上、作品を楽しむ姿勢こそが真摯であるということ。


・自分の論に当てはまる作品を探してもよい

「自分の好みに」と言い換えてもいい。
当てはまらない作品を無視してもよい。
作品の可能性を広げることが目的であればいざ知らず、個人が個々に楽しむために閉じた一定の切り口を持ち作品に対して当てはまるかどうか品定めしてから振りかざすのはありだと思います。
ただし複数の作品を紐づけて語る際に作品を意図的により分けたり少ないサンプルで結論を急ぐのは恥ずかしいわと付記しておく。
自戒。


のちのち個々にエントリ立てるかも。
とりあえずここまで。自分の主張に自分が従えるよう頑張る。